「こじつけ」は悪いことなのか?-サブカル×作業療法を考えるとき、創造の入口にあるもの
JOSCR事務局です。
「サブカルコンテンツを作業療法にどう活用できるか?」
そんな問いを学生に投げると、かなりの頻度で返ってくる言葉があります。
「こじつけかもしれませんが……」
この前置き、たぶん多くの教員や臨床家は少し気になるはずです。
自信がないのか。
論理が弱いと思っているのか。
あるいは、好きなものを無理やり作業療法に結びつけているという後ろめたさなのか。
でも最近、僕はこう思うようになりました。
“こじつけ”は、入口としてはむしろ悪くないのではないか。
もちろん、そのままではだめです。
ただ、まったく価値がないわけでもない。
むしろ新しい実践や研究は、かなり高い確率で、最初はそういう曖昧な接続から始まっているのではないかと思うのです。
「こじつけ」は、未熟な仮説である
まず整理したいのは、「こじつけ」という言葉の正体です。
学生が「こじつけかもしれませんが」と言うとき、多くの場合その中身はこうです。
何か面白い接点は感じている
でも、まだうまく説明できない
理論や枠組みとして語る自信がない
だから予防線を張っている
つまりこれは、単なる雑談ではなく、
“仮説の芽”があるけれど、まだ構造化されていない状態です。
ここを雑に切り捨ててしまうと、学生は「好きなものを臨床に持ち込むのは浅いことだ」と学習してしまう。
すると、発想そのものが萎縮します。
でも本当は逆で、新しい領域はたいてい、最初は少し怪しく見える仮説から始まります。
音楽療法も、園芸療法も、アートと医療の接続も、VR活用も、最初から完成された理論として出てきたわけではありません。
最初は「これって何か意味があるのでは?」という直感があったはずです。
問題は、その直感をどう扱うかです。
創造の中核にはアナロジーがある
ここで重要になるのが、創造はアナロジー(類推)から生まれるという視点です。
創造というと、ゼロからまったく新しいものを生み出す行為のように見えます。
でも実際には、人はそんなふうには考えていません。
多くの場合、創造はこういう形を取ります。
既に知っている構造を
別の領域に写して
新しい意味や用途を見つける
つまり、「AはBに似ているのではないか?」と考えることです。
たとえば、
電気回路を「水の流れ」にたとえる
コンピュータを「脳」にたとえる
都市運営を「生活管理」にたとえる
こうした発想は、全部アナロジーです。
そして、サブカル×作業療法も本質的には同じです。
TRPGの役割分担は、社会的役割の練習に使えないか
SimCityの資源管理は、生活設計の練習に応用できないか
リズムゲームの同期性は、運動や注意の訓練に転用できないか
これらは全部、別の領域の構造を、作業療法に写そうとする試みです。
だから「こじつけ」は、言い換えれば
“粗いアナロジー”です。
そして創造の入口には、この粗いアナロジーがかなりよく出てきます。
ただし、アナロジーは発想には強いが、証明には弱い
ここはかなり大事です。
「創造はアナロジーだ」と言うと、何でも結びつけてよいように見えてしまいます。
でもそれは違います。
アナロジーは、あくまで発想のエンジンです。
それ自体が証拠ではありません。
たとえば、
「このアニメを観ると元気になる気がする」
これは発想としてはいい。
でも、このままでは作業療法にはなりません。
なぜなら、
何が作用しているのか
どの機能に関係するのか
どのような対象者に合うのか
生活にどうつながるのか
どう評価するのか
が何も整理されていないからです。
つまり、
こじつけは入口にはなるが、出口にはならない。
ここを勘違いすると、サブカル活用はただの「好きなもの紹介」で終わります。
それでは臨床にも研究にもなりません。
「悪いこじつけ」と「良いこじつけ」の違い
では、何が違いを生むのでしょうか。
僕は、違いは“感想で終わっているか、構造まで降りているか”だと思っています。
悪いこじつけ
推しがいると元気になる
ゲームは楽しいからリハビリにもいい
アニメを見ると前向きになれる
これは全部、感想の域を出ません。
間違っているとは言いませんが、OTとしては弱い。
良いこじつけ
TRPGには役割分担、順番待ち、協働意思決定がある
それは社会的認知や対人調整と関係する
それらは就労準備や集団参加に接続しうる
これはもう、かなりOTに近い。
つまり重要なのは、
コンテンツそのものではなく、その中にある構造を取り出せるかどうかです。
サブカルを語るのではなく、
サブカルに埋め込まれたメカニクスや経験の構造を語る。
ここまでいくと、話は急に強くなります。
学生の「こじつけ」を潰すのではなく、翻訳する
教育的にも、ここはかなり重要です。
学生が「こじつけかもしれませんが」と言ったとき、そこで止めてしまうのは簡単です。
でも、それをすると学生は「この領域は正解がないから危ない」と感じてしまう。
本当にやるべきなのは、否定ではなく翻訳です。
たとえば、学生が
「アイドルの推し活って生きがいになると思います」
と言ったなら、そこで終わらせずに、
何がその人を動かしているのか
それは動機づけのどの側面なのか
日常生活のどこに影響するのか
行動変容としてどう見られるのか
と掘っていく。
すると「推し活は大事です」という話が、
意味ある作業、自己効力感、役割維持、社会参加、習慣化の話に変わっていきます。
つまり教員や指導者の役割は、
学生の“雑な接続”を笑うことではなく、
それを臨床言語に変換することです。
サブカル×OTは、そもそも「こじつけ力」が必要な領域でもある
サブカル×作業療法のような領域は、既存の教科書に答えが載っていません。
標準化された評価法も、十分な先行研究も、整理された理論もまだ乏しい。
つまりこの分野では、最初から「正しく考える」ことはほぼ不可能です。
最初は必ず、少し飛躍のある接続から始まります。
だから必要なのは、
こじつけをしないことではなく、
こじつけを育てることです。
もっと言えば、
思いつきを出す力
領域をまたぐ力
共通構造を見抜く力
仮説を言語化する力
それを検証可能な形に落とす力
この一連の力が必要です。
そしてこれは、かなり高度な能力です。
ただ「好き」を語るだけでは届きません。
本当に必要なのは「こじつけ」ではなく、「構造化」だ
ここまでを一言でまとめるなら、こうです。
こじつけは悪ではない。
でも価値があるのは、それを構造化できたときだけ。
サブカル×OTで重要なのは、
コンテンツ名を挙げることではない
好きだと語ることでもない
何となく効きそうと話すことでもない
そうではなく、
その体験にはどんな要素があるのか
何が人を動かしているのか
どの機能や参加に接続しうるのか
どんな人に適応しうるのか
何をもって変化とみなすのか
を整理することです。
ここまでできれば、「こじつけ」はもうこじつけではありません。
それは仮説であり、設計であり、場合によっては研究になります。
おわりに-「こじつけ」は、創造の恥ではなく、起点かもしれない
学生の「こじつけかもしれませんが」という言葉には、未熟さもあります。
でも同時に、まだ言葉になっていない創造の芽もあります。
だから大事なのは、それを恥じさせることではなく、
“その接続のどこに構造があるのか”を一緒に探すことだと思います。
創造は、多くの場合アナロジーから始まります。
そしてアナロジーは、最初は少し無理があるように見えるものです。
ただし、そこから先に進めるかどうかは別問題です。
感想で終わるのか。
構造化して仮説にするのか。
さらに検証に進めるのか。
この差が、遊び半分の思いつきと、新しい実践の差になります。
サブカルを作業療法に活かすという営みは、まさにその境界線にあります。
だからこそ、必要なのは「こじつけをやめること」ではなく、
こじつけを育て、翻訳し、検証する力なのだと思います。
