境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第八十八話:黄金の波紋と五十の絶望
(視点:鈴木カオリ)
クリスタルのランウェイステージに、重苦しい静寂が降りていた。
六億の脚値を持つ住職の妻、希美さんが、突如として私たちのチームへと寝返った。
その驚愕の余韻が冷めやらぬまま、キララさんの無機質な指令が下る。
『瑞希、響。まずは奥様を標的にしなさい』
その言葉を合図に、ダークグリーンのロングドレスを着た菊池瑞希さんと、マスタードイエローのミニスカートを穿いた高崎響さんが、二人並んで歩みを進め始めた。
七千万という、決して低くない脚値を持つ二人のドール。
私は、息を呑んで二人の歩行を凝視した。
しかし、彼女たちのウォーキングは、工藤さんのような『清流の歩』でもなければ、何か特別なポージングや視覚的なトラップを仕掛けてくるわけでもなかった。
ただ、まっすぐに、一定のリズムで歩いてくるだけ。
黒のピンヒールブーティと、キャメルのハイヒールパンプスが、クリスタルの床をカツン、カツンと正確に叩いている。
極薄のブラックとヌードベージュのストッキングが、それぞれの歩幅に合わせて美しく交差してはいるものの、それは「普通のランウェイウォーキング」の域を出ていないように見えた。
(カオリの心:……あれ? すごく綺麗な歩き方だけど……さっきまでの工藤さんや希美さんのような、空気が歪むほどの威圧感は感じない。これなら、なんとか対処できるんじゃ……)
私がそう思い、一歩前に出ようとした、その時だった。
「二人とも、私がちゃちゃっといってくるかんね!」
私の横から、ワインレッドのドレスを翻して、希美さんが勢いよく飛び出していったのだ。
彼女の足取りは、先ほど工藤さんの奥義を受けたダメージを感じさせないほど軽快で、そして圧倒的な自信に満ちていた。
「えっ、希美さん!?」
私が止める間もなく、希美さんはあっという間にステージの中央あたりまで進み、迫り来る瑞希さんと響さんの二人を真正面から迎え撃つ形となった。
瑞希さんのダークグリーンのスリットから覗く黒い脚と、響さんのマスタードイエローの裾から伸びるベージュの脚。
二人が左右に分かれ、希美さんを挟み込むような陣形をとる。
それに対して、希美さんは一切スピードを緩めなかった。
「ふふっ」
希美さんの赤いリップが、艶やかな孤を描く。
彼女のウォーキング『黄金の基本(ゴールドスタイル)』。
背筋を極限まで伸ばし、骨盤を滑らかに回転させ、膝を擦り合わせるようにして真っ直ぐに脚を運ぶ。
ただの「基本」のウォーキング。
しかし、それを六億という途方もない経験値と肉体美で実行すると、どうなるのか。
希美さんの五デニールの極薄ベージュストッキングが、地下の冷たい照明を反射し、まるで純金でコーティングされたかのような黄金の輝きを放った。
スリットから露わになる太腿の柔らかな肉感と、ふくらはぎの引き締まった筋肉の陰影。
それが、完璧な左右のブレのなさによって、視覚のノイズを一切生まずに、見る者の網膜へとダイレクトに飛び込んでくる。
シュッ……!
希美さんは、その『黄金の基本』を全く崩すことなく、瑞希さんと響さんの間を、風のようにすり抜けていった。
肩が触れ合うほどの至近距離での交差。
希美さんは、ダメージを受けるどころか、涼しい顔でそのままキララさんの方へと歩みを続けている。
では、すれ違った二人のドールはどうなったのか。
「……あ、ぁぁ……っ」
「う、あ……」
私の耳に届いたのは、二人のうつろな呻き声だった。
振り返ると、瑞希さんと響さんが、まるで糸の切れた操り人形のように、クリスタルの床にバタンッと崩れ落ちていたのだ。
ダークグリーンのドレスとマスタードイエローのスカートが乱れ、白目を真っ赤に充血させた二人が、ピクリとも動かなくなっている。
「……え、瞬殺?」
私は、自分の目を疑った。
七千万のプレイヤー二人を、ただ『基本のウォーキングですれ違っただけ』で、同時に気絶させてしまったのだ。
これが、六億の力。
希美さんは、倒れた二人を振り返ることもなく、肩越しに私の方を見て得意げにウィンクをした。
「どうよカオリちゃん、私だって強いんだぜ。なんせ『歩き巫女』だからな」
歩き巫女。
先ほど玄関で希美さんが自称し、「教団の隠し玉」だと言っていた言葉。
それがただのハッタリではないことを、彼女は自身の圧倒的な強さで証明してみせたのだ。
すると、私の前方に立っていた工藤来夏さんが、眼鏡のブリッジを押し上げながら低く言った。
「……あとで歩き巫女のこと、詳しく聞かせてもらうからな」
「わかってるよ来夏ちゃん。この戦いが終わったら話すから、それまで待ってろって」
希美さんは、軽口を叩きながらも歩みを止めず、ついにステージの一番奥、無表情で佇むキララさんの『クリティカル距離』最も視覚的破壊力が倍増する死の領域へと到達した。
「チェックメイィィィトォォ、キララちゃん」
希美さんが、ワインレッドのドレスの裾をひらりと揺らし、ベージュのエナメルハイヒールのつま先をピタリと揃えて、勝利を確信したような笑みを浮かべた。
キララさんは一人。
対するこちらは、工藤さん、希美さん、そして私の三人。
いかに彼女が底知れないとはいえ、この圧倒的な戦力差を覆すことなど不可能に思えた。
しかし、キララさんは全く動じなかった。
彼女は、ダークグレーのスーツのポケットから、静かにスマートフォンを取り出した。
「少しお待ちください」
キララさんは、感情のない声でそう言うと、スマートフォンを耳に当てた。
そして、たった一言。
「入ってきなさい。ドールたち」
その声が響いた直後だった。
私たちが地下へ下りてきた階段の横にある、あの重厚な鉄の扉が、再びギーッという重い音を立てて開かれ始めたのだ。
「え……?」
私は、その扉の向こうから現れた光景に、言葉を失い、全身の血の気が引いていくのを感じた。
コツン、カツン、コツン、カツン……。
無数のヒールの音が、不気味なほどの統率感を持って、地下空間に響き渡った。
開かれた扉から、次々と女性たちが入ってくる。
タイトなワンピース、ミニスカート、スリットの入ったロングドレス、ショートパンツ。
服装は様々だが、共通しているのは、全員が高いヒールを履き、そして脚にストッキングやタイツを纏っているということ。
一人、二人、十人、二十人……。
途切れることなく入り込んでくるその人数は、ゆうに五十人近くに達していた。
「な……んだ、これは……」
工藤さんも、さすがに驚きを隠せない様子で目を見開いている。
五十人の女性たちが、クリスタルステージを取り囲むように、フロアの周囲にズラリと整列した。
彼女たちの目は、一様にうつろで、どこか焦点が合っていないように見える。
キララさんが、スマートフォンをしまいながら、その大群に向かって冷徹に問いかけた。
「皆さん、準備はよろしいですね」
すると、列の先頭に立っていた、赤いタイトスカートを履いた女性が、機械的な声で答えた。
「はい。すでに全員『ヴィーナス』を打ち終えております」
(カオリの心:……ご、五十人全員が、ヴィーナスを打ってる!? そんなの、この狭い空間で一斉に美脚の視覚攻撃をされたら……私たちの脳が、パンクするどころの話じゃない!)
私は、震えそうになる足に必死に力を込めた。
アイボリーのレースアップブーツの中で、足の指がギュッと縮こまっているのが分かる。
工藤さんが、怒りを露わにしてキララさんを怒鳴りつけた。
「何を考えている貴様! まさかこの人数でランウェイバトルをやろうというのか? ふざけるのもいい加減にしろ。だいたいこの人数がステージ上で暴れたら、けが人は確実に出るぞ。それもお構いなしか?」
工藤さんの言う通りだ。
ランウェイは一本しかない。
ここで五十人が一斉にウォーキングやポージングを行えば、ぶつかり合い、ヒールで怪我をするのは目に見えている。
しかし、キララさんは顔色一つ変えなかった。
「はい。全員その覚悟でこの場にいるので、問題はありません」
あまりにも非人道的なその返答に、私は背筋が凍った。
彼女たちは、本当にただの「ドール(人形)」として、使い捨てられる覚悟でここにいるのだ。
キララさんは、冷ややかな視線を工藤さんに向けた。
「経典の秘密を、私がそう簡単に渡すと思いましたか?」
経典の情報を引き出すための条件。
それは、ここにいる全てのドールを倒すということ。
工藤さんは、ギリッと奥歯を噛み締め、漆黒のトレンチコートの襟元を掴んだ。
「……仕方ない、やるしかないようだな」
工藤さんは、すぐに状況を冷静に分析し、最も合理的な判断を下した。
「おい、希美。今すぐこっちへ来い。三人がばらけると、これだけの人数が相手だ、さすがに不利になる」
工藤さんの指示は的確だった。
今、希美さんは敵陣の奥深く、キララさんの目の前に孤立している。
このままでは、五十人の大群に囲まれ、集中砲火を浴びてしまう。
「分かったよ来夏ちゃん。今戻るから待っててな」
希美さんは、舌打ちをしながらクルリと背を向け、私たちの方へと戻ろうとした。
しかし、シタックスの秘書であるキララさんが、その隙を見逃すはずがなかった。
「あなたたち。まずは、あの二人とこちらの奥様を『分断』しなさい」
キララさんの冷徹な命令。
すると、フロアに待機していたドールたちのうち、ステージの中央付近にいた五人の女性が、音もなくステージの上へと飛び乗ってきたのだ。
「はい」
先頭にいた赤いタイトスカートの女性が短く答え、五人のドールたちが一斉に、戻ろうとする希美さんの行く手を塞ぐようにして立ちはだかった。
「そんな……こんなの、体力が持たないよ」
私は、絶望的な状況に思わず弱音を吐いてしまった。
五十人という数もさることながら、彼女たち全員が『ヴィーナス』の毒気を纏っているのだ。
見ているだけで精神が削られていく。
「カオリ、希美の援護に行くぞ。ついてこい」
工藤さんが、一切の迷いなく私に命じた。
「……はい、工藤さん!」
私は、恐怖を振り払い、アイボリーのブーツでクリスタルの床を蹴った。
工藤さんの背中を追いかけ、希美さんの援護へと向かう。
ステージの下では、柴桑住職が、その醜悪な顔をニタニタと歪ませていた。
「おおー、いいぞキララ! この人数相手では、さすがに来夏ちゃんたちに勝ち目はないじゃろう。ひひひっ、早くそのエナメルのヒールを脱ぐ無様な姿を見せてくれい!」
住職は、妻である希美さんが絶体絶命のピンチに陥っているというのに、工藤さんが敗北する姿を想像して大歓喜しているのだ。
その住職の横で、伊達正彦さんが、ヴィーナスで真っ赤に充血した目をさらに見開き、額の汗を拭いながらキララさんに抗議した。
「そ、そんな……こんな人数を、すでにあの電話の時、呼んでいたのか? でも、確かあの時は『二体』としか言ってなかっただろ?」
伊達さんの指摘通りだ。
玄関でキララさんが電話をした時、確かに二体と言っていた。
キララさんは、ステージの上から冷淡に見下ろして答えた。
「あなた方が、このお寺に到着する前にすでに呼んでいたのです。…今、この静森町は、なにか、ざわついているもので。念のためにと思い、五十体を呼びました。二体は、追加の分です」
「そんな……」
伊達さんが絶句する。
最初から、私たちがこの地下に来ることを予測していた?
…おそらくそれはないだろう、だが、この町がざわついているのは本当だ。
そして、ざわつかせている張本人は私たちなのだから。
しかし、シタックスという会社と、教団の底知れぬ動員力と情報網に、私は改めて恐ろしさを感じた。
「皆さん、もう自己紹介の必要はありませんね?」
キララさんが、無機質な声で告げる。
「さすがに、この人数は覚えきれん」
工藤さんが、冷や汗を流しながらも不敵な笑みを崩さずに言い返した。
ステージの中央。
希美さんの至近距離まで迫った五人のドールたちが、ピタリと足並みを揃え、五方向から希美さんを完全に包囲した。
黒、ベージュ、グレー、様々なデニール数のストッキングが、一斉に希美さんの視界を塞ぐ。
ヴィーナスの効果が乱反射し、普通なら一瞬で脳が焼き切れるほどの視覚の暴力。
しかし、木島希美という六億のプレイヤーは、その程度の数で屈するような女ではなかった。
「……行くぜ。最大奥義『黄金の波紋(ゴールド・エコー・クエイサー)』!!」
希美さんの、腹の底から響くような叫び声が地下空間を震わせた。
彼女は、囲まれた五人の中心で、ワインレッドのドレスの深いスリットから、極薄ベージュに包まれた右脚を高く、限界まで高く振り上げた。
そして、重力と自身の全ての体重を乗せ、ベージュのエナメルハイヒールで、クリスタルのランウェイの床を、渾身の力で踏み砕くように打ち付けたのだ(ストンプ)。
ガァァァァァンッ!!
爆発的な轟音が鳴り響く。
その瞬間。
ヒールが床を叩いた衝撃に合わせて、希美さんのふくらはぎから太腿にかけての筋肉が、究極の収縮を見せつけた。
五デニールの極薄ベージュが、筋肉の躍動と完全に同化し、地下の照明を反射して目も眩むような『黄金の輝き』を放った。
踏み込みの物理的な衝撃波と、極限まで高められた肉体美。
その二つが合わさった『黄金の波紋』が、希美さんの足元を中心にして、同心円状にクリスタルの床を伝わって広がっていったのだ。
「あ、ぁぁぁぁっ……!」
波紋に触れた五人のドールたちの身体に、異変が起きた。
彼女たちの足元から、急激なヴィーナスの赤みが、まるで血流が逆流するかのように眼球に向かって駆け上がっていったのだ。
「あぁぁっ……!!」
五人の女性たちが、同時に天を仰ぎ、白目を真っ赤に充血させたまま、バタバタと音を立ててステージの床に倒れ込んだ。
(カオリの心:すごい……! 一撃で五人を同時に気絶させるなんて……!)
私は、その圧倒的な範囲攻撃の威力に息を呑んだ。
しかし、奥義が決まり、五人の意識が飛んだのを確認すると、希美さんは「ハァッ……ハァッ……」と激しく肩を上下させ、その場に膝をつきそうになっていた。
さすがに、六億の彼女であっても、これほどの大技を放てば莫大なエネルギーを消費する。
息が上がり、顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
倒れた五人。
しかし、ステージの周囲には、まだ感情のない瞳をしたドールたちが並んでいる。
残るは、四十五人。
そして、無傷のキララさん。
絶望的な数の暴力が、私たち三人を完全に飲み込もうとしていた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第八十八話:黄金の波紋と五十の絶望 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
