境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第五十六話:女帝の覚醒、波を統べる黒鳥
(視点:黒鳥沙耶)
ゴォォォォォォォォ…………。
遠く、地下深くのトンネルの奥から、重低音が響いてきた。
風が生まれ、張り詰めた空気をビリビリと震わせる。
それは、この静森町の地下を永遠に回り続けるという、あの秘密の地下鉄が、この『黒野屋』の駅を通過しようとしている音だった。
「………」
私の目の前に立つ、九蛇絵里亜の顔に、嗜虐的な笑みが浮かんだ。
彼女は、自身のポケットからあの黒いリモコンを取り出すと、通過する電車の轟音にタイミングを合わせるように、ボタンを深く押し込んだ。
カチッ、カチッ、カチッ。
「さあ、お遊戯はここまでよ」
絵里亜が冷酷に宣言する。
「味わいなさい。 …レベル4の揺れを!」
ドゴォォォォォォン!!!!!
地下空間が、爆発したように揺れた。
これまでのレベル1や2とは、次元が違う。
大地が怒り狂い、コンクリートの床が波打ち、純白のランウェイステージがまるで嵐の海に浮かぶ小舟のように激しく上下左右にうねり始めた。
震度4に匹敵する、立っていることすら不可能な殺人的な激震。
「う、うわあああああっ!!?」
「きゃあああああっ!!」
私の背後から、結花と魅音の悲鳴が上がった。
振り返るまでもない。
二人は、この唐突で暴力的な揺れに全く対応できず、両手両足をステージの床に突いて、這いつくばっていた。
「くそっ…なんだこの揺れは…! 立てねぇ…!」
魅音が、自慢のハイテクブーツを床に擦り付けながら、必死に踏ん張ろうとするが、無慈悲な横揺れが彼女のバランスを根こそぎ奪っていく。
結花に至っては、デニムスカートの裾がめくれるのも構わず、カエルのように床に伏せて、振り落とされないように必死にしがみついているだけだ。
無理もない、地上の温室(スタジオ)で育ったプレイヤーに、この揺れは耐えられない。
だが。
「………」
私は、その荒れ狂うステージの上で。
深紅のドレスの裾を揺らしながら、ただの一歩も動くことなく、完璧な仁王立ちを保っていた。
「………えっ?」
絵里亜の口から、間抜けな声が漏れた。
彼女は、揺れに合わせて膝を柔らかく使い、サーフィンのように振動を吸収して立っていた。
それが彼女たち『歩き巫女』の専売特許であり、圧倒的な優位性(アドバンテージ)のはずだった。
レベル4の揺れの中で平然と立っていられるのは、地下鉄の過酷な環境で血を吐くような訓練を積んできた自分たちだけだと、彼女は固く信じていたのだ。
だからこそ、私が微動だにせず、真っ直ぐに彼女を見据えているという事実が、彼女の脳内で処理しきれなかったのだろう。
「…どうした、絵里亜」
私は、顎を少し上げ、見下すように言い放った。
「この程度の揺れで…私を足止めしたつもりか?」
「…くっ…」
絵里亜の銀縁メガネの奥の瞳が、明らかな焦燥に揺れた。
(…なぜだ?)
彼女の心の声が聞こえるようだった。
(なぜ、ただの地上のモデルが、レベル4の揺れに耐えられる!? 偶然か? いや、あの姿勢…完全に揺れの芯を捉え、重力を支配している…!)
当然だ、お前は知らないだろうが、私は可憐の特訓を受け、日曜早朝の、誰もいないあの地下鉄の『快速電車』の中で、誰よりも過酷なウォーキングを強いられてきたのだ。
お前たちが温い集団訓練をしている間に、私は孤独な闇の中で、血の滲むような努力でこの「揺れ」を完全に自分のものにしてきた。
私にとって、このステージの揺れなど、懐かしいゆりかごに過ぎない。
「…ちぃっ…!」
絵里亜がギリリと歯噛みする。
私は、ふと自分自身の身体の内側に目を向けた。
(…さて)
私は、胸の奥で渦巻いている、ある「力」の存在を確認していた。
先ほど、あの時渡りの化け物、佐々木梨花によって、強制的に私の遺伝子に刻み込まれた『血の束縛』。
海割り(月の巫女)を検知するための生きたレーダーにされたという、一生消えない屈辱の刻印。
だが、あの女は最後にこう言った。
『おぬしの美と能力は、常に通常時の1.2倍の輝きを放つようにしてやった。 …私からのささやかな贈り物だ』と。
冗談じゃない。
勝手に私の体を弄り回しておいて、何が贈り物だ。
しかし、現に私の体は、今までにないほどの軽さと、そして恐ろしいほどの熱(エネルギー)を帯びていた。
細胞の隅々までが酸素に満ち溢れ、皮膚の下で何か強大な力が脈打っているのを感じる。
(…試させてもらうぞ。 あの化け物の言葉が、本当かどうか)
私は、目の前で焦りを見せている絵里亜に向かって、傲然と言い放った。
「どうした、絵里亜。 お前の攻撃は、そのリモコンを使ってステージを揺らすだけなのか?」
「…なんだと?」
「それだけなら…こっちから行かせてもらうぞ」
私は、頭上の闇に向かって、低く、しかしよく通る声で命じた。
「レッド、出番だ」
カァァッ!!
天井の暗がりから、赤い首輪をした烏『レッド』の鳴き声が響いた。
さっき、あの化け物(梨花)が現れる前に、私がレッドに仕込んでおいた照明コントロールの指示。
バツンッ!!
一瞬にして、ステージ上の照明が全て落ちた。
再び、完全なる闇が私たちを包み込む。
「また…『烏イリュージョン』か!」
絵里亜が闇の中で警戒の声を上げる。
「暗闇に隠れて奇襲する気だろうが、この揺れの中じゃ、私の耳と感覚をごまかすことはできないわよ!」
「奇襲? …誰がそんな小賢しい真似をするって言った?」
私は、闇の中で深紅のドレスの裾を、両手で大胆にたくし上げた、そして
「照らせ、レッド!」
パッ!!
一本の強烈なスポットライトが、私だけを、いや、私の「下半身」だけを、暗闇の中に鮮烈に浮かび上がらせた。
「烏イリュージョン『レッグアップ(脚部強調)』」
「………ッ!?」
絵里亜の息を呑む音が聞こえた。
そして、後ろで這いつくばっていた結花も、その光景を見て声を上げた。
「こ、これは…烏イリュージョン、レッグアップ…! 沙耶が得意とする技だ…!」
結花の声は、震えていた。
「だが…いつものレッグアップじゃない…。 な、なんというか…視線が、魂が…吸い寄せられる感じがする…。 なんだ、あの…凄まじい色艶は…!?」
結花の直感は正しかった。
スポットライトに照らされた私の脚。
『5デニール・ジェットブラック』のストッキングに包まれたその曲線は、私自身が上から見下ろしても「異常」だと分かるほどに、別次元の美しさを放っていた。
ストッキングの繊維の一本一本が、まるで黒真珠のように濡れた輝きを放ち、その下の肌の透け感は、見る者の理性を直接溶かすような猛毒の色気を帯びている。
筋肉の僅かな収縮、膝の関節の陰影、そして足首からクリスチャン・ルブタンのピンヒールへと繋がる完璧なシルエット。
これが、『1.2倍』のバフ効果。
もともと市場で「5億5千万」の価値を持つ私の脚が、さらに底上げされているのだ。
その破壊力は、もはや人間の理解を超え、可憐たち『匠』と同じ「神の領域」に足を踏み入れかけている。
もちろん、私が梨花に改造されたことなど、結花たちは知らない。
だからこそ、純粋な「美の暴力」として、私の姿が彼女たちの脳を直撃しているのだ。
「おい、結花…」
這いつくばったままの魅音が、掠れた声で言った。
「あいつ(絵里亜)を…見てみろ…」
結花が、視線を絵里亜の方へ向けるのが気配で分かった。
そして、私自身も、スポットライトの反射光で薄っすらと見える絵里亜の姿を確認した。
「………あ………」
絵里亜は…あの、氷のように冷徹だった『歩き巫女』は、私の『レッグアップ』の前に、完全に呆然と立ち尽くしていた。
微動だにしない。
いや、動けないのだ。
彼女の目は、私の脚に釘付けになり、銀縁メガネの奥で、その瞳孔が極限まで見開かれている。
「はぁ…はぁ……あぁぁ………」
絵里亜の口から、抑えきれない荒い吐息が漏れる。
そして、彼女の澄んでいた白目が、急速に、どす黒い赤色へと染め上げられていくのが分かった。
「…嘘でしょ…」
結花が呟く。
「あの蛇女の目の赤みが…もう、第一境界線突破目前、落ちる寸前じゃない…!」
絵里亜の強靭な精神力が、私の放つ1.2倍のフェロモンと視覚情報によって、ゴリゴリと音を立てて削り取られているのだ。
「きゃあああああああっ!!!」
ついに、絵里亜が頭を抱えて悲鳴を上げた。
揺れる床の上で、彼女の完璧なバランスが崩れ、よろめく。
「…おいおいおい」
魅音が、信じられないものを見るように言った。
「なんだ今日の沙耶は? なんであんなに…あんなに綺麗な脚をしてやがるんだ…?」
魅音の言葉には、味方である私に対する恐怖すら滲んでいた。
「俺でも…もしあんなの真正面から見せられたら、瞬殺されそうだぞ。 …なぁ、結花?」
結花も、ゴクリと唾を飲み込んで答えた。
「…ああ、お前も感じたか? …あの異常なほどの色気。 なぜか分からんが…」
結花は、ふとハッとしたように言った。
「はっ、もしかして…あの『ヴィーナス』の注射の…影響か!?」
「いや、それにしてはおかしいだろ?」
魅音が即座に否定する。
「だってよ、さっきまで(梨花が倒れる前)の沙耶は、あんな化け物じみた色気を出してなかっただろ? 注射は随分前に打ってるはずだ。 急に効き目が上がるとか、あり得るのか?」
「…ああ、確かに…」
結花は黙り込んだ。
(…沙耶に何が起こったのかは分からないが…)
結花の心の声が、私には手に取るように分かった。
(今の沙耶は、ほぼ無敵に近い状態だ。 …さすがに、この沙耶にあの蛇女(絵里亜)は勝てんだろうよ)
その通りだ。
結花、お前のその絶望にも似た信頼、悪くないわ。
「………」
私は、スポットライトの中で、優雅に脚の角度を変えた。
ルブタンの赤いソールが、闇の中で一瞬だけ血のように閃く。
「がはっ…!」
そのわずかな動きだけで、絵里亜がさらに顔を歪め、膝をつきそうになる。
「な、なんなんのよ…これは…!?」
意識消失寸前の絵里亜が、充血しきった目で私を睨み上げ、叫んだ。
「明らかに、さっきまでのお前じゃないだろう!? …私が気絶している間に、変な薬でも飲ませただろ!?」
絵里亜は、自分の敗北濃厚を信じられず、いちゃもんをつけてきた。
私がドーピングをしたと疑っているのだ。
(…まあ、ある意味では正解だがな。 私の意志ではないにせよ)
私は、冷たく鼻で笑った。
「…お前みたいな雑魚相手に、そんなことして何の得になるんだ?」
私は、傲慢に、そして残酷に言い放った。
「第一、私は戦うのが好きなんだよ。 …自分の力以外で勝ったって、つまらないだろうが」
「ッ…この、アマァァァッ!!」
私の見下した言葉が、絵里亜のプライドを完全に粉砕した。
『歩き巫女』としての誇り。
教団のエリートとしての自負。
それら全てを否定された彼女は、ついに理性を吹き飛ばし、カッとなって私に向かって突進してきた。
「殺してやる…! 殺してやるわ、黒鳥沙耶ァァ!!」
だが、怒りで我を忘れていても、彼女はやはり『プロ』だった。
決して「走る」というルール違反は犯さず、その怒りを推進力に変え、彼女の最も得意とする歩法『アイススネーク』で、猛烈なスピードで距離を詰めてきた。
タタタタタッ!!
レベル4の激しい揺れをものともせず、蛇行しながら私へと迫る絵里亜。
その執念には、素直に感心する。
(…来るか。 いいだろう)
私は、迎え撃つ体勢をとった。
絵里亜が迫る。
距離、5メートル。 4メートル。
そして。
(…今だ)
私と絵里亜は、お互いの『クリティカル距離(約3.5メートル)』へと同時に踏み込んだ。
相手の全身の美しさと、脚のディテールが、最も鮮明に脳を直撃する魔の間合い。
だが、絵里亜はすでに第一境界線を突破する目前であり、怒りで視界が狭まっている。
自分が今、最も危険な距離に入ったことなど、気にする余裕もないはずだ。
しかし、私は違った。
私は、この『クリティカル距離』の恐ろしさを誰よりも熟知し、そして冷徹に把握していた。
「とどめだ」
私は、低く囁いた。
「今、お前の意識を刈り取ってやる」
私は、ニヤリと口角を吊り上げた。
そして、レベル4の激震で荒れ狂うステージの床を、ルブタンのヒールで強く、そしてしなやかに踏みしめた。
「烏イリュージョン・レッグアップ」
光に照らされた1.2倍の美脚を、さらに凶悪な武器へと変える、私のオリジナル歩法。
「『ウェーブスワン(波乗り黒鳥)』!!」
私は、ただ歩くのではない。
ステージの激しい隆起と沈降、その「波」の動きに、自身の骨盤の動きと重心移動を完全にシンクロさせたのだ。
沈む床には、柔らかく膝を曲げて追従し、跳ね上がる床には、その反発力をもらって、優雅に、そして力強く太腿を振り上げる。
それは、嵐の海を滑空する黒鳥の舞。
揺れという外的要因すらも、自身の『美の演出』へと取り込んでしまう、絶対的な空間支配。
「な、あ………ッ!!?」
絵里亜が、『アイススネーク』の体勢のまま、完全に硬直した。
彼女の目に、何が映ったのか。
揺れる世界の中で、私(沙耶)だけが、揺るぎない圧倒的な美の芯として存在し、しかもその美しさが波のように押し寄せてくる。
1.2倍のバフ効果が乗った『ウェーブスワン』。
それは、致死量などという生易しいものではなかった。
細胞を、魂を、直接消滅させるレベルの視覚ドラッグ。
「あ………ぁ………あぁぁ…………」
絵里亜の瞳から、完全に光が消えた。
怒りも、憎しみも、プライドも。
全てが白く濁り、彼女の顔には、ただ無抵抗な悦びだけが残った。
私は、一切スピードを緩めることなく、そんな絵里亜の横を、風のように通り過ぎた。
シュッ。
深紅のドレスが、絵里亜の白のジャケットをかすめる。
「………」
私が通り過ぎた直後。
グラッ。
絵里亜の長身が、揺れるステージの上で大きく傾いた。
もはや、揺れを吸収する機能は失われている。 彼女は、まるで伐採された大木のように、ゆっくりと、そして無様に、前方の床へと倒れ込んでいった。
ドサァァァァンッ!!!
鈍い音が、地下空間に響いた。
メタリックシルバーのサイハイブーツが痙攣するように一度だけ跳ね、そして、完全に動かなくなった。
「………」
私は、ステージの端でターンを決め、倒れ伏した絵里亜を見下ろした。 私の息は全く乱れていない。
勝負あった。
「…ふん。 他愛もない」
この瞬間、九蛇絵里亜の完全なる敗北が決定した。
そして、私が、この地下の闇の戦いの勝者であることを証明したのだ。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第五十六話:女帝の覚醒、波を統べる黒鳥 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
