『境界線上の視線』原点回帰の章:美脚への執着編【第11話:録音された欲望、狩人の反撃】
……そして、彼はついに、その「悪魔のシチュエーション」の核心を口にした。
「……私の顔の横に、その足を置いて……靴を脱ぎ……その『黒い足』で、私の顔を踏みつけるような動作を……していただけませんか?」
「なっ……!?」
私は絶句した。
踏む?
依頼人の顔を?
いくらなんでも、それは一線を越えている。
「で、できません。そんなこと……!」
「お願いします!」
河合様が叫んだ。
「実際に踏まなくていいんです! 寸止めでいい! ただ、その『黒い足裏』が、私の視界を覆い尽くす……その絶望的な光景を、もう一度目に焼き付けないと、私は前に進めないんです!」
彼は床に頭を擦り付けた。
「一生のお願いです……! 林先生の、その美しく、冷酷な黒い脚でないと、意味がないんです……!」
部屋に響く彼の悲痛な叫び。 カオリさんも、口元を押さえて涙ぐんでいる。
私は、混乱の中で、奇妙な高揚感を感じ始めていた。
彼を見下ろす快感。
私の脚が、一人の男の運命を左右しているという全能感。
それは、かつて氷上で感じたものよりも、もっと濃密で、ドロドロとしたものだった。
(……寸止めなら。彼を救うためなら……)
私の理性が、音を立てて崩れていく。
河合様の仕掛けた、罠。
その底なしの沼へ、私は自ら、その黒い足を一歩踏み出そうとしていた。
カツッ。
右足のルブタンが、前へと踏み出された。
あと数歩で、私の足先は彼の顔の横に到達する。
そして、ヒールを脱ぎ、5デニールの黒いナイロンに包まれた足裏を、彼の視界いっぱいに押し付けることになる。
それは彼にとっての「トラウマの克服」という名の、究極の救済。
――本当に、そうなのか?
踏み出した右足の筋肉が、一瞬、微かに硬直した。
私の脳裏を、過去の忌まわしい記憶の破片が猛スピードで駆け巡っていた。
物置部屋での、あの異常なストッキングの履き替え。
「僕たち二人の邪魔をするな」と冷酷に言い放った、神谷コーチの目。
表彰台でスケート靴を脱ぎ捨て、全国民の前でSOSを掲げた、あの氷の上の告発。
私は、足元に這いつくばる河合様の顔を、冷徹な視線で見下ろした。
床に擦り付けられた彼の額には汗が滲み、肩は小刻みに震えている。
カオリさんの目には、それが「恐怖に怯える哀れな被害者」に映っているのだろう。
しかし、十年前、神谷コーチという本物の怪物に文字通り「地獄」を見せられた私の目には、その震えの正体がはっきりと見えていた。
(……同じだわ)
あの時、母の黒いストッキング脚に触れた瞬間、神谷コーチが見せたあの歓喜の震え。
自分が作り上げた支配のシナリオが完成する瞬間に、彼らが無意識に漏らしてしまう、粘着質で、どす黒い「欲望」の震え。
目の前のこの男は、トラウマに苦しむ被害者などではない。
私とカオリさんの善意と純粋さを利用し、合法的に己の倒錯した欲望を満たそうとしている、極めて狡猾な『捕食者』だ。
カツッ。
私は踏み出そうとした右足を、元の位置へと戻した。
ヒールが床を叩くその乾いた音が、応接室の張り詰めた空気を切り裂く。
そして、私は感情を完全に切り離し、弁護士としての「氷の女王」の仮面を被り直した。
「……河合様」
私の声は、先ほどまでの戸惑いや高揚感など微塵も残っていない、絶対零度の響きを持っていた。
河合様が、ビクリと身をよじり、恐る恐る顔を上げた。
「せ、先生……?」
私は、応接室の重厚なローテーブルの中央に視線を落とした。
そこには、面談の最初から置かれている、黒いペンのような小さな機器がある。
「あなたの言動は、しっかりとこのボイスレコーダーに記録させていただきました」
「……えっ?」
河合様の顔から、芝居がかった悲痛な表情がスッと消え落ちた。
「あなたは『過去のトラウマ』という嘘を用いて、私やカオリさんの脚に触れようとした。……いや、すでにカオリさんの脚には触れているどころか、そのシチュエーションを心底楽しんでいましたね。あの『マッサージ』と称した接触も、すべてはあなたの欲望を満たすための計算だった」
「な、何を……」
「こんなことは、絶対に許されるべきではありません」
私は、9センチのルブタンの踵で床を強く踏み鳴らした。
5デニールの黒に包まれた私の脚は、もはや彼を喜ばせるためのものではない。
彼の罪を断罪するための、冷酷な剣だ。
河合様は、一瞬だけ狼狽した様子を見せたが、すぐに顔を上げ、挑戦的な視線を私に向けてきた。
「林先生……。何を根拠に、私の過去が嘘だとおっしゃるのですか? 私がどれほど苦しんできたか、貴女に何が分かるというんです!」
彼は立ち上がり、スーツのシワを払いながら、声を荒げた。 その態度の急変こそが、彼の本性を何よりも物語っている。
「根拠? そうですね……」
私は余裕の笑みを浮かべて見せた。
「なんなら、あなたの過去の冤罪事件が本当かどうか、私どもの懇意にしている調査会社に依頼して差し上げましょうか? 警察の記録、当時の勤務先の状況、すべて洗いざらい調べれば、あなたの話の真偽などすぐに証明できるはずです」
私の提案に対し、河合様の表情がピクリと引きつった。
当然だ。
そんな事件など、最初から存在しないのだから。
「……そ、その必要はありません!」
彼は少し早口になって反論した。
「私自身のプライバシーに関わることです。調査が必要なら、私が自分で探偵に依頼し、私の調査報告書をこちらに提出します。それで十分でしょう!」
苦し紛れの言い訳に、私は内心で冷たく笑った。
(底が浅いわね、河合様)
「……残念だったわね、河合様」
私は、腕を組み、彼を哀れむように見下ろした。
「自分で雇った探偵の報告書を、こちらに正式な証拠として提出したところで、それを法的に無条件で認めることはできないのよ。客観性と中立性が担保されていない証拠など、裁判では何の価値も持たない。……ご存じありませんでしたか?」
「っ……!」
河合様は言葉に詰まった。
自分が弁護士を相手に、いかに稚拙な反論をしているかに気づいたのだろう。
追い詰められた彼は、額に冷汗を浮かべながら、その矛先を、最も卑劣な方向へと向けたのだ。
「な、何を言うんだ……! そもそも、私は被害者だぞ!」
彼は、部屋の隅で呆然と立ち尽くしているカオリさんを指差した。
「私はただ、そこの鈴木香織に誘惑されたのだよ!」
「……え?」
カオリさんが、信じられないものを見るように目を丸くした。
「彼女は、顧客相手に自分の美貌がどの程度通用するのか、試していたみたいだったからな! スカートの裾を揺らし、わざとらしく脚を見せつけて……私は、それに乗ったふりをしてあげただけだ!」
それは、あまりにも醜悪な責任転嫁だった。
自分の嘘が通じないと悟るや否や、親身になって手助けしようとしていたカオリさんを「誘惑した女」へと仕立て上げようとする。
その卑劣さに、私は胸の奥底で激しい怒りが沸点に達するのを感じた。
(……やっぱり。神谷と同じ、自分を正当化するためなら他人の尊厳など平気で踏みにじるクズだわ)
「え? ど、どういうことですか!?」
カオリさんが、震える声で叫んだ。
「河合様が真剣にお悩みだったから、私はそのトラウマ克服の手助けをして差し上げようと思っただけで……誘惑なんて、そんなこと少しも考えていません!」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
先ほどの同情の涙とは違う、純粋な善意を泥足で踏みにじられた、悲しさと悔しさの涙だ。
「カオリさん、泣かないで」
私は彼女を庇うように一歩前に出た。
そして、河合様に向かって、決定的な一撃を放つ。
「河合様。このボイスレコーダーは、先ほどからずっとこのテーブルの上に置いてあったのですよ? ……気づきませんでしたか?」
私がテーブルの中央にあるペン型のレコーダーを指し示すと、河合様の顔色は土気色に変わった。
彼がカオリさんに「黒いストッキングに履き替えてほしい」「靴の中に香水を入れてほしい」と異様な要求をしたのも、私に「顔の横で靴を脱いで踏みつける動作をしてほしい」と懇願したのも、そして今の「鈴木香織に誘惑された」という見え透いた嘘も、すべてこの小さな機械に記録されている。
「な……っ!」
河合様は後ずさりし、わななく唇で私を睨みつけた。
「べ、弁護士ともあろうお人が、このような盗聴まがいの事をして……許されると思っているのか! これはプライバシーの侵害だ! 訴えてやる!」
彼が逆上して声を荒げた、その時だった。
「河合様」
涙を拭い、凛とした声で彼を遮ったのは、他でもないカオリさんだった。
彼女は、自分のデスクのバインダーから一枚の書類を取り出し、河合様の目の前にピシャリと突きつけた。
「この面談を承諾されたのは、他でもない、河合様ご自身です」
「な、なんだこれは……」
「当事務所の『新規面談に関する同意書』のコピーです。河合様、面談前にこちらにお待ちいただいている間、ご自身でサインされましたよね?」
カオリさんが突きつけた書類の署名欄には、確かに河合様自身の筆跡でサインが記されていた。
そして、カオリさんは、その書類の中段にある一文を、冷ややかな声で読み上げた。
「『第3条:面談内容の正確性を期すため、および防犯上の観点から、当事務所内での面談はすべて録音・録画されることに同意するものとします』……規約の部分をお読みになられたうえで、サインをされているんですよ?」
「……っ!!」
河合様は完全に言葉を失った。
彼の目は、書類のサインと、テーブルの上のボイスレコーダーを虚ろに行き来している。
トラウマの被害者を演じ、美脚の弁護士とその事務員を自分の欲望の舞台に引きずり込もうとした彼の野望は、彼自身がサインした一枚の書類と、見落としていた小さなレコーダーによって、完全に粉砕されたのだ。
「カオリさん、よくやったわ」
私は、毅然と立ち向かった彼女に労いの言葉をかけ、再び河合様に向き直った。
「さて、河合様。録音データという動かぬ証拠がある以上、これ以上の言い逃れは無用です。……お引き取りください。そして二度と、当事務所の敷居を跨がないでいただきたい。もし次に妙な真似をすれば、このデータを持って、直ちに警察へ……『威力業務妨害』および『迷惑防止条例違反』の疑いで相談に向かいます」
私の185センチの「黒い塔」からの、最後通牒。
その絶対的な圧力と冷酷な視線の前に、彼のなけなしの虚勢は完全に崩れ去った。
【第12話へ続く】
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
