午後6時、彼女は社員ではなくなる 第7話
触れない手
月曜日の朝、森川隆司はいつもより少し早く会社に着いていた。
特別急ぎの仕事があるわけでもなく、朝一番で誰かと打ち合わせをする予定もないのに、まだ人の気配がほとんどない事務所で一人コーヒーを淹れ、パソコンを立ち上げながら何度も時計へ目をやっている自分に気づき、四十九にもなって何をしているんだと苦笑した。
昨夜、真紀と電話を切ったのは日付が変わる少し前だった。
仕事以外の話をあれほど長くしたのは初めてで、離婚した頃のことや一人暮らしの寂しさ、若い頃の失敗まで話してしまい、なかでも真紀が最後に言った、
――今の方が近くにいる感じします。
その一言が、眠ろうとして目を閉じるたびに何度も浮かんできた。
電話なら距離は離れているはずなのに、毎日同じ事務所で顔を合わせているときより近いと感じたという意味を、隆司は考えすぎている自分に気づきながら、それでも都合よく聞こえたあの言葉をどうしても忘れることができなかった。
八時半を少し回った頃、事務所のドアが開く。
「おはようございます」
聞き慣れた声に、隆司はパソコンの画面を見ていた顔を上げた。
「おはよう」
真紀はいつもと変わらない様子で入ってきた。
肩にかかる髪はきちんと整えられ、淡い色のブラウスに黒いパンツ、薄い化粧もいつも通りで、昨夜電話の向こうで涙声になりながら「寂しいですね」と言っていた女とは思えないほど普通の顔をしている。
鞄を置き、パソコンを立ち上げると、すぐに仕事の話を始めた。
「社長、今日九時半に取引先の方来ます。それと午前中にこの二件、見積もり確認お願いします」
「分かった、置いといて」
「はい」
そこまで完璧にいつも通りだった。
隆司は少し拍子抜けしたような、それでいてどこか安心したような気持ちになる。
会社では今まで通り。
昨夜そう決めたわけではないが、二人とも同じことを考えているのだろう。
そのはずだった。
真紀が書類を持ってこちらへ歩いてきて、
「これです」
と差し出した瞬間までは。
隆司が紙を受け取ろうと手を伸ばす。
指先は触れなかった。
数センチ離れたまま、真紀は先に手を離した。
ただそれだけなのに、隆司は触れなかったことに気づいてしまった。
以前なら意識するはずもない距離で、真紀も同じだったのか、書類から手を離したあとほんの一瞬だけ隆司を見て、その目には昨夜の電話を思い出しているような揺れがあった。
目が合った。
真紀は少しだけ頬を緩め、すぐに視線を逸らして自分の席へ戻っていく。
その背中を見ながら、隆司は会社では何も変わらないという考えが、すでに少し崩れていることを認めざるを得なかった。
午前中は来客と電話が重なり、現場の社員も何人か出入りしていたため、二人がまともに話す時間はほとんどなかった。
だからこそ、ふとした瞬間に目が合うことが妙に増えた。
電話を受けながら真紀がこちらを見る。
コピー機の前で紙を揃えながら、隆司と視線がぶつかる。
誰かと話している隆司を、少し離れた場所から真紀が見ている。
どれも一瞬で、第三者が見れば何も感じない程度のことだったが、二人だけには分かる何かがそのたびに残り、それを気づかれないようにするために、互いに少しだけ仕事へ意識を戻しているようだった。
正午を回った頃、真紀が声をかけた。
「社長、お昼どうします?」
毎日聞いているはずの言葉なのに、隆司は少しだけ笑いそうになる。
昨夜、日曜日の夜に一時間以上も電話で話した女が、今はいつも通り「社長」と呼んでいる。
「行く?」
「はい」
「何食う?」
「何でもいいです」
「それ禁止って言っただろ」
「じゃあ、お蕎麦」
「珍しいな」
「昨日ちょっと飲んだので」
その言葉に、二人とも一瞬だけ目を合わせた。
昨夜を知っているのは二人だけ。
「……飲んでたもんな」
隆司が言うと、真紀が少し笑う。
「覚えてるんですか」
「電話したんだから覚えてるよ」
「結構しゃべりましたよね」
「一時間以上」
「そんなに?」
「お前が切らなかったから」
「森川さんもでしょ」
言った瞬間、空気が止まった。
真紀自身が一番驚いたように目を見開き、そのあとすぐに事務所の中を見回す。
幸い誰もいなかった。
「……今のなしです」
隆司は思わず笑った。
「もう遅い」
「誰もいないですよね」
「今はいない」
「危ない」
そう言いながら真紀は自分の口元に手を当て、少し照れたように笑った。
「会社では社長でした」
「言ったのお前だろ」
「はい」
「気をつけろよ」
「社長もです」
「俺は呼び方変わらないから楽なんだよ」
「ずるいですね」
「何が」
「私は二つあるのに」
その言い方が妙に耳に残った。
社長と森川さん。
社員と真紀。
二人だけが知っている呼び分けが、いつの間にか小さな秘密のようになっている。
車に乗り込み、昼の街を走り出しても、二人の間には朝から続いている微妙な緊張が残っていた。
助手席の真紀は窓の外を眺めながら、しばらく黙っている。
「昨日」
やがて真紀が口を開いた。
「ん?」
「すみませんでした、遅くまで電話」
「別に」
「迷惑じゃなかったですか?」
「だったら出てないよ」
真紀は少しだけ笑った。
「じゃあ良かった」
「でも今朝眠かった」
「私もです」
二人とも笑い、その笑いが収まったあと、真紀はまた窓の外へ目を向けた。
「今日、変ですね」
「何が」
「何となく」
「何が変なんだよ」
「昨日まで普通だったのに」
隆司は少し考え、無理に誤魔化すのをやめた。
「今日も普通にしようとしてるけどな」
真紀がこちらを見る。
その目が少し柔らかくなる。
「私もです」
それ以上は言わなかった。
店に着くと昼時で混んでおり、空いていたのはカウンター席だけだった。
二人並んで座る。
思った以上に狭く、肩と肩の間はわずかしかない。
以前にも何度かこうして食事をしたはずなのに、今日は距離の近さばかりが気になる。
真紀がメニューを開いた拍子に肘が隆司の腕へ軽く触れた。
「あ、ごめんなさい」
すぐに離れる。
「別にいいよ」
たったそれだけの接触なのに、そこだけ感覚が残った。
真紀が髪を耳へかけると、首筋が見え、いつもの香りがふわりと漂う。
隆司が無意識に視線を向けた瞬間、真紀が小声で言った。
「今、見ました?」
「最近そればっかだな」
「分かるんですって」
「何が」
「見られてるの」
「会社より近いからだろ」
「それだけ?」
真紀が横目でこちらを見る。
隆司は少し笑いながら前を向いた。
「面倒くさい女だな」
「今頃気づいたんですか」
「五年目でな」
「遅いです」
料理が運ばれてくる。
二人とも箸を取り、最初は仕事の話をしていた。
来週の予定。
材料の納期。
取引先からの返事。
何でもない会話。
その途中。
カウンターの下で、真紀の膝が隆司の膝へ触れた。
ほんのわずか。
最初は偶然だと思った。
狭い席だ。
仕方がない。
けれど数秒経っても離れない。
真紀も気づいているはずだった。
それでも動かない。
隆司も動かなかった。
服越しに伝わるわずかな温度。
誰にも見えない場所で、二人だけが知っている小さな接触。
会話は続いているのに、言葉の意味が少しずつ頭へ入ってこなくなる。
「社長」
「ん?」
「聞いてます?」
「聞いてるよ」
「ほんとに?」
真紀の声に少し笑いが混じる。
「じゃあ何の話してました?」
隆司は答えられず、真紀が小さく笑った。
その瞬間、膝がさらにわずかに触れた。
偶然なのか。
真紀が動いたのか。
分からない。
確かめることもできない。
隆司は箸を置き、水を一口飲んだ。
「杉原」
「はい」
「近い」
言った瞬間、真紀の表情が少し変わる。
「狭いからです」
「そうだな」
「嫌ですか?」
隆司は横を見た。
真紀もこちらを見ている。
少し意地悪そうに見える目の奥に、わずかな緊張があった。
「嫌なら離れてるよ」
隆司がそう言うと、真紀は何も返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩める。
そのあと二人は何事もなかったように食事を続けた。
膝は最後まで、完全には離れなかった。
店を出て車へ戻る。
助手席に真紀が座り、シートベルトを締める。
隆司がエンジンをかける。
しばらく誰も話さなかった。
さっきの膝の感触がまだ残っている。
やがて信号で止まったとき、真紀がぽつりと言った。
「社長」
「何」
「さっき」
「何」
「離れませんでしたね」
隆司は前を見たまま答えた。
「狭かったからな」
「そうですね」
真紀も前を見る。
少し間が空く。
「私もそういうことにしておきます」
隆司は思わず笑った。
「何だよそれ」
「別に」
真紀も笑う。
赤信号。
車内。
午後の日差し。
二人の手はセンターコンソールの近くに置かれていた。
隆司の左手。
真紀の右手。
ほんの十センチもない。
少し動かせば触れる。
さっき膝が触れていたのだから、今さら指くらい何でもないはずだった。
それなのに。
どちらも動かなかった。
触れそうで。
触れない。
真紀が一度だけ隆司の手を見る。
隆司もそれに気づく。
手を伸ばせばいい。
そう思った。
けれど伸ばさなかった。
昨夜、真紀は長い恋を終えたばかりだ。
寂しさの中で電話をくれた。
その気持ちが本当に自分へ向いているのか。
それともただ、空いた場所を埋めようとしているだけなのか。
今はまだ分からない。
だから触れない。
その代わり。
隆司は左手を少しだけ近づけた。
ほんの数センチ。
真紀も動かなかった。
指先と指先の間に残った距離は、あと少し。
信号が青になる。
隆司は手を戻し、ハンドルを握った。
車が動き出す。
真紀は窓の外を見ながら、少しだけ笑っていた。
会社へ戻れば、また社長と社員になる。
仕事をする。
電話を取る。
見積もりを作る。
誰も二人の変化には気づかない。
けれど。
その日の昼。
カウンターの下で触れた膝と。
赤信号で最後まで触れなかった指先の距離を。
二人とも、しばらく忘れることはできなかった。
―第8話へ続く
