咲き誇る才能を陰から照らして — 櫻坂46マネージャー〇〇の挑戦 第十四話
愛知での圧巻のパフォーマンスを経て、ツアーの熱狂はそのまま関西の地へと持ち込まれた。
十月上旬、大阪城ホール。
二日間にわたる大阪公演は、愛知で炸裂したグループの勢いをさらに加速させるものとなった。
福岡での悔しさを完全に昇華し、正しく身体を使う術を体得した彼女たちのパフォーマンスは、連日の過密日程すら感じさせないほどに洗練され、客席を埋め尽くしたファンを熱狂の渦へと巻き込んでいた。
「よし、大阪最終日、無事終了! 全員撤収作業に入ってくれ!」
終演を告げる舞台監督の声が響き渡ると、楽屋裏は安堵と疲労、そして次の最終目的地である埼玉・メットライフドームへの高揚感が入り交じる独特の空気に包まれた。
僕の表の顔は、手際よく荷物をまとめ、氷やドリンクを片付ける新人マネージャー。だが、その裏の顔である施術師としての眼差しは、楽屋で互いの健闘を称え合うメンバーたちの全身を冷静にスキャンしていた。
森田さんの足首、小林さんの腰、田村さんの肩甲骨。
春先から僕が助言してきた「骨格と筋肉の調和」は、激しいツアーの渦中でも完全に機能していた。無駄な力みを排除し、体幹の反動で踊るフォームが染み付いた彼女たちの足元には、壊れる気配すらない。
(みんな、本当によく自分の身体と向き合えるようになった……)
ワゴンを押し、使用済みのアイシング用タオルを回収しながら、僕は静かに胸を撫で下ろしていた。
……だが、僕の眼は、楽屋の少し離れたスペースで一人静かに着替えを進めていたキャプテン、菅井さんのわずかな身体の「異変」を見逃さなかった。
菅井さんは、周囲のメンバーと笑顔で会話を交わしながらも、椅子から立ち上がる瞬間、左の股関節を庇うように一瞬だけ体の軸を右へと逃がしていた。
本当に一瞬、数ミリの重みの移動。
普通なら、誰も気づかないレベルの仕草だった。
(……股関節の可動域が狭まっている。痛みというよりは、長年の疲労の蓄積による関節の詰まりか……)
菅井友香という人は、グループのキャプテンとして、常に自分を後回しにして全体を支え続けてきた人だ。一期生としてグループの黎明期から激動の改名劇まで、誰よりも重いプレッシャーをその華奢な肩に背負い込んできた。
身体が壊れるような無茶な踊り方をしているわけではない。だが、グループを想い、常に気を張り詰めてきたその長年の「緊張」が、彼女の身体の奥深くに静かな傷となって溜まりつつあった。
「〇〇さん、お疲れ様です!」
ワゴンを押す僕の隣に、すっと近づいてきたのは武元唯衣さんだった。
唯一、僕の背景を知る理解者だ。武元さんは僕の視線の先を目で追い、声をひそめて尋ねてきた。
「……〇〇さん。もしかして、菅井さんのこと気にしてます……?」
「……分かりますか」
「分かりますよ。〇〇さんが誰かを静かにじっと見てる時って、その人が自分で気づいてない無理をしてる時だって。菅井さん、どこか痛めてるんですか……?」
「いいえ、怪我や炎症ではありません」
僕はタオルを折りたたみながら、声のトーンを落として答えた。
「菅井さんの身体は、長年グループを支え続けてきた歴史そのものです。怪我というよりは、ずっと気を張り詰めてきた精神的な緊張が筋肉の奥深くに固まって、左の股関節の動きを狭めている。痛みを訴えるほどではありませんが……メットライフドームのような巨大な会場で全力を出そうとした時、最後の最後で『踏み込みの深さ』に影響が出ます」
武元さんはハッと息をのんだ。
「キャプテンとして、ずっと先頭で踏ん張ってきてくれた人ですから……」
「ええ。ですが菅井さんは、自分の不調を絶対に口にしない方です。マネージャーの僕が『体を診ましょうか』と踏み込むのも、彼女のプライドを傷つけかねない」
「じゃあ、どうするんですか……?」
武元さんが真剣な眼差しで僕を見つめる。
僕は控えめに微笑み、静かに首を振った。
「焦る必要はありません。今の櫻坂46には、菅井さんのその背中をずっと見続けてきた仲間たちがいますから。……僕が直接手を下さなくても、彼女を支える『仕組み』は作れます」
翌日。都内へ戻ったグループは、数日後に迫るツアーファイナル——埼玉・メットライフドーム公演に向けた最終調整期間に入っていた。
ドームクラスの広大なステージ。そこはアリーナとは比較にならない運動量と、演出のスケール感が求められる場所だ。
リハーサルスタジオでは、セットリストの最終確認が行われていた。
「一曲目からラストまで、ドームの全客席にエネルギーを届けるつもりで位置につこう!」
TAKAHIRO先生の指示が飛び、曲が始まる。
その通し練習の最中、僕は舞台袖からメンバーたちの「連動」を観察していた。
菅井さんは、キャプテンとして誰よりも大きな動きでグループを牽引している。しかし、サビの深い沈み込みの局面で、やはり左の股関節の引っかかりから、わずかに沈み込みの深さが甘くなっていた。
菅井さん自身は、それを気合いと表情の迫力で完全にカバーしている。素人目にも、スタッフの目にも、それは「完璧なパフォーマンス」に見えただろう。
だが——それに真っ先に気づいたのは、周りのメンバーたちだった。
曲の合間の短い水分補給の際、二期生の田村さんと森田さんが、自然な形で菅井さんの元へと歩み寄った。
「ゆっかーさん! ここのサビの移動なんですけど、私たちが少し早めに前に出るので、ゆっかーさんは少し体勢を整えてからセンターラインに入ってもらっていいですか?」
田村さんが、優しく笑いながら提案する。
菅井さんは一瞬、驚いたように目を見開いた。
「えっ? でも、それだと保乃ちゃんとひかるちゃんの運動量が増えちゃうよ? 私は全然大丈夫だから……」
「違います、ゆっかーさん」
森田ひかるさんが、まっすぐな瞳で菅井さんを見つめて言った。
「ゆっかーさんがいつも一番前で道を切り開いてきてくれたから、今の私たちがいます。でも、ドームではゆっかーさん一人に負荷をかけたくないんです。フォーメーションの緩急で、私たちがもっと深く沈んで勢いを作ります。ゆっかーさんは、全体を支える一番綺麗な姿勢で真ん中にいてください」
「ひかるちゃん……保乃ちゃん……」
菅井さんの瞳に、温かい光が宿る。
二人は、菅井さんが言葉にしない「身体のわずかな固さ」を責めるのではなく、彼女が築いてきたキャプテンとしての存在感を最高に引き立てるために、自らの運動量を増やしてサポートしようとしていたのだ。
かつて春の『BAN』リハーサルで、自分の痛みを隠して一人で抱え込もうとしていた森田さん。重圧に押し潰されかけていた田村さん。
〇〇との関わりの中で「正しく身体を使い、仲間を頼る」ことを学んだ彼女たちが、今度は自らの意志で、グループの象徴である菅井友香さんの背中を支えようとしていた。
その光景を、一期生の小林さんも温かい眼差しで見守っていた。
「ゆっかー。後輩たち、すごく頼もしくなったね。甘えていいんだよ、私たちのグループなんだから」
小林さんが優しく肩を叩くと、菅井さんの肩からすっと無駄な力みが抜けていくのが見えた。
(……素晴らしいな)
その光景を見ていた僕は、深く胸を打たれていた。
元治療家としての技術で直接関節を緩めることだけが、解決策ではない。 彼女たちが培ってきた絆と、互いを思いやる心が、菅井さんの心と身体の「緊張」を自然と解きほぐしていく。これこそが、僕が目指していた「誰も傷つかないチーム」の完成形だった。
「〇〇くん、ちょっといいかな?」
リハーサルが終了し、撤収作業を行っていた僕のもとに、菅井さんが歩み寄ってきた。
「菅井さん、お疲れ様です。どうかしましたか?」
「あのね……後輩みんなに言われて気づいたんだけど、私、無意識のうちに左の股関節周りに力が入ってたみたいで。〇〇くんが前にみんなに教えてた、股関節の力を抜くストレッチ……私にも少し教えてもらってもいいかな?」
菅井さんは、少し照れくさそうに微笑んだ。
誰かに強制されたわけでも、僕から「治療しましょう」と申し出たわけでもない。仲間との対話を通じて自分の身体と素直に向き合った菅井さんが、自らの意志で助言を求めてきてくれたのだ。
「ええ、喜んで。とても簡単なケアですよ」
僕はパイプ椅子を用意し、菅井さんに腰掛けてもらった。
周りには、片付けを手伝う武元さんや森田さん、小林さんたちが自然と集まってくる。
「菅井さん、無理に伸ばそうとしなくて大丈夫です。左の骨盤の下に手を当てて、息を吐きながら少しだけ上半身を前に倒してみてください」
僕は「マネージャーとしてのストレッチ指導」の体を保ちつつ、菅井さんの左足首の角度を微調整し、太ももの付け根にかかる圧力を自然に逃がす位置へと誘導した。
僕の手が指先で触れたのは、関節を直接押すためではない。筋肉が弛緩する「正しい骨格の角度」を彼女自身の身体に覚えさせるためだ。
「……あ……」
菅井さんが小さく息を漏らした。
「すごい……全く力が入ってないのに、股関節の奥のつっかかりが……スーッと消えていく……」
「菅井さんが長年グループを引っ張ってきた中で、無意識に関節をかばう癖がついていただけです。筋肉はもう、十分に頑張ってきました。骨の位置さえ整えば、こんなに柔らかく動いてくれますよ」
僕が優しく伝えると、菅井さんの目から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「私……ずっと『自分が一番しっかりしなきゃ』って、無意識に全身に力が入ってたのかもしれません。でも……今日の練習でひかるちゃんや保乃ちゃん、ゆいぽんたちと話して、〇〇さんにここを緩めてもらって……私、一人で背負わなくていいんだなって、心から思えました」
「ええ。今の櫻坂46には、菅井さんを支える頼もしい仲間がたくさんいます。メットライフドームは、全員で楽しんできてください」
「はいっ……! ありがとうございます、〇〇くん!」
菅井さんの笑顔には、長年の重圧から解放された、どこまでも透き通った強さが宿っていた。
横で見守っていた武元さんが、僕に向かって小さくガッツポーズを作ってみせる。僕は眼鏡の位置を直し、静かに頷きを返した。
手当てが必要だったのは、関節の痛みではない。 彼女の心に長年溜まっていた「孤独な責任感」だったのだ。仲間たちの成長と、ほんの少しの骨格の調整が、キャプテンの重圧を解き放った瞬間だった。
十月下旬。
ツアーファイナルの地、埼玉・メットライフドーム。
秋の澄んだ空気の中、巨大なドーム屋根の向こうには、全国から集まった何万人ものファンが作る熱気が満ち溢れていた。
舞台裏の楽屋。 そこには、怪我の恐怖に怯える者も、一人で重圧を抱え込む者も、誰一人としていなかった。
自分自身の身体を正しく使い、互いの痛みに気づき、支え合う術を手に入れた櫻坂46。
「みんな! いよいよツアーファイナル、メットライフドームです!」
中央に立つキャプテン・菅井さんの声には、一切の力みがなかった。しなやかで、力強く、それでいて温かい声が楽屋全体を包み込む。
「改名から一年、いろんなことがあったけれど……私たちは今、最高のチームになれたって胸を張って言えます。今日来られなかった福岡のファンのみなさんの想いも、全国で応援してくれたみんなの想いも、全部このステージにぶつけましょう! 櫻坂46、行くぞーーーーっ!!」
「「「おーー!!!!」」」
地鳴りのような咆哮が楽屋を揺らした。
一期生も二期生も、全員が最高の笑顔で円陣を組み、互いの背中を力強く叩き合う。
センターの森田さんが、僕の方を振り返り、眩しいほどの笑顔で深く頭を下げてくれた。小林さんも、田村さんも、そして武元さんも。
「行ってきます、〇〇さん!」
「ええ。皆さんの勇姿、しっかり目に焼き付けていますから」
僕が答えると、彼女たちは風のようにステージ下へと向かって駆け出していった。
暗転するドームのステージ。 万雷の拍手と、客席を埋め尽くす圧倒的な桜色の光の海。
カウントダウンがゼロになり、重低音がドーム全体を揺らし始める。
光の渦の中へ飛び出していく彼女たちの背中は、どんな嵐も吹き飛ばすほどに美しく、そしてどこまでも誇らしかった。
解剖学の知識も、過去の経歴も関係ない。 ただ一人のマネージャーとして、彼女たちが怪我なく、自分らしく輝ける場所を守り抜くこと。
彼女たちが紡ぐ歴史の足元を支え続けるため、僕の密かな挑戦は、この大舞台の歓喜とともに、さらなる未来へと続いていくのだった。
(第十五話へ続く)
