境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百八話:もう一つの渡辺姉妹、五億の創薬研究員
(視点:渡辺菜々)
重厚なスチールの扉を押し開けると、そこには冷たい純白の光の海が広がっていた。
東京ドームにも匹敵しようかという、途方もなく巨大な地下スタジアム。
その暗闇の底を切り裂くように真っ直ぐに伸びる、クリスタルのランウェイステージ。
私たち三人は、新たな装いと、静脈から全身へと巡り始めた『ヴィーナス』の熱い脈動を抱えながら、その光の舞台へと足を踏み出した。
私の白目はすでに微かに赤みを帯び、視界の解像度は恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
エメラルドグリーンのオフショルダー・ミニドレスの冷たい布地が肌に触れる感覚、五デニールの極薄シルバーグレーのストッキングが空気を切る僅かな抵抗すらも、脳の奥底でチリチリとした快楽の火花に変換されそうになる。
隣を歩くお姉ちゃんは、深紅(クリムゾンレッド)のアシンメトリーなタイトドレスの裾を揺らし、五デニールのシアーブラックに包まれた脚で、堂々と、そして殺気を漲らせて歩みを進めていた。
私たちの少し後ろでは、ブラックのレザーショートパンツとヌードベージュのストッキングという、K-POPアイドルのような洗練された姿へと生まれ変わった美桜ちゃんが、黒のレースアップショートブーツで必死に私たちの足音についてきている。
「待たせたな」
お姉ちゃんの凛とした声が、巨大な空間に反響する。
しかし、ステージの中央付近へと視線を向けた私は、思わず息を呑み、シルバーのピンヒールサンダルの歩みを一瞬止めてしまった。
そこにいたのは、先ほど地上の裏路地で私たちを侮辱し、ランウェイバトルを挑んできた安っぽいタイツ姿の教団の女三人……だけではなかった。
彼女たちのさらに前方に、見知らぬ二人の女性が静かに立っていたのだ。
一目でわかった。
後ろで縮こまっている三人の下っ端幹部とは、纏っているオーラの次元が全く違う。
ヴィーナスによって過敏になった私の視覚が、その二人の姿を捉えた瞬間、脳の処理能力が警鐘を鳴らすほどの圧倒的な『美』の質量。
向かって左に立つ女性は、身長百八十センチはあろうかという長身。
彼女が身に纏っているのは、白衣を極限までスタイリッシュにアレンジしたような、純白のロングコートドレスだった。
首元まできっちりとボタンが留められているが、腰の位置から下は大胆なスリットが入り、歩くたびにその内側に秘められた脚線美が露わになる構造。
髪は一糸乱れぬ夜会巻きにまとめられ、切れ長の目元を強調するクールなアイラインが、彼女の知性と冷徹さを際立たせている。
そして、その純白のスリットから伸びる脚を包んでいるのは、まるで氷の結晶を溶かして編み込んだかのような、五デニールの『アイスブルー』の極薄ストッキング。
足元には、装飾を一切排した純白のエナメル・ポインテッドトゥパンプス。
冷酷なまでの清潔感と、触れれば凍傷を負いそうなほどの鋭いエロティシズムが完全に融合していた。
向かって右に立つ女性は、身長百七十八センチほど。
左の女性と同じく白衣をベースにした衣装だが、こちらはショート丈のジャケットにアレンジされ、下にはタイトな黒のレザースカートを合わせている。
アッシュブロンドのショートボブの髪が、地下の冷たい照明を弾くように輝き、目元には挑発的に跳ね上げられたキャットアイメイク。
ダークチェリーのリップが、攻撃的な好戦性を隠そうともしていない。
彼女の脚を包むのは、五デニールの『ブラッドオレンジ』のストッキング。
血のような、あるいは燃え盛る炎のような鮮烈なオレンジ色が、黒のレザースカートとの強烈なコントラストを生み出し、視覚をダイレクトに焼き焦がしてくる。
足元は、凶器のように細いピンヒールがあしらわれた、黒のレザーショートブーツだった。
アイスブルーの静謐と、ブラッドオレンジの激情。
全く正反対のベクトルを持つ二つの美の極致が、そこには並び立っていた。
「……お前たちは誰だ?」
お姉ちゃんが、深紅のドレスのスリットからシアーブラックの脚をスッと前に出し、警戒心を露わにして鋭く問いただした。
「私らは、そっちの後ろで縮こまってる三人に用があるんだ。……それとも、お前もそいつらに加勢して私たちと戦うのか?」
お姉ちゃんの声には、一触即発の殺気が込められていた。
すでに私たちはヴィーナスを打っている。
引き返すことはできないし、ここで血祭りに上げるつもりでステージに立っているのだ。
しかし、お姉ちゃんのその好戦的な問いかけに対し、純白のコートドレスを着たアイスブルーのストッキングの女性が、静かに一歩前に出た。
「いえ、私たちは戦いに来たのではありません」
彼女の口から紡がれたのは、氷のように冷たく、けれど驚くほど丁寧で穏やかな声だった。
彼女は、純白のポインテッドトゥパンプスを完璧な角度で揃えると、私たちに向かって深く、そして美しく頭を下げたのだ。
「この三人が、あなた方に無礼をしたと聞き及びましたので、謝罪に参りました。……この度は、そちらの美桜さんを侮辱するような発言を、この末端の者たちがしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
その言葉に、私は思わずあっけに取られてしまった。
(菜々の心:えっ……謝罪? 美桜ちゃんのことで……)
純白の女性が頭を下げると、その後ろで震えていた紫タイツや網タイツの三人の幹部たちも、慌てて前に出てきて、深々と頭を下げた。
「す、すいませんでしたっ!」
「調子に乗って、申し訳ありませんでした!」
ガクガクと震えるその声からは、私たちに対する恐怖というよりも、前に立つ二人の『上官』に対する絶対的な恐怖が滲み出ていた。
完全に肩透かしを食らった形になった。
ランウェイバトルという死闘を覚悟し、ヴィーナスの劇薬まで体内に打ち込んでステージに上がったというのに、相手は戦う意志を見せず、ただ平謝りしているのだ。
「……はぁ?」
お姉ちゃんは、拍子抜けしたような、それでいて行き場のない怒りに顔を歪ませた。
「あーもう! どうすんだよ、私のこのムカつきは! お前らがこいつ(美桜)を罵倒したせいで、私はもう完全に戦闘モードなんだよ。ヴィーナスも打ったしな。今さら謝られたって、引っ込みがつかないんだよ!」
お姉ちゃんが、黒のエナメルパンプスのピンヒールで、イライラとクリスタルの床を強く叩く。
ヴィーナスによって脳のリミッターが外れかかっている状態では、感情のコントロールも難しくなる。
お姉ちゃんの怒りはすでに頂点に達していた。
すると、その空気を嘲笑うかのように、ブラッドオレンジのストッキングを履いたショートボブの女性が、フッと鼻で笑った。
「え〜、マジで? そんなんだ。本当に打ったんだ、ヴィーナス。……馬鹿だねー」
彼女のキャットアイの瞳が、私たちを小馬鹿にするように細められる。
「こいつら(後ろの三人)は、まだ打ってないよー? 謝罪に来ただけだからね。……そんなにやりたいのか、ランウェイバトル? 血の気が多くて結構なことだけどさ」
彼女は、黒のショートブーツのピンヒールを鳴らし、挑発的に腰を捻ってブラッドオレンジの脚をこれ見よがしに強調した。
「なんなら。私が相手になってやろうか?」
その言葉に、お姉ちゃんの目の色が変わった。
お姉ちゃんの瞳の白目の赤みが、怒りとヴィーナスの効果でさらに一段階、濃くなったのが分かった。
「あぁ? お前が? 私と?」
お姉ちゃんは、深紅のドレスの胸元を張り、氷のような冷笑を浮かべて挑発を返した。
「いいぞ、やろうぜ。だいたい、後ろのそいつら三人じゃ、どう見ても弱そうでつまらないと思ってたからな。……その点、お前は、少しは私の暇つぶしになりそうだな」
一触即発。
ブラッドオレンジの女と、深紅のお姉ちゃん。
二人の視線が空中で激突し、バチバチと火花が散るのが見えるようだった。
その、今にも戦闘が始まりそうな空気を、再び遮ったのは、純白のコートドレスの女性だった。
「蜜柑(みかん)。また悪い癖が出ましたね」
彼女の静かで、けれど絶対的な冷たさを持つ声が、ショートボブの女性、蜜柑を制止した。
「相手を見下し、必要以上に挑発するあなたの悪い癖が。私たちは謝罪に来たのです。仕事を増やさないでください」
「ちぇっ。分かってるよ、恋音(れもん)」
蜜柑と呼ばれた女性は、つまらなそうに肩をすくめ、不満げに唇を尖らせた。
しかし、お姉ちゃんの怒りはそれでは収まらなかった。
「おい、私の事を舐めてたのか?」
お姉ちゃんが、凄みのある低い声で蜜柑を睨みつける。
テレビで愛想を振りまくアイドルタレントの顔ではない。
裏社会の美脚市場で、血を吐くような思いをしてシタックスのトップドールの座をもがき掴み取ってきた、戦士としての本気の怒り。
しかし、蜜柑はお姉ちゃんのその怒りを鼻で笑い飛ばした。
「あたりまえだろ? テレビでチヤホヤされてるだけの『芸能人』が、私たち本職に勝てると本気で思ってんのか? めでてーな。ホント馬鹿だなお前は」
「なんだと……っ!」
お姉ちゃんの全身から、殺気にも似た怒りが噴出した。
芸能人だからと下に見られること。
それが、お姉ちゃんにとってどれほど屈辱的なことか、ずっと隣で戦ってきた私には痛いほどよく分かる。
お姉ちゃんが、今にも奥義を放とうとシアーブラックの脚の筋肉を引き絞った、その瞬間だった。
「申し訳ありません」
純白のコートドレスの女性、恋音が、再び静かに言葉を発した。
「ですが、妹の言う通りです。……私たちは、あなた方の事は、すでに詳細に存じております」
恋音の切れ長の瞳が、氷の刃のようにお姉ちゃんを、そして私を射抜いた。
「あなたは渡辺和香。シタックス所属。脚値は……『二億八千万』。……そして、そちらの女性、渡辺菜々さん。あなたの脚値は『一億九千万』ですね」
「えっ……!?」
私は、思わず息を呑んだ。
すでに私たちの脚値を、この2人は正確に把握しているのだった。
だが、普通に考えたら、美脚市場に精通していれば、知っていて当たり前だ。
アトランティスは、プレイヤーの脚値はすべて公表しているはずだからね。
すると、恋音は純白のエナメルパンプスの足を優雅に揃え、一礼した。
「申し訳ありません、自己紹介が遅れました。私の名前は、渡辺恋音(わたなべ れもん)、三十歳」
そして、隣のブラッドオレンジの脚を持つ女性を手で示した。
「そっちは双子の妹、渡辺蜜柑(わたなべ みかん)、三十歳です。……以後お見知りおきを」
「渡辺……」
私とお姉ちゃんは、顔を見合わせた。
なんという皮肉だろう。
私たちの苗字と同じ、「渡辺」という姓を持つ双子の姉妹。
お姉ちゃんは、フッと冷ややかに鼻を鳴らした。
「はっ、奇遇だね。同じ渡辺の姉妹か。……いいだろう。どっちがこの市場(マーケット)での『真の渡辺姉妹』か、はっきりさせてやるよ」
お姉ちゃんの言葉は、もはや後には引けない決闘の宣言だった。
しかし、恋音さんはお姉ちゃんのその宣言を受けても、全く表情を崩さなかった。
そして、彼女の美しい唇から、私たちを深い絶望の淵へと突き落とす、恐るべき真実が紡がれたのだ。
「……ちなみに、私たちの脚値は、二人とも『五億』です」
「……な?」
お姉ちゃんの顔から、サァッと血の気が引いた。
私も、自分の耳を疑った。
五億。
それは、一億九千万の私や、二億八千万のお姉ちゃんからすれば、天と地ほども離れた、圧倒的な怪物クラスの数字。
二人とも五億。合計十億という途方もない戦力。
そんなバケモノが、この教団の地下にまだ隠れていたなんて。
「そして……」
恋音は、アイスブルーの五デニールストッキングの脚をゆっくりと交差させ、とどめを刺すように決定的な事実を口にした。
「私たちは、この教団の『創薬研究員』のトップを務めております。……皆様が今、その身に打ち込んだ『ヴィーナス』は……私たちが開発を担当したのです」
「なっ……なん……だと?」
お姉ちゃんの声が、微かに震えていた。
(菜々の心:そんな……二人とも五億!? それに、あのヴィーナスの開発者!? だなんて……そんなの、絶対に相手にならない。数字だけ見ても圧倒的に私たちが弱いのに、相手はこの薬の全てを知り尽くしている専門家。……勝てるわけがない……!)
私の心臓が、恐怖で早鐘のように打ち鳴らされる。
アイボリーのレースアップブーツの足首から、力が抜けそうになる。
「お姉ちゃん……相手が……悪すぎる……よ……」
私は、震える声でお姉ちゃんの背中越しに呟いた。
私の後ろに立っている美桜ちゃんも、五億という数字とヴィーナス開発者という言葉の重圧に耐えきれず、黒のレザーショートパンツの脚をガタガタと震わせていた。
すると、ショートボブの妹、蜜柑が、ブラッドオレンジの脚を挑発的に揺らして笑った。
「はっ、ビビってんの? もうおせーんだよ。お前らはもう、私たちが作った薬を打っちまってるんだからな。……おい、恋音。あいつらもうヴィーナスを打ったぞ、お前も打てよ。手本を見せてやろうぜ」
蜜柑の言葉に、恋音は静かに頷いた。
そして、純白のコートドレスのポケットから、見覚えのある銀色のシリンダーケースを取り出した。
「後悔しないでくださいね。……やるとなれば、私たちは手加減はしませんよ?」
恋音の切れ長の瞳が、冷酷な光を放つ。
お姉ちゃんは、深紅のドレスの裾を強く握りしめ、少しだけその手を震わせながらも、決して引こうとはしなかった。
「……ああ、望むところだ」
お姉ちゃんのその言葉を合図に、恋音と蜜柑は、それぞれケースからピンク色の液体が入った注射器を取り出し、迷うことなく自身の白い腕にブスリと針を突き刺した。
シューゥ……。
薬液が、五億の怪物たちの体内へと注入されていく。
数秒後。
恋音のアイスブルーの瞳と、蜜柑のキャットアイの白目が、ほんのりと、しかし確実に赤く染まり始めた。
ヴィーナス開発者自身が、自らの開発した毒をその身に宿す。
その姿は、狂気と美学が完全に融合した、まさに現代の魔女のようだった。
「ヴィーナスを打ったってことは、もうこれ以上のルール説明は不要だな」
蜜柑が、ダークチェリーの唇を舐めながら、黒のショートブーツのピンヒールでクリスタルの床をガツンと鳴らした。
お姉ちゃんもまた、エナメルのポインテッドトゥパンプスのヒールを鳴らし、深く、鋭く息を吐き出した。
「ああ。……じゃあ始めるぞ」
静森町の巨大な地下スタジアム。
純白の光のランウェイステージの上で、二組の「渡辺姉妹」による、誇りと美学、そして絶望的な数字の差を覆すための、極限のランウェイバトルが今、静かに幕を開けようとしていた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百八話:もう一つの渡辺姉妹、五億の創薬研究員 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
