お釣りはいくらでしょうねぇーー暗算苦手な仲間と私
我が家の玄関先には、定期的に「暗算が苦手な仲間」がやってくる。
始まりは、数年前までよく利用していた大手スーパーSYのネットスーパーだった。 ビールや炭酸水をケースで頼むと、いつも届けてくれるおなじみの配送員さんがいた。
小柄なのに、重たい箱を軽々と運ぶ頼もしい人。
ただ一つだけ、チャーミングな弱点があった。
どうやら、暗算が苦手らしいのだ。
そして——あいにく、私も苦手だった。
一万円札のような大きなお札を出すと、
端数の計算で二人してフリーズしてしまう。
「ええと……お釣りはいくらになるのでしょうねぇ」
「そうですねぇ、ええと……」
ドアを挟んで、いい大人が二人で首を傾げながら、電卓やスマホを引っ張り出し答えを導き出す。
少し間の抜けた、でも妙に穏やかな時間。
私はこのやり取りが、密かに好きだった。
ある日のこと。
会社の懇親会用の飲み物を、私はSYのネットスーパーで手配することにした。 お目当ては、プライベートブランドのチューハイだ。
安くて抜群に美味しい上に、可愛らしいロゴ。
フレーバーも豊富で懇親会にはうってつけ。
これを重たい思いもせず、会社のオフィスまで直接届けてもらう。
我ながら、これ以上ない完璧な「タイパ重視」の選択だと自画自賛していた。
オフィスに配送員さんが到着したというので受付に行くと、そこに見覚えのある顔が立っていた。
いつも我が家にビールを届けてくれる、あの彼だった。
「あっ、私です!
いつも家でお世話になっています!」
思わず嬉しくなって声をかけた。
その日は会社のクレジットカード払いだったので、
玄関先でいつも二人で首を傾げる、あの小さな暗算はなかった。
彼は私を一瞬チラリと見た後、ちょっと首をかしげて、
「あ、どうも……」と、なんだかよそよそしい、控えめな挨拶を返すだけだった。
あれ?私だと気づかなかったのかな。
……いや、そりゃそうか。
家ではボサボサの髪、すっぴん、ヨレた部屋着。
会社ではそれなりにメイクもして整えた姿。
一致するほうが難しい。
少しだけ寂しい気持ちになりながら、その日はそのままお見送りした。
後日、今度は自宅に彼が配達に来てくれたとき、思い切ってあの日のことを聞いてみた。
すると彼は、照れくさそうにこう教えてくれた。
「なんとなく分かってはいたんですけどね。
でも、もし違っていたらいけないし……
他の方の前で“常連さん”って言うのも、ご迷惑かなと思って」
その一言で、すべてがひっくり返った。
気づかなかったのではなく、気づいた上での距離だった。
プロとしての静かで優しい心づかい。
そして、私の日常の姿を知るからこその、機転の利いた判断。
それを知って、胸が、じんわり温かくなった。
しかし、そんな温かい日常に突然の終わりが告げられる。
スーパーSYが、地域から撤退することになったのだ。
もう彼から荷物を受け取ることもなくなってしまう。
最後の配達の日、私は思わず言った。
「もう来なくなっちゃうんですね。寂しくなります」
彼は少し困ったように笑って、
「私も、これからどうするのかまだ決まっていないんですよ」
とぽつりと言った。
それきり、彼とは会えなくなった。
せっかく生まれた心地よい縁が消えてしまったこと、そして彼の行く末を、私はしばらくの間、ずっと案じていた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
並行して利用していた超大型スーパーEのネットスーパーで、
いつものように重い発泡酒のカートンを注文した。
チャイムが鳴り、ドアを開ける。
そこに立っていたのは——
Eの真新しい制服を着て、満面の笑みを浮かべた彼だった。
「ええっ!?」
驚く私に、彼は少し恥ずかしそうに、でも本当に嬉しそうに笑っていた。
配送のプロである彼は、SYからEへと籍を移し、そして運命のいたずらのように、再び我が家の配送ルートに戻ってきたのだという。
「あ、このお釣りなんですけど……」
彼が、昔と全く同じように、少し困ったような顔でお札を見つめる。
「お釣りはいくらになるのでしょうねぇ」
玄関先に、あの懐かしくて愛おしい時間が、そっくりそのまま帰ってきた。
ネットスーパーという、スマホ一つで買い物が完結するデジタルで便利な時代。
けれど、その先にいるのはやっぱり「人」なのだ。
ボロボロのジャージ姿から、スーツを着て働く今にいたるまで、
私の生活を支え続けてくれた彼。
今日も我が家のチャイムが鳴る。
重い箱を抱えた彼と、二人がかりの答え合わせを始めるために、私は玄関へと向かう。
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