境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百五話:狂騒の商店街、完璧な笑顔の代償
(視点:渡辺菜々)
冷たいコンクリートの地下駅から這い上がり、私たちはスマートフォンの画面で赤く点滅するナノGPSの反応だけを頼りに、静森町のくすんだアスファルトの上を歩き続けていた。
あの凄惨なランウェイバトルでの死闘から、どれほどの時間が経ったのか。
地下にいた時には分からなかったが、地上に出てみると、空はすでにどんよりとした鈍色から、冬特有の冷え切った夕暮れの色へと変わり始めていた。
平日の夕方。
西日が建物の影を長く引き伸ばし、私たちの足元に暗いコントラストを落としている。
一歩足を踏み出すたびに、シルバーの華奢なアンクルストラップ・ピンヒールサンダルが「カツン、カツン」と硬質で乾いた音を響かせる。
隣を歩く姉、和香(わか)の足音も、私と全く同じリズムで重なっていた。
芸能界という厳しいランウェイで、来る日も来る日も二人で息を合わせて歩き続けた結果、私たちの歩調は意識せずとも完全にシンクロしてしまうのだ。
けれど、今の私たちの身体は、テレビのスタジオを歩く時のように軽やかではなかった。
木島希美という六億のバケモノに奥義を真っ向から破られ、クリスタルの床に叩きつけられた全身の打撲。
そして、シタックスの機械仕掛けの秘書であるキララに自我を奪われたまま操り人形として酷使された筋肉の疲労は、確実に私たちの細胞を蝕んでいた。
さらに追い打ちをかけるのが、この突き刺さるような冬の寒さだ。
私たちが身に纏っているのは、華やかなスタジオの照明の下でこそ映える、深いロイヤルブルーのスパンコールのミニドレス。
お姉ちゃんは深いサイドスリットが入ったデザインで、私は肩を完全に露出したオフショルダーだ。
冷たい夕風が吹くたびに、スパンコールの表面から熱が奪われ、肌が粟立つ。
脚を包んでいるのは、脚線美を極限まで美しく、そして生々しく魅せるための『五デニール・シルバーグレー』の極薄ストッキング。
それは、防寒具としての役割など一ミリも果たさず、ただ冷気を皮膚の表面へとダイレクトに伝えてくるだけだった。
「……寒い。それに、関節が軋むわね」
お姉ちゃんが、腕をさすりながら小声でぼやいた。
高く結い上げたダークブラウンのポニーテールが、冬風に揺れている。
「うん……。でも、あいつらがキララを持ち去った場所は、もうそんなに遠くないはずだから。頑張ろう、お姉ちゃん」
私は、スマートフォンの画面を確認しながら答えた。
私たちのプライドを傷つけ、この美脚市場の闇をかき回している張本人たち。
あいつらが、なぜ壊れたキララの機体を持ち去ったのかは分からない。
シタックスの技術を解析するためか、それとも別の目的があるのか。
いずれにせよ、田辺社長の命令である以上、私たちはあいつらを追いかけ、キララを回収しなければならない。
私たちは、寂れた住宅街を抜け、静森町の中心部と思われる商店街の入り口へと差し掛かった。
平日の夕方ということもあり、商店街には夕飯の買い物に出かける主婦たちや、部活帰りの学生たちの姿がちらほらと見え始めていた。
アーケードのアーチをくぐった瞬間、私は周囲の空気の質が急激に変化したのを感じた。
私たちの出で立ちは、いくら過疎化と高齢化が進む地方都市・静森町とはいえ、平日の夕方の平穏な商店街においては、まるで別の惑星からエイリアンが降り立ったか、あるいは暴動が起きたのかと思うほどに、異常なまでの悪目立ちをしていたのだ。
深いロイヤルブルーのスパンコールが、商店街の蛍光灯や街灯の光を受けてギラギラと異様な光沢を放つ。
そこから伸びる、五デニールのシルバーグレーのストッキングが際立たせる、人工的で生々しい美脚のライン。
そして、コンクリートの路面には全くそぐわない、ピンヒールサンダルの威圧的な足音。
「……ねえねえ! ちょっと見て、あの二人……!」
「うそでしょ、あれって……渡辺姉妹じゃない!?」
「えっ、マジ!? なんでテレビの人気芸能人が、こんな田舎の商店街に歩いてんの!?」
すれ違う部活帰りの女子高生たちや、スーパーの白い買い物袋を提げた商店街のおばさんたちが、次々と私たちの顔に気づいて足を止め始めた。
驚愕の声が伝播し、周囲のざわめきが波のように広がっていく。
携帯電話を取り出し、遠巻きにカメラを向けてくる者もいた。
「あー、もう。だから嫌なのよ、こういうオープンな場所は。めんどくさいわね」
お姉ちゃんは、周囲には絶対に聞こえないほどの小声で鋭い舌打ちをした。
彼女のシャープなアーモンドアイが、一瞬だけ不機嫌に細められる。
死闘のダメージを引きずった身体で、ただでさえ一刻も早くあいつらのアジトへ向かいたいというのに、この足止めは最悪のタイミングだった。
しかし次の瞬間には、お姉ちゃんの顔から疲労も苛立ちも完全に消え去っていた。
「あら、こんにちは〜」
お姉ちゃんは、「完璧なトップ芸能人の営業スマイル」という名の圧倒的な仮面を顔に貼り付け、驚いて道を空ける町の人たちに向けて、優雅に手首を振って微笑み返したのだ。
深いサイドスリットから覗くシルバーグレーの脚を、最も美しく見える角度にスッとずらし、歩き方すらもランウェイのそれから、テレビカメラを意識した親しみやすいタレントの歩き方へと瞬時に切り替えている。
これが、プロだ。
私たち渡辺姉妹が、数多のライバルたちがひしめく芸能界でトップに上り詰めるために身につけた、絶対的な処世術。
いかなる時も、世間の求める「理想の偶像(アイドル)」を演じ切る。
「きゃああっ! こっち向いた! 生の渡辺姉妹、テレビより全然背が高くて顔小さい!」
「あの、握手してください! 深夜の『ミッドナイト・ビューティー・トーク』、毎週欠かさず録画して見てます!」
「サインもらえますか!? ファンなんです、ずっと応援してます!」
お姉ちゃんの営業スマイルが引き金となり、遠巻きに見ていた人たちの遠慮のタガが外れた。
あっという間に、私たちは十数人の興奮した町の人たちに取り囲まれ、身動きが取れなくなってしまった。
女子高生たちは歓声を上げながらスマートフォンを向け、おばさんたちはレシートの裏や手帳を突き出してくる。
完全に、即席の撮影会とサイン会のような状態だ。
「はいはい、ありがとうございます〜。皆さん応援ありがとう。実は今日、特番の地方ロケの合間のお忍び散策なんです。番組の名前はまだシークレットなので、SNSへの写真アップは内緒にしてくださいね〜」
私も、反射的に芸能人のスイッチを入れ、テレビのトーク番組でいつも見せているのと同じ、ちょっと首を傾げたコケティッシュな笑顔を作って応対した。
冷え切った指先でペンを握り、差し出されたスケジュール帳やスマートフォンの裏面に、慣れた手つきでサラサラとサインを書き込んでいく。
『ミッドナイト・ビューティー・トーク』。
私たちがレギュラーを務める深夜番組。
ゲストと赤裸々な恋愛トークをしながら、私たち姉妹が息を合わせてセクシーに脚を組み替える仕草が話題となり、高視聴率を叩き出している番組だ。
あの脚の組み替え一つとっても、ストッキングのデニール数、照明の角度、そしてシタックスから命じられた『美脚市場』へのサブリミナル効果……すべてが計算され尽くした、命懸けのパフォーマンスなのだ。
ファンたちは、そんな裏の事情など知る由もない。
こういう時、顔の売れた芸能人って本当に不便で命取りだ。
(菜々の心:……一刻も早く、GPSの示すあいつらのアジトへ行って、キララを回収しに行きたいのに。でも、ここでファンを無下に突き飛ばしたり、素っ気ない態度を取って逃げたりすれば、数分のうちに『渡辺姉妹、カメラのないところでは性格最悪でファンを無視』とネットで拡散され、大炎上してしまう……!)
シタックスの看板を背負うタレントとして、イメージの失墜は絶対に許されない。
もし炎上でもしようものなら、あの粘着質で蛇のような田辺社長から、どんな恐ろしいペナルティを下されるか分かったものではないのだ。
「ありがとうございます。これからも姉妹共々、よろしくお願いしますね」
私は、内心の焦燥感と焦りを微塵も表に出さず、一人一人に丁寧にサインを渡し、完璧な笑顔を振りまき続けた。
しかし、ファンは一人去ればまた一人と増え、列はなかなか途切れる気配がない。
私は、笑顔の口角をキープしたまま、お姉ちゃんにすり寄り、歯の間から小声で囁いた。
「お姉ちゃん、キリがないよ。適当な理由をつけて切り上げて、早く行こう。あいつらがどこかに逃げちゃったら困るし」
私が急かすと、隣で最後のおばさんにサインを渡し終え、「はい、ありがとうございます〜」と満面の笑みで見送っていた姉さんが、急にその場にピタリと立ち止まった。
そして、周囲のファンたちにも聞こえるくらいの声で、わざとらしく大きなため息をついたのだ。
「はぁ〜……ダメだわ。菜々、私もう本当に疲れちゃった」
「……えっ?」
私は、お姉ちゃんの突然の言葉に面食らった。
疲れたって、お姉ちゃん……まだ地下駅から商店街まで、半分も歩いてないよ?
私が目を丸くしていると、お姉ちゃんは私の方を向き、呆れたような、そしてどこか挑戦的な目つきで言い放った。
「だって考えてもみなさいよ。あの酸素の薄い不気味な地下で、六億の怪物と死闘を繰り広げたあとに、こんなに長距離をアスファルトの上で歩かされて。おまけにノーギャラでフルパワーのファンサービスまでさせられてさ。おまけにこの、氷点下に近い寒さよ? 私、今すぐあそこの暖房の効いたお店に入って、温かいアールグレイでも飲んで糖分を補給しないと、もう絶対に一歩も歩けないわ」
お姉ちゃんは、特有の勝気でワガママなスイッチを完全に入れたらしく、目の前にあった、いかにも昭和レトロなレンガ造りの喫茶店のメニュー看板を、シルバーのピンヒールのつま先でコンッと指差した。
その突然のストライキ宣言に、私はパニックになった。
「お、お姉ちゃん! こんなところで道草を食ってたら、また通信データを監視してる田辺社長に『お前たち、何をやっている』って激怒されちゃうよ!?」
私は、ファンの手前、声を押し殺しながらも必死にお姉ちゃんを説得しようとした。
田辺社長の怒りを買うことは、私たちにとって最も恐ろしいことのはずだ。
しかし、お姉ちゃんはフッと鼻で笑い、ロイヤルブルーのドレスの肩をすくめた。
「いいのよ、あんなゴミ社長の言うことなんて」
「ゴ、ゴミって……お姉ちゃん!」
お姉ちゃんのあまりにもストレートで不敬な暴言に、私の心臓が縮み上がった。
「どうせあいつも、あの地下コロッセオの一件で警察から追いかけられて、今頃コソコソ隠れてるんだからさ。私たちを直接罰しに来ることなんてできないわ。それに……」
お姉ちゃんは、私の持っているスマートフォンの画面を顎でしゃくった。
「あいつらのGPSの反応、さっきから全然動いてないでしょ? 居場所があのビルの中に固定されてるんだから。私たちがここで三十分くらい優雅にお茶したって、キララの重たい機体を担いだまま空を飛んで逃げられるわけじゃなし。焦る必要なんてどこにもないのよ」
お姉ちゃんの言い分は、確かに理にかなっていた。
あいつらも激戦の直後だ。
私たちが追いかけてることも知らないだろうし、そもそも、それを知ったとしても、簡単にアジトを移動できるはずがない。
「でも……」
私がまだ渋っていると、お姉ちゃんは少しだけ声のトーンを落とし、私の足元へと視線を向けた。
「……それに菜々、あんたもこのままじゃ、限界でしょ?」
「え……?」
「さっき希美に吹き飛ばされた時の打撲と、その華奢なピンヒールサンダルのストラップの擦れで、足裏と踵の皮が剥けて、血が滲むほど痛いんでしょ?」
お姉ちゃんには、全て見透かされていた。
確かに、地下駅での圧倒的な力の差を見せつけられた戦闘のダメージは、私の想像以上に身体を蝕んでいた。
さらに、本来ならランウェイの短い距離を歩くためだけに作られた五センチ以上の細いピンヒールサンダルで、舗装の粗い地方都市のアスファルトを長距離歩き続けたせいで、私の足首からふくらはぎの筋肉は悲鳴を上げて痙攣し、限界を迎えていたのだ。
ストッキングの中で、靴擦れを起こした足の皮が剥け、ジンジンと焼け付くような痛みを放っている。
私はそれを悟られないように、必死に痛みを隠して笑顔を作っていたつもりだったのに。
(菜々の心:……お姉ちゃん。私の足の痛みに気づいて、わざとワガママを言って、休ませようとしてくれているんだ……)
お姉ちゃんは、昔からそうだ。
口調はキツくて、プライドが高くてワガママに見えるけれど本当は誰よりも私のことを見ていてくれて、一番苦しい時に、不器用な優しさで私を守ってくれる。
田辺社長への恐怖よりも、私の身体を心配してくれたのだ。
「……うん。分かった。お姉ちゃんの言う通り、少しだけ休もう」
私は、足の痛みをこらえながら、お姉ちゃんの優しさに甘えることにした。
私たちは、まだ名残惜しそうにサインを求めてこようとするファンたちの方へと向き直った。
「皆さん、本当にごめんなさい! ロケの次のスケジュールが押してしまっていて、今日はここまでになっちゃいます」
私が申し訳なさそうに手を合わせると、お姉ちゃんも完璧なトップアイドルの笑顔で手を振った。
「寒い中、待たせちゃってごめんなさいね。それじゃあ皆さん、またテレビでお会いしましょうね!」
お姉ちゃんは、言葉の最後に完璧なウインクと「投げキッス」を残した。
そのファンサービスの破壊力は凄まじく、集まっていた人たちは「きゃああっ!」「お仕事頑張ってね!」と大歓声を上げて道を空けてくれた。
私たちは、ファンたちに笑顔で別れを告げると、背中を向けた瞬間に営業スマイルをスッと消し去り、逃げるようにしてそのレトロなレンガ造りの喫茶店へと足を踏み入れた。
カラン、コロン……。
昔ながらの真鍮のベルが鳴り、温かなコーヒーの香りが漂う店内へと、私たちは転がり込んだ。
狂騒の商店街から、ようやく一息つける休息の場所へ。
あいつらが潜むアジトへ向かう前の、私たちの短い、けれど大切な時間が始まろうとしていた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百五話:狂騒の商店街、完璧な笑顔の代償 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
