境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百十六話:空間操作の真理、ブラッドオレンジの特攻
(視点:渡辺菜々)
冷たいコンクリートの壁に囲まれた、静森町の巨大な地下スタジアム。
純白に発光するクリスタルのランウェイステージの上には、血みどろの激戦の爪痕が、残酷なまでの静寂となって横たわっていた。
私は、シルバーのアンクルストラップ・ピンヒールサンダルの足元をガクガクと震わせながら、目の前で繰り広げられたあまりにも規格外の事象に、ただ息を呑むことしかできなかった。
改めて、今の状況を冷静に分析してみる。
私のすぐそばでは、私と同じロイヤルブルーのスパンコールドレスを着た姉さん(和香)が、完全に意識を消失して冷たい床に倒れ伏している。
お姉ちゃんを抱えるようにして自らの身を挺した未成年の少女、美桜ちゃんも、黒のレザーショートパンツから伸びるヌードベージュの脚を力なく投げ出し、ピクリとも動かない。
そして、月姫様に反逆し、私たちを逃がすための盾となってくれたブラッドオレンジの戦士、渡辺蜜柑さんも、カオリさんの歩法によって完全に意識を刈り取られ、黒のレザースカートを乱して沈黙している。
三人の大切な存在が、すでに戦線から完全に離脱してしまっているのだ。
生き残っているのは、私だけ。
そして、敵陣を見渡せば、五億の創薬研究員である純白のコートドレスの恋音さんは、カオリさんとすれ違っただけのアセンションウォークのダメージで、アイスブルーの五デニールストッキングの膝を折り、荒い息を吐きながらライフゲージを半分以上削られている。
教団の絶対神である白鳥月姫様も同様だ。
カオリさんの『イベント・ホライズン』を至近距離で浴び、さらに美桜ちゃんの命懸けのホールドによって逃げ場を失ったことで、二百戦無敗の彼女のライフゲージは、ついに半分以上も削り取られてしまった。
対して、伊達という男の猟犬としてこの場に乱入してきた、漆黒のペンシルスカートの『カオリ』さん。
彼女の瞳の白目には、月姫様との奥義の応酬によってほんのわずかな赤い充血が浮かんでいるものの、その佇まいは依然として氷のように冷たく、完璧な余裕を保っている。
まさに、神々の死闘。
しかし、シタックスのチーフエンジニアとしての私の理系脳は、この圧倒的な恐怖の中にあっても、ある一つの「巨大な疑問」に支配されようとしていた。
(菜々の心:……おかしい。いくら彼女たちがランウェイバトルにおいて人智を超えた凄いプレイヤーだとしても、あんな現象が現実に起きるはずがない。月姫様の『アブソリュート・アクシス(天動説の歩み)』で感じた、世界が彼女に向かって動いているような空間の歪み。そしてカオリさんの『イベント・ホライズン(事象の地平線)』で起きた、光すら逃がさないブラックホールのような空間のねじれ。あんなの、まるで漫画やアニメの世界の魔法じゃないか。どうして、ただの歩行やポージングで、人間の脳にそんなあり得ない錯覚を引き起こすことができるの……?)
ただの美脚の視覚的暴力だけでは、空間そのものが歪んだと誤認させることなど不可能なはずだ。
私は、エンジニアとしての知識をフル回転させ、一つの論理的な仮説を導き出そうとしていた。
(菜々の心:……おそらく、彼女たちはただ『ヴィーナス』を打って視覚的暴力を放っているだけじゃない。彼女たちは、体内に取り込んだヴィーナスの成分や、その薬理的な効果というものを『完全に理解し、意図的に操作している』のではないか? そうでもない限り、脳の空間認識能力にダイレクトに干渉して、あんな異常な現象を錯覚させることの説明がつかない……)
私が自分なりの仮説に辿り着き、ゾッと背筋を凍らせていた、その時だった。
「はぁ……はぁ……」
静寂を破り、片膝をついていた純白のコートドレスの恋音さんが、苦しげな息を吐きながら顔を上げた。
彼女の切れ長の瞳が、漆黒のペンシルスカート姿のカオリさんを、信じられないものを見るように見据えている。
「ひ、姫様はともかく……なぜ、あなたが『空間操作』の奥義を使えるのですか?」
空間操作、恋音さんの口から、私の仮説を裏付けるような、核心を突いた単語が飛び出した。
カオリさんは、五デニールのシアーブラックの脚を完璧に揃えたまま、黒のエナメルパンプスのピンヒールを鳴らすこともなく、ただ冷たい沈黙でその問いを流した。
代わりに答えたのは、ステージの下で無精髭を撫で、下品な笑みを浮かべていた伊達さんだった。
「知りたいか? なぜカオリが、空間操作の奥義を使えるのかを?」
伊達さんの声には、手飼いの猟犬の優秀さを誇示するような、嫌味なほどの優越感が滲んでいた。
「……空間……操作?」
私は、たまらず蚊の鳴くような声で呟いてしまった。
私の声は小さかったはずだが、極限の緊張感に包まれたこの空間では、誰の耳にもはっきりと届いていた。
恋音さんは、アイスブルーのストッキングに包まれた足を震わせながらも、プライドを保って伊達さんに向かって言い返した。
「ええ、ぜひ知りたいですね。教団の創薬研究員である私たちでさえ、理論は知っていても実戦レベルで組み込むのは至難の業です。それを、どこから現れたのかも分からないあなたが……」
すると、それまで沈黙を守っていた白鳥月姫様が、純白のシフォンワンピースを揺らし、手に持った『カグツチ』の柄を握りしめながら、酷薄な声で言葉を発した。
「こいつも、『ヴィーナス操作』ができるんだろ?」
ヴィーナス操作。
月姫様の蒼い瞳が、カオリさんを値踏みするように見下ろしている。
その瞳の奥には、同じ次元の技術を持つ者に対する、ほんの僅かな苛立ちと興味が入り混じっていた。
「さすがは月姫様。よく分かってるな」
伊達さんが、余裕たっぷりに肩をすくめて嗤った。
私は、初めて耳にするその概念に、完全に置いてけぼりを食らっていた。
「ヴィーナス操作……? なにそれ……?」
私が困惑の声を漏らすと、膝をついていた恋音さんが、私の方をチラリと一瞥し、まるで愚かな生徒に解説してやるような冷徹な声で説明を始めた。
「ヴィーナス操作とは……自らの体内に取り込んだ『ヴィーナス』の薬効成分を、攻撃や防御の際に、身体の特定の部位へ意図的に一点に集めたり、あるいは周囲に散らしたりする高等技術のことです」
恋音さんの切れ長の瞳が、カオリさんのシアーブラックの脚をじっと睨みつける。
「相手の視線を誘導した瞬間に、その部位の血中ヴィーナス濃度を爆発的に高め、視覚情報に伴う『快楽の電気信号』を相手の脳に致死レベルで強制送信する。……それにより、相手の脳の空間認識機能に致命的なバグを起こさせ、『空間が歪んでいる』という強烈な錯覚を現実のものとして体感させることができるのです」
「体内の薬効成分を……意図的にコントロールする……!?」
私は、エンジニアとしての常識が根底から覆されるのを感じた。
血中の薬物濃度を、自分の意志で部位ごとに操作する。そんなことが、人間の肉体で可能なのだろうか。
「もちろん、誰にでもできるわけではありません」
恋音さんの声が、さらに一段低く、悔しさを滲ませて続く。
「七億以上の『匠』クラスと呼ばれるプレイヤーであっても、このヴィーナス操作を実戦で完璧にこなせるのは、ほんの数人くらいだけです。……しかも、このヴィーナス操作の精度は、『呼吸の深さ』と完全に比例します。血流を操るのは呼吸。つまり、呼吸法が上手ければ上手いほど、ヴィーナス操作のレベルは高いのです」
呼吸法による、血流と薬効の完全制御。
それが、月姫様の『アブソリュート・アクシス』や、カオリさんの『イベント・ホライズン』という、漫画のような空間操作の奥義を生み出している絶対的なカラクリだったのだ。
「……呼吸法……ヴィーナス操作……なにそれ。全然、分からない……」
(菜々の心:血中の薬物を呼吸でコントロールして、脚の先や瞳に一点集中させる? そんなの、人間離れしすぎてる。私たちが必死に磨いてきたポージングや見せ方なんていう次元とは、全く違う戦い方だわ……!)
私が、自分と彼女たちとの間にある、埋めようのない残酷な実力差を前にして愕然としていると、ステージ下の伊達さんが鬱陶しそうに手を振った。
「お前は知る必要はない。どうせお前のような小娘には、一生かかっても到達できない領域だからな」
伊達さんの見下すような言葉が、私の心に冷たく突き刺さる。
「それより、そこの倒れている三人を連れて、早くここから逃げな」
「え……」
伊達さんは、面倒なゴミでも払うように、私に退去を命じたのだ。
彼らにとって、私は脅威ですらなく、ただこの場にいるだけで邪魔な存在に過ぎないらしい。
「あ、うん……」
私は、反論する気力すら湧かず、ただ頷くことしかできなかった。
そうだ。
私の目的は、この狂った化け物たちの戦いに加わることじゃない。
お姉ちゃんを助け、美桜ちゃんを助け、そして私たちのために盾となってくれた蜜柑さんを連れて、一刻も早くこの地下のスタジアムから抜け出すことだ。
私は、シルバーのピンヒールサンダルを震わせながら、クリスタルの床に折り重なるようにして倒れている三人の元へと急いで駆け寄った。
お姉ちゃんのロイヤルブルーのドレスが、冷たい床に無惨に広がっている。
私が必死にお姉ちゃんの腕を自分の肩に回そうとしている間にも、戦場の空気は一秒たりとも止まることはなかった。
「伊達様。……この者(渡辺菜々)を、逃がしてよいのですね?」
カオリさんが、漆黒のペンシルスカートの姿勢を一切崩さず、まるで機械のように正確な口調で伊達さんに確認をとった。
「ああ、しっかりおもりをしてやれ」
伊達さんが、無精髭を撫でながら、残忍な笑みを浮かべて命じた。
おもりをしてやれ。それはつまり、私たちが無事に逃げ出せるように「護衛」するという意味ではなく、私たちが逃げるまでの間、月姫様たちが手出しできないように「釘付け」にするという意味だろう。
「そのついでに、月姫を捕獲するぞ」
伊達さんの言葉に、カオリさんは微塵の迷いもなく、黒のエナメルパンプスのヒールを揃えて一礼した。
「了解です、伊達様」
その絶対的な主従関係。
十億の月姫様を「ついで」に捕獲すると言い切る、カオリさんのその底知れぬ自信と冷酷さ。
純白のタイトブラウスと漆黒のペンシルスカートに包まれた彼女の姿は、まさに伊達という男の意のままに動く、美しくも恐ろしい死神そのものだった。
「よし……お姉ちゃん、美桜ちゃん……」
私は、お姉ちゃんの右腕と美桜ちゃんの左腕を、自分の両肩にどうにか引っ掛け、歯を食いしばって立ち上がろうとした。
二人分の体重が、私の華奢なピンヒールと悲鳴を上げている脚に重くのしかかる。
さらに、すぐ横で倒れている蜜柑さんもどうにかしなければならない。
私が、蜜柑さんの黒のレザースカートの端を掴み、なんとか三人まとめて引きずっていこうとした、まさにその瞬間だった。
「……ッ」
私の手に掴まれていた蜜柑さんの身体が、ビクッと、不自然な痙攣を起こしたのだ。
「え……?」
私は思わず手を離し、目を見開いた。
完全に意識を刈り取られ、白目を剥いて沈黙していたはずの渡辺蜜柑さん。
その彼女の、ブラッドオレンジの五デニールストッキングに包まれた脚が、クリスタルの床をガリッと引っ掻き、ゆっくりと、信じられないほどの執念で膝を立て始めたのだ。
「蜜柑さん……!?」
私は驚愕の声を上げた。
カオリさんの次元上昇の歩法、『アセンションウォーク』の空間操作をまともに浴びたはずだ。
普通のプレイヤーなら、ヴィーナスの快楽の渦に脳を焼き切られ、数時間は絶対に目を覚まさないほどのダメージ。
それなのに、彼女はダークチェリーの唇から血を滲ませながら、ゆっくりと目を開いた。
「……はぁ……はぁ……」
蜜柑さんの瞳の白目は、限界を超えた毒々しい赤色に染まり上がっていた。
しかし、その瞳孔の奥には、絶対に消えることのない、強烈な怒りと復讐の炎がギラギラと燃え盛っていたのだ。
「蜜柑さん! だめ、立っちゃだめです! あなたのライフゲージはもう……!」
私が悲鳴のように止めるのも聞かず、蜜柑さんは黒のレザーショートブーツで床を踏みしめ、フラフラと立ち上がった。
そして、彼女は私に目もくれず、背を向けて、真正面で対峙している月姫様とカオリさんの方へと、真っ直ぐに向き直ったのだ。
「こ、このまま……やられっぱなしじゃ、気がすまねぇ……!」
蜜柑さんの口から、血を吐くような、ドス黒い殺意の言葉が漏れた。
彼女は、ショート丈の白衣ジャケットをボロボロにしながらも、五億の創薬研究員としてのプライドだけを支えにして立っている。
「こいつらに……一矢報いてやるぜ」
その予想外の復活に、最も驚いたのは、膝をついていた姉の恋音さんだった。
「ちっ……蜜柑のやつ!」
恋音さんは、アイスブルーのストッキングの脚を震わせながら、忌々しそうに、そしてどこか妹の執念に戦慄するような声で叫んだ。
「カオリの奥義のダメージを受けるその瞬間に……『ヴィーナス操作』をしてやがったのか!?」
「えっ……!?」
恋音さんの言葉に、私は再び息を呑んだ。
「あいつのヴィーナス操作は、まだ実戦で使えるレベルじゃない……未熟なはずだ。だが……意識を刈り取られるほんのコンマ一秒の刹那、未熟なりに体内のヴィーナス成分を強制的に『脳』と『目』の周囲だけに集中させ、カオリの空間操作のダメージを相殺する『防御の膜』を作っていたというのか……!」
恋音さんの解説が、蜜柑さんの奇跡の復活の理由を裏付けていた。
気絶したように見えたのは、ダメージを最小限に抑えるための、彼女の肉体の強制的なシャットダウンだったのだ。
そして今、自らの身体に残された最後の命の炎を燃やし尽くし、五億の怪物が再び牙を剥こうとしている。
「……くたばれ、お前らーーーーッ!!」
蜜柑さんが、腹の底から裂帛の気合いを張り上げた。
彼女のブラッドオレンジのストッキングが、限界を超えた筋肉の躍動によって、まるで本当に燃え盛る炎のように毒々しい光を放ち始める。
十億の絶対神、白鳥月姫。
そして、底知れぬ漆黒の死神、カオリ。
この二人のバケモノが対峙する死地に向かって、蜜柑さんは一切の躊躇なく、自らの全てを爆発させる『特攻』を仕掛けようとしていた。
「蜜柑さん、だめぇーーっ!!」
私の制止の声は、地下空間に虚しく響くだけだった。
ブラッドオレンジの特攻が、クリスタルのステージで最後の、そして最も悲惨な火花を散らそうとしている。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百十六話:空間操作の真理、ブラッドオレンジの特攻 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
