境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第九十八話:仮面の下の真実、哀しき師弟の決闘
(視点:鈴木カオリ)
ガチャリ……。
重厚な鉄の扉が開かれた音は、静まり返った地下空間に、死の宣告のように響き渡った。
右目がショートし完全に機能を停止したアンドロイド、キララさんが横たわるクリスタルのステージ。
その奥、私たちが下りてきたコンクリートの階段へと続く暗がりの中から、一つの影がゆっくりと姿を現した。
コツン、……コツン。
鋭く、硬質なピンヒールの音が、一定のリズムで床を叩く。
それは、私たちが今まで対峙してきたどんな敵の足音とも違っていた。
希美さんのような大人の色気とも、アニメで出てくる、暗殺者のような無機質な殺意とも違う。
ただひたすらに重く、周囲の空気を凍りつかせるような絶対的な「圧」を持った足音。
薄暗い影の中からステージの冷たい照明の下へと歩み出てきたその女性を見て、私は思わず息を呑んだ。
全身を包むのは、身体のラインに極限まで密着した、黒のタイトなレザーのライダースジャケットと、同じく漆黒のレザーパンツ。
ランウェイバトルにおいて、脚の素肌やストッキングを露出させないパンツスタイルは極めて異例だ。
しかし、その艶やかなレザー生地は、彼女の驚異的なまでに長く、引き締まった脚の筋肉の躍動、太腿の張りからふくらはぎのしなやかな曲線までを、生々しいほどに浮き彫りにしていた。
足元には、凶器のように鋭く尖ったピンヒールのレザーブーツ。
そして、その顔の半分は、豪奢な黒い羽と繊細なレースがあしらわれた、漆黒のハーフマスクで覆い隠されている。
教団の最終兵器。
歩き巫女のナンバーワン。
彼女は、私たちから十メートルほど離れた位置でピタリと歩みを止め、マスクの奥から冷たい視線を投げかけてきた。
「……誰だ、お前は?」
私の斜め前に立つ工藤さんが、漆黒のトレンチコートの襟元を正し、エメラルドグリーンのタイトワンピースの背筋を伸ばして鋭く問いただした。
先ほどまでの安堵は完全に消え去り、七億越えのトッププレイヤーとしての絶対零度の臨戦態勢が戻っている。
仮面の女性は、レザーのライダースジャケットの肩をわずかに揺らし、低く、ハスキーな声で口を開いた。
「……希美から聞いているかもしれませんが、私は歩き巫女の『志乃舞(しのぶ)』と申します」
志乃舞。
先ほど、希美さんが口にしたその名前。
その時、工藤さんは明らかに動揺し、思考を巡らせていた。
「お前が……歩き巫女ナンバーワンの志乃舞か?」
工藤さんの声が、地下空間に低く響く。
その声には、未知の強敵に対する警戒だけでなく、何かを確認しようとするような、張り詰めた響きが混じっていた。
志乃舞さんは答えない。
ただ、ピンヒールのレザーブーツで立つその完璧な姿勢を崩さず、マスクの奥の瞳で私たちを見下ろしているだけだ。
数秒の重い沈黙。
やがて、工藤さんは眼鏡のブリッジを中指でゆっくりと押し上げ、信じられないほど静かに、けれど決定的な言葉を紡ぎ出した。
「……そのマスクを取って、素顔を見せたらどうだ。志乃舞……いや、『織田雪乃(おだ ゆきの)』」
「……え?」
私は、自分の耳を疑った。
『雪乃』さん?
工藤さんの側近である、あの織田雪乃さんのこと?
頭の中が、激しい混乱で真っ白に染まっていく。
理解が追いつかない。
雪乃さんは、確かに一番最初は、私たちを絶望の淵に陥れた恐ろしい敵だった。
宗教団体『万世救済の光』の薬師団に所属し、最初は黒のタイトなパンツスーツに血のように鮮烈な赤いブラウスを着た、一切の隙のない案内人として私たちの前に現れた。
そしていざランウェイバトルとなれば、赤いブラウスの上に極端に丈が短い黒のボレロジャケットを羽織り、深い緋色(ひいろ)の超ミニ丈タイトスカートから、五デニールの『漆黒(ジェット・ブラック)』のシアーパンストに包まれた脚を冷酷に晒していた。
光を一切反射しない、深い闇のような黒いストッキングと、彼女の雪のように白い肌とが生み出す生々しいコントラスト。
足元には、凶器のように鋭利な刃物のような黒のポインテッドトゥパンプス。
彼女は常に感情を表に出さず、工藤さんの命令を絶対の法として動く、冷徹な氷の刃のような『完璧な人形』だった。
先端が鋭く尖った特殊メイク道具のアイライナーを武器にして私たちを追い詰め、伊達さんを理性の崩壊寸前まで弄んだ、あの時の底知れぬ恐ろしさは今でも網膜に焼き付いている。
けれど、工藤さんと私たちが同盟を結んでからは、彼女の立ち位置は完全に変わった。
彼女は誰よりも頼もしい味方となり、私たちのサポート役として献身的に動いてくれたのだ。
文句一つ言わず、黙々と任務をこなし、私たちがピンチの時は常に的確なアシストをしてくれた。
一億という高い脚値を持つ彼女は、私たちにとって欠かせない、そして背中を預けられる大切な仲間になっていた。
何より、忘れられるはずがない。
たった三日前のことだ。 あのカフェ『クロドリ』の地下コロッセオで行われた、美脚市場を牛耳る黒鳥三姉妹との決戦。
最強の敵である黒鳥沙耶の恐るべき『烏イリュージョン』を破るために、雪乃さんは自ら進んで、危険極まりない照明室へと単独で潜入してくれたのだ。
ガスマスクを装着した賢く凶暴な烏たちに密室に閉じ込められ、絶体絶命の窮地に陥った彼女。
その細い左腕は、烏の鋭い嘴によって無惨に貫かれ、鮮血が飛び散るほどの重傷を負ってしまった。
普通ならそこで気を失い、敗北してもおかしくないほどの痛みと絶望。
それでも雪乃さんは、決して諦めなかった。
自らの傷口から流れる血を囮にするという、常軌を逸した機転と凄まじい根性で、烏たちを同士討ちさせ、見事に照明室を制圧してくれたのだ。
血まみれになりながらも、痛みに耐え、私たちの勝利への道を切り開いてくれた彼女の執念。
あの時の彼女の姿は、冷徹な人形などではなく、熱い血の通った一人の気高い戦士だった。
そして、極めつけは彼女の元メイクアップアーティストとしての、魔法のような神業だ。
あの日、彼女は私の脚に、特殊な偏光パールとラメ、そして『神の脚』の揮発性成分である毒を緻密に混ぜ合わせた顔料を使って、見事な『昇り龍』のタトゥーペイントを隠し彫りとして施してくれた。
私のピュアベージュのストッキングの下で、戦いの熱を帯びて鮮やかに浮かび上がったその昇り龍のメイク。
それが、最終的に黒鳥沙耶の強靭な精神を内部から崩壊させる、決定的な一撃となったのだ。
もし、雪乃さんがいなければ、雪乃さんが左腕に血を流してまで勝ち取った照明室の制圧と、私の脚に施してくれたあの神業の『脚メイク』がなければ、私は絶対に、あの大舞台で黒鳥沙耶に勝つことはできなかった。
彼女は、あの黒鳥戦において、誰よりも身体を張り、私を奇跡の勝利へと導いてくれた最大の功労者だった。
それほどまでに深い絆で結ばれ、共に死線を潜り抜けたはずの雪乃さんが。
私たちと一緒に血と汗を流し、一億のプレイヤーとしての誇りを胸に共に戦ってくれたあの雪乃さんがどうして今、教団の最終兵器であり、歩き巫女のナンバーワンである『志乃舞』として、私たちの前に立ち塞がっているというの?
いつも綺麗に肩で切り揃えられていた黒髪を隠し、あの深い緋色のスカートと漆黒のパンストではなく、こんな威圧的で暴力的な全身黒のレザーライダースとタイトなレザーパンツに身を包み、鋭いピンヒールのレザーブーツを履いた、ハードで得体の知れない怪人として。
彼女は工藤さんのことを、深く慕い、忠誠を誓っていたはずだ。
工藤さんの命令を絶対とし、彼女の右腕として常に行動を共にしていた雪乃さんが、工藤さんに刃を向けるなどということがあり得るのだろうか。
『志乃舞』という名前。
先ほど希美さんが口にしたとき、工藤さんが見せたあの微かな動揺。
工藤さんも、まさか自分の最も信頼する側近が、教団の歩き巫女のトップとして暗躍していたことなど、全く知らなかったに違いない。
だとすれば、三日前のあの死闘も、私たちを欺くためのただの演技だったというのだろうか?
そんなはずはない。
あの時彼女が流した血も、私に向けてくれた真剣な眼差しも、絶対に本物だったはずだ。
こんなの、絶対に信じられない。
何かの間違いだ。
あれほど私たちのために身を粉にしてくれた彼女が、教団の狗として私たちを排除しに来るなんて。
私の心臓は、悲鳴を上げるように早鐘を打っていた。
(カオリの心:な? そんなわけないよね……? だって、背格好は似ているかもしれないけど、放っているオーラが全然違うし、何より声が全く違う。雪乃さんの声はもっと澄んでいて理知的だったはずなのに……!)
私の頭の中が混乱でぐちゃぐちゃになる中、工藤さんの宣告を受けた仮面の女性は、フッと短く息を吐いた。
そして、彼女は黒いレザーグローブに包まれた手をゆっくりと顔に持っていき、漆黒のハーフマスクの留め具に指を掛けた。
カチャリ。
マスクが外され、クリスタルの床へと無造作に投げ捨てられる。
あらわになったその素顔を見て、私の心臓はドクンと大きく跳ね上がった。
「嘘……」
私は、ミントグリーンのフレアワンピースの裾を強く握りしめた。
そこにいたのは、紛れもなく、工藤さんの側近である織田雪乃さんだった。
しかし、私の知っている彼女とは、何もかもが違っていた。
きっちりとまとめられていたはずの黒髪は、アッシュグレーのハイライトが大胆に入れられた、ワイルドなショートウルフスタイルへと変貌していた。
さらに、顔の印象を決定づけているのは、その濃い化粧だ。
目元はダークなスモーキーアイシャドウと跳ね上げられた濃いアイラインで囲まれ、近寄りがたいほどの攻撃的な鋭さを放っている。
そして、唇には血のように深い真紅のルージュ。
控えめで有能な側近の面影は完全に消え去り、そこには裏社会の暴力と退廃を体現したような、圧倒的な色気を放つ別人が立っていた。
髪型、服装、化粧の濃さ。
さらには、先ほどのハスキーな声。
彼女は自らの正体を隠すために、声の出し方までも意図的に変えていたのだ。
「雪乃……やはりお前だったのか」
工藤さんの声が、微かに、本当に微かに震えたように聞こえた。
工藤さんにとっても、一番信頼していたはずの部下が、最大の敵として立ち塞がっているという事実は、簡単に受け入れられるものではなかったはずだ。
雪乃さんは、スモーキーな目元で私たちを見下ろすように冷たく見据えていた。
しかし、次の瞬間。 彼女は、誰も予想しなかった驚くべき行動に出た。
「っ……!」
雪乃さんは、突然、その場に膝をつき、両手をクリスタルの床にペタリとついて、深く、深く頭を下げたのだ。
タイトなレザーパンツの膝が床に擦れる鈍い音が響く。
それは、ランウェイバトルにおいて絶対にあってはならない、自らのプライドを完全に捨てる「土下座」の姿勢だった。
「来夏様……カオリ……」
雪乃さんの口から紡がれたのは、先ほどのハスキーな声ではなく、私がよく知っている、本来の彼女の澄んだ、けれど悲痛に震える声だった。
「申し訳ありません……。このような姿で、あなたたちの前に姿を現してしまって……」
土下座をしたまま、雪乃さんの肩が小さく震えている。
圧倒的な強者のオーラを放っていた彼女が、たった一瞬で、罪の意識に押し潰されそうな一人の弱い女性へと戻ってしまった。
「……どういうことだ、雪乃」
工藤さんは、靴を脱がずに土下座する部下を見下ろしたまま、冷酷なまでに静かな声で問い詰めた。
「私が納得するように、事情を話せ」
なぜ、教団の『歩き巫女』のナンバーワンとしてここにいるのか。
なぜ、私たちを裏切り、こんな姿で現れたのか。
工藤さんの言葉には、裏切られた怒りよりも、真実を知りたいという悲痛な叫びが込められていた。
しかし、雪乃さんは顔を上げることなく、床に額を擦りつけるようにして、絞り出すように答えた。
「……申し訳ありません、来夏様。今は、お話できません」
「何だと?」
「どうか……どうか、このままお見逃しください。すべてが終わり、すべての決着が着いたそのときに……すべて、お話します。ですから、今は……!」
雪乃さんの声には、涙が混じっているように聞こえた。
彼女は、本当に、本心から私たちと戦いたくないのだと分かった。
何か巨大な力に縛られ、自分の意志に反してここに立たされている。
その苦悩が、痛いほどに伝わってくる。
(カオリの心:雪乃さん……。こんなに辛そうなのに、どうして……)
けれど、工藤来夏という人は、そういう情に流されて中途半端な妥協を許す人間ではなかった。
「……ならば」
工藤さんは、エナメルのポインテッドトゥパンプスのヒールで、クリスタルの床を鋭く、冷酷に叩いた。
「ここで潔く、私と戦え。雪乃」
その宣告は、地下空間の空気を完全に凍りつかせた。
「来夏様……!」
雪乃さんが、弾かれたように顔を上げた。
スモーキーなアイメイクの奥にある瞳が、絶望に大きく揺れている。
「事情を話せないというのなら、お前は私の敵だ。敵である以上、私はお前を倒す。それだけのことだ」
工藤さんの声には、一切の容赦がない。
雪乃さんは、立ち上がることもできず、ただ下を向いて、ギュッとレザーグローブの拳を握りしめた。
「……仕方ありませんね。……来夏様」
雪乃さんの声から、涙の響きが消え、再び冷たい覚悟の色が宿り始めた。
「…ですがどうしても……戦わねばなりませんか?」
その確認の言葉に、工藤さんは無言で頷く。
(カオリの心:だめ! 工藤さんと雪乃さんが戦うなんて、そんな悲しいこと、絶対に阻止しないといけない!)
私は、素足のまま(ブーツは履いていないだけでストッキングは着用中)で床を蹴り、たまらず二人の間に割って入るように一歩前に出た。
「ダメです、工藤さん! 雪乃さん! 冷静に話をしましょう!」
私は、必死に声を張り上げた。
「工藤さん、雪乃さんには、工藤さんにも言えない……それこそ、もしかしたら教団に、何かひどい弱みでも握られている可能性が……!」
雪乃さんのあの土下座。
あの涙声。
彼女が本心から裏切ったわけではないことは、誰の目にも明らかだ。
教団という恐ろしい組織なら、人の命や大切なものを人質に取って、意のままに操ることなど平気でやるはずだ。
しかし、私の必死の説得を、工藤さんは冷ややかに遮った。
「どんな事情があるか知らないが、雪乃はすでに敵として我々の前にいるのだ。カオリ」
工藤さんは、漆黒のトレンチコートの襟元を正し、私を真っ直ぐに見据えた。
「ならば、ここで敵を倒すことが、私の今できる最善の選択だろう? ……雪乃も、私と戦うその覚悟があって、今、ここに立っているはずだ」
工藤さんの言葉は、正論だった。
戦場において、情けは自分だけでなく味方の命も奪う。
目の前に立ちはだかる者がいるなら、倒して前に進むしかない。
私の説得は、覚悟を決めた七億の匠には、まるで通じなかった。
私が言葉に詰まっていると、床に膝をついていた雪乃さんが、ゆっくりと立ち上がった。
「……カオリ。来夏様の言う通りだ」
雪乃さんの声は、先ほどのハスキーなトーンに戻りつつあった。
アッシュグレーのショートウルフの髪が、微かな空気の流れに揺れる。
「もう誰も……我々を止めることはできない」
雪乃さんは、レザーブーツのピンヒールで床を踏みしめ、深く息を吸い込んだ。そして、そのスモーキーな瞳を工藤さんに真っ直ぐに向けた。
「……来夏様。ご覚悟を」
それは、かつての上司であり、師匠に対する、歩き巫女ナンバーワンとしての明確な宣戦布告だった。
その言葉を受けた工藤さんは、フッと、不敵で、そしてどこか哀しげな笑みをこぼした。
「……雪乃、私を誰だと思っている?」
工藤さんが、エメラルドグリーンのタイトワンピースの胸元を張り、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせる。
「お前に、ランウェイバトルの全てを教えたのは私だぞ? ……その私がお前に負けるとでも思っているのか?」
圧倒的な自信。
師としての絶対的なプライド。
工藤さんは、雪乃さんの全ての動き、思考、ポージングの癖を知り尽くしている。
だからこそ、負けるはずがないという確信があるのだ。
「全力でかかってこい、雪乃。……ここで、終わりにしてやる」
工藤さんの宣告に、雪乃さんの身体がビクッと反応した。
覚悟は決めている。
頭では分かっている。
しかし、彼女の身体は、長年畏怖し、尊敬し続けてきた絶対的な存在である工藤来夏を前にして、正直な反応を示していた。
漆黒のレザーパンツに包まれた脚が、微かに震えている。
一歩前に踏み出すだけでも、莫大なエネルギーを消費しているのが分かった。
雪乃さんは、重い身体をなんとか前に押し出し、真紅のルージュを引いた唇を震わせた。
「……行きます…来夏様」
教団の最終兵器となったかつての側近と、全てを教え込んだ七億越えの雷神。
静森町の冷たい地下空間で、決して交わってはならなかった、哀しき師弟の決闘の幕が、今、切って落とされた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第九十八話:仮面の下の真実、哀しき師弟の決闘 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
