境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百十二話:奇跡の象徴と、ブラッドオレンジの反逆
(視点:渡辺菜々)
「続けなさい」
そのたった一言が、私たちの停戦の安堵を完全に打ち砕き、広大な地下スタジアムの空気を絶対零度にまで凍りつかせた。
白鳥月姫(しらとり かぐや)。
教団の『奇跡の象徴』であり、最も神聖なる絶対者。
彼女の放つオーラは、先ほどまでここで死闘を繰り広げていた五億の創薬研究員である恋音さんや蜜柑さんですら、足元にひれ伏させるほどの圧倒的な『神性』と『重圧』を伴っていた。
年齢は二十四、五歳くらい。身長百七十六センチほどの長身は、どこかガラス細工のように儚げでありながらも、洗練された女性の完璧な美しさを体現している。
純白のシフォンワンピースの裾から伸びる、五デニールの『パールホワイト』の極薄ストッキングに包まれた脚。
透明なクリア素材と純白のエナメルで作られたプラットフォームパンプス。
彼女のその言葉は、誰の同意も必要としない、絶対的な世界のルールの書き換えだった。
「そして、私を楽しませなさい」
月姫様の宣告が響き渡ると同時に、ステージの下、暗闇の奥に潜んでいた教団の人間たち、おそらく裏方や下っ端の信者たちだろうが、音もなく動き出した。
彼女たちは、まるで事前に用意していたかのように、ステージの正面、クリスタルのランウェイが最もよく見える特等席の位置に、豪奢な装飾が施された一つの巨大な『椅子』を運び出してきたのだ。
それは、ただの椅子ではなかった。
真紅のビロード張りに、重厚な金細工のフレーム。
背もたれが高くそびえ立つその造形は、まるで中世ヨーロッパの西洋の王様が座る玉座そのものだった。
月姫様は、パールホワイトの脚を優雅に交差させながらゆっくりとステージを下り、その玉座へと歩みを進めた。
カツン……、カツン……。
プラットフォームパンプスの足音が消えると同時に、彼女はふわりとシフォンワンピースの裾を広げ、その王様の椅子へと深く腰を下ろしたのだ。
プラチナブロンドのロングウェーブヘアが、玉座の真紅のビロードによく映える。
蒼い瞳が、ステージ上に残された私たちを、見下ろすように冷たく、そして愉悦を孕んで見つめていた。
地下スタジアムの誰もが、この異様で荘厳な光景を前に、ただ黙るしかなかった。
呼吸すら許されないような、絶対者の支配。
しかし、この息の詰まるような沈黙を破ったのは、ステージの下で膝をつき、頭を垂れていたショートボブの女性、渡辺蜜柑さんだった。
「ひ、姫様……」
蜜柑さんは、黒のレザーショートブーツの膝を床についたまま、顔を青ざめさせて声を絞り出した。
五億の怪物としての余裕や、先ほどまで私たちに見せていた悪ぶった態度は完全に消え失せ、そこにはただ、上位の存在に対する本能的な恐怖だけが滲んでいた。
「すでに、この遊びは終わりました。……どうか、速やかに、ご退去をお願いいたします」
蜜柑さんの声は震えていた。
教団のトップに君臨する存在をこんな危険な地下のスタジアムに長居させるわけにはいかないという、幹部としての焦りもあったのだろう。
しかし、その必死の進言に対する月姫様の反応は、冷酷極まりないものだった。
「……お前は、いつから私に意見をするほど偉くなったのだ?」
月姫様の蒼い瞳が、スッと細められた。
たったそれだけで、空間の重力が何倍にも増したかのような圧迫感がステージを襲う。
「私が、続けろと言っているのだ。……早く続けよ。それともなにか? 私の言うことが聞けんのか?」
氷の刃のような冷たい言葉。
蜜柑さんの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
すると、蜜柑さんの隣で同じように膝をついていた純白のコートドレスの姉、恋音さんが、慌てて妹をたしなめるように口を開いた。
「蜜柑、続けるのだ。……姫様が席に座られているのだ。これ以上のご進言は、無礼に当たる」
恋音さんの声には、妹を案じる気持ちよりも、月姫様への狂信的なまでの忠誠心と、逆らうことへの絶対的な恐怖が支配していた。
私は、その光景をステージの上から見て、驚きと混乱で頭がどうにかなりそうだった。
さっきまで、あんなに強くて、私たちを見下していた五億の二人が、たった一人の女性の言葉にこれほどまでに怯え、屈服しているなんて。
(菜々の心:……ダメだ。このままじゃ、お姉ちゃんが意識を失ったまま、また戦いを強要される。あの『あいつら』のところへ急がなきゃいけないのに……!)
私は、エメラルドグリーンのタイトワンピースの胸元を強く握りしめ、シルバーのピンヒールサンダルでクリスタルの床を一つ鳴らした。
恐怖で足がすくみそうになるのを必死に堪え、勇気を振り絞って声を張り上げた。
「……恋音さん! 蜜柑さんの言う通り、この勝負はもう終わりました!」
私の突然の抗議に、恋音さんも蜜柑さんも、そして玉座の月姫様も、一斉に私へと視線を向けた。
「さっき、痛み分けで終わりにしましょうって、そっちから提案したじゃないですか! 私たちを、この地下から出してください!」
私は、理不尽な状況をなんとか覆そうと必死だった。
私たちの目的は、あいつらのアジトへ向かい、田辺社長に命じられた最高機密のアンドロイド、キララを回収することなのだ。
こんなところで、命懸けの見世物になっている暇はない。
しかし、私の必死の訴えを、月姫様は鼻で笑った。
「ふっ……何をたわけたことを」
玉座から見下ろす蒼い瞳には、私のような低い脚値の存在など、道端の石ころ程度にしか映っていないようだった。
「出たければ、その二人に勝ってからここを出るんだな」
「えっ……」
絶対者の無慈悲な宣告。
それに同調するように、純白のコートドレスを纏った恋音さんが、アイスブルーの五デニールストッキングの脚でゆっくりと立ち上がった。
「そういうことです」
恋音さんは、純白のエナメルポインテッドトゥの足取りも優雅に、ステージからフロアへと歩みを進めると、月姫様が座る玉座の真横、まさに姫を守る騎士のような位置にピタリと立って、冷ややかに私を見上げた。
「ここから出たければ、私たち二人に勝ってください」
「話が違います!」
私は、怒りと焦りで声を荒げた。
「あなたは先ほど、痛み分けで終わりにしようと言ったではありませんか! なぜ、急にそんな……!」
私が食い下がると、恋音さんは表情一つ変えずに、ただ冷酷に言い放った。
「事情が変わったのです」
その一言で、全ての議論は強制的に打ち切られた。
月姫様が望まれた。
だから、全てがひっくり返る。
それが教団における絶対のルールなのだ。
月姫様は、玉座の背もたれに深く身体を預け、長いプラチナブロンドの髪を優雅に揺らした。
「蜜柑。ランウェイバトルを再開しろ。……そして、私が見ているからには、最高のエンターテインメントを魅せてみろ」
最高のエンターテインメント。
それは、私たちが血を流し、精神を破壊され、美の暴力によって無惨に倒れ伏す様を、一番の特等席で楽しむという残酷な要求だった。
「あ……うぅ……」
ステージの下で取り残された蜜柑さんは、ブラッドオレンジのストッキングに包まれた膝をついたまま、立ち上がることができずにいた。
その時だった。
「……ッ!」
私がハッとして目を凝らすと、月姫様が座っている玉座の背後、真紅のビロードの影から、彼女が「何か」を取り出しているのが見えたのだ。
それは、細長く、鈍い光を放つ金属。
日本刀のような、たいそうな長さの『刀』だった。
なぜ、あんな恐ろしいものが、こんな地下スタジアムの玉座の裏に隠されていたのか。
月姫様がその刀を手に取った瞬間、空気が一気に張り詰め、殺気が物理的な重さとなってのしかかってきた。
「ひ、姫様……」
床に這いつくばっていた蜜柑さんが、その刀を見て、信じられないものを見るように声を震わせた。
「それは、まさか……白鳥家の『奉納刀』ではありませんか?」
白鳥家。
月姫様の姓であり、おそらく教団の中枢を担うであろう一族の名前。
その奉納刀が持ち出されることが、教団においてどれほどの意味を持つのか、蜜柑さんの絶望的な顔を見れば明らかだった。
月姫様は、鞘に収まったままのその刀を、愛おしそうに細く白い指で撫でた。
「そうだ。これは『カグツチ』だ。……私がこれを持っている意味が、分かるな蜜柑?」
「っ……!」
蜜柑さんのキャットアイの瞳が、恐怖で極限まで見開かれた。
彼女のダークチェリーの唇がガクガクと震え、言葉を紡ぐことすら困難なようだった。
「は、はい……。ひ、姫様を……満足させることができなければ……し、死に、あ、値する……」
「な……!?」
私は、あまりの言葉に息を呑んだ。
「死……? そ、そんな……ただのランウェイバトルで……!」
美脚市場での戦いは、過酷で精神を破壊されるものだ。
しかし、それはあくまで意識を刈り取るまでのことであり、実際に命を奪うような直接的な殺し合いではないはずだ。
それなのに、満足させられなければ死。
そんな理不尽なことが、許されていいはずがない。
しかし、玉座の横に立つ恋音さんは、妹の蜜柑さんに向かって、一切の感情を排した声で冷酷に命じた。
「やるのだ蜜柑。……でなければ、お前が死ぬんだぞ」
「恋音、さん……?」
私は、恋音さんの横顔を見て、背筋が凍りついた。
氷のように冷徹なはずの五億の創薬研究員、恋音さん。
彼女の言葉は残酷だったが、月姫様に見えないように体の横で握りしめられている彼女の両手は、血の気が引くほど白く、そして小刻みに……激しく震えていたのだ。
狂信。
恐怖。
そして肉親への無情な命令。
恋音さんもまた、月姫様という絶対者の前では、逆らうことなど微塵も考えられない一人のちっぽけな存在に過ぎないのだ。
「……で、できない……」
蜜柑さんは、ブラッドオレンジの脚を震わせ、床に手をついたまま、首を横に振った。
「こんな……今の…ボロボロの状態で、どうやって……。姫様を…満足させるようなパフォーマンスなんて……できません……」
先ほどの戦いで、蜜柑さんは美桜ちゃんに奥義を跳ね返され、深刻なダメージを負っている。
その状態で、絶対の基準を持つ月姫様を納得させるほどのエンターテインメントなど、提供できるはずがないのだ。
蜜柑さんのその弱音を聞いた月姫様は、スッと蒼い瞳を細めた。
「蜜柑。お前は私の言うことが聞けないのか? ……それがどういう意味なのか、分かっているのか?」
月姫様の声は、低く、そして絶対的な死の宣告を含んでいた。
彼女は、手にした『カグツチ』の鞘を握りしめたまま、玉座からゆっくりと立ち上がった。
純白のシフォンワンピースが揺れ、パールホワイトの五デニールストッキングが、冷たい照明を反射する。
カツン……。
プラットフォームパンプスが鳴り、月姫様はそのまま、玉座からフロアへ、そしてクリスタルのステージへと向かって、静かに、けれど逃げ場のない足取りで歩みを進め始めたのだ。
「ひっ……!」
蜜柑さんが、後ずさりしようとして、床に手をついたままもつれる。
死が、歩いてくる。
圧倒的な美と、絶対的な権力を持った天使が、神が。
その時だった。
「……ああ、分かってるよ……」
蜜柑さんが、震える体を無理やり引き起こすようにして、ゆっくりと立ち上がったのだ。
黒のレザースカートが乱れ、ブラッドオレンジのストッキングが、怒りと恐怖がない交ぜになった色で震えている。
「分かってるさ……。自分が、どれだけ狂った組織の言いなりになってきたか……!」
蜜柑さんは、ショートボブの髪を振り乱し、迫り来る月姫様に向かって、ついにその隠していた本心を、声を大にして叫んだのだ。
「この町がおかしくなったのは、お前のせいだろーーーーッ!!」
「えっ……!?」
私は、突然の蜜柑さんの反逆の叫びに、目を丸くした。
「お前さえ……! お前さえ、この町に来なければ……平和だった静森町が、こんな狂った処刑場に変わることはなかったんだ!!」
蜜柑さんの悲痛な叫びが、地下スタジアムに木霊する。
教団の創薬研究員として、五億の脚値を持って闇市場に君臨していた彼女の、心の底からの叫び。
彼女もまた、狂っていく故郷の姿に、内心では絶望し、抗えない力に流されていた一人の人間だったのだ。
その反逆の言葉を真正面から浴びた月姫様は、歩みを止めることなく、ただ酷薄に、赤い唇を歪めて冷笑した。
「……言うたな、蜜柑。それは、教団への反逆の意思ありということだな」
月姫様の声は、どこまでも冷酷だった。
「私に逆らうということは、教団に逆らうことと同義。……そして今から、お前は反逆者だ」
月姫様が、右手に持った『カグツチ』の鞘を、カツンと床に立てる。
「私が、反逆者を、生かしてここから出すと思うか?」
月姫様の蒼い瞳が、蜜柑さんを、そしてステージ上にいる私たちをゴミのように見下ろした。
「私には、この世に生を受けたその瞬間から……生殺与奪の権利が与えられているのだ。愚民どもの、な」
(菜々の心:……愚民? 自分以外の人間を、そんな風に本気で見下しているの? この人、本当に狂ってる……!)
私は、あまりの理不尽さと自己中心的な思想に、全身の血が沸騰するような怒りを覚えた。
「狂っている……!」
私は、たまらず叫び返していた。
「あなたは『奇跡の象徴』と呼ばれているのではないのですか!? なのに、人の命をなんだと思っているの!」
私の抗議に対し、月姫様ではなく、玉座の横に控えていた恋音さんが、無機質な、感情を完全に殺した声で答えた。
「……その通りです。月姫様は、唯一、この美脚市場で生殺与奪の権利を持つ、神そのものなのです」
「か、神……?」
「ふざけるなッーーー!!」
私の隣で、蜜柑さんが怒りに顔を歪めて吠えた。
「たかが人間が、神になどなれるわけがないだろ!!」
蜜柑さんは、ブラッドオレンジの脚でクリスタルの床を蹴り、私たちの方へとパッと振り返った。
その顔には、死を覚悟した者の、ある種の清々しさと、鬼気迫る決意が浮かんでいた。
「おい、芸能人!」
蜜柑さんが、私に向かって鋭く呼びかけた。
「は、はい!」
「お前たち、ここから逃げて、行く当てはあるのか!?」
「えっ……あ、はい!」
私は、一瞬戸惑ったが、すぐにスマートフォンのGPSの光点を思い出し、はっきりと答えた。
「この教団のすぐ近くのビル……『クロドリ』っていう看板のある場所に行こうとしています!」
あいつらのいるアジト。
そこに行けば、きっと何か状況を打開する手がかりがあるはずだ。
「クロドリ……近いな。そうか。なら、ここを脱出するぞ」
蜜柑さんは、黒のレザーショートブーツのヒールを力強く鳴らした。
「私も一緒にそこに行く。……お前は、そこで倒れている姉ちゃんを担ぐんだ。いいか、先にここを脱出しろ!」
「えっ……蜜柑さんは!?」
「その間、私がなんとかこいつらを足止めをする。……反逆の代償は、私自身が払ってやるよ」
蜜柑さんのその言葉は、自らを犠牲にして私たちを逃がすという、あまりにも重い決意だった。
「分かりました……!」
私は、躊躇している暇はないと悟り、強く頷いた。
そして、隣で震えていた美桜ちゃんの手を強く握った。
「美桜ちゃん! 一緒にお姉ちゃんを担いで!」
「はいっ!」
美桜ちゃんは、すぐに私の意図を理解し、黒のレザーショートパンツの脚で素早くお姉ちゃんの倒れている場所へと駆け寄ってくれた。
私たちは二人で、意識を失って重くなった姉さんの両脇を抱え込み、必死に立ち上がらせた。
「準備はできたな?」
蜜柑さんが、私たちを背中で庇うようにして、前方の月姫様と恋音さんを睨み据えながら言った。
「姫様がくるぞ。……行くんだ!!」
「はい! ……蜜柑さんも、絶対に無茶はしないでくださいね!!」
私は、エメラルドグリーンのドレスの裾を翻し、お姉ちゃんの体重を肩に感じながら、美桜ちゃんと一緒に、出口である重厚な鉄の扉へと向かって、全速力で駆け出した。
背後から迫る、純白の神の恐怖。
そして、その絶望にたった一人で立ち向かう、ブラッドオレンジの反逆者。
私たちは、振り返ることなく、静森町の冷たい地下空間から、一筋の希望が待つ地上へと続く階段を目指すため、必死にステージを降り始めたのだった。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百十二話:奇跡の象徴と、ブラッドオレンジの反逆 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
