読みとは ごんぎつね

 ごんぎつねとはなかなか難しい教材に属すると思う。四年生がその世界観に立つには難儀な時代になったからだ。
 あまり昔話に触れていない。
 そういう意味ではまんが日本昔ばなしは偉大だった。

 この方noterなのだが私はこの読みには賛同しない。
 これがまず重要。クリティカルシンキングとはそれを意味すると考える。私は批判的思考とは訳さない。私はクリティカルとは必殺の一撃というイメージの強い世代だから。なのでどちらかというと多様的な考え方という方の捉えをしてしまう。多様性に勝てるロジックというのはそうないという必殺性を帯びている。蹴り技だけで一撃必殺は難しい。同様に突きだけでなく、パンチがあるから、関節をキメるから、そういう多様性があるから仕留められるのである。そのためには回答が正しいかどうかはさておいてその捉えが許されているかどうかの環境の方が重要だ。
 さてこの記事ではそれ以外の読みというものが許されているのか?

 私は初等教育においてどちらでも良いという教え方は望ましくないと考える派だ。それは理由があってそうした間口の広さ、鷹揚さに教師が対応していられるほど(大人も子どもも)暇ではないということが大きい。そこが対応可能な小学校ではない。その要素として教える教科数が多いこともあるがそれ以前に小学校には教科以前に教えておかねばならぬことがあるというのが私の考える大きなポイントです。
 それはおそらく中学校より上の学校の教員には理解できないことだと思います。もちろん大学教員などには及びもつかないことです。

 それますが世の中には子どもがいても子育てをしていない人間というのが存在すると思います。それはディスりでも非難でもありません。(昔、親になる資格がない親が存在すると言い切ったニュースキャスターがいましたがそういうこととは違います。)私からすれば当たり前のことです。そういう人がいらっしゃってもしょうがない。逆に言えば子どもがいなくても子育てができる人はいる。それはご自分が子どもと学んで育っていけることを指して子育てというと考えているからです。子どもが育って自分が育っていない大人はうまく子育てできていないなぁと思います。人間に完成などない、子育てしたり介護したりして変われる人間こそが人格の完成に近づけるということだと思います。上手い下手の話ではない。だから私だって子育てできてないなぁと思うことだらけです。もちろんできている時もある。だから子育ては面白いんです。

 それが今日の本題に近くて、教育してるけど教育できていないことがあるのではないかということに近い。
 私はそうした教育できていない時の知識、技能、心持ちというのは大事だと考えている。教え込みも必要だと考えている。しかしそれは時と場合によるということ。もちろんこれは教師の技能によるところが大きくてそれを操ることができるかどうかも大きい。教育技術の読者層というのがそれに足りていない層にリーチすることを目指しているというのはとてもよく理解できる。さればこそのこの記事なのだろう。それはそれで良いこと。そういう要求に応えることも商売の一環なのだろうと思う。

 ただ国語嫌い(学ぶ方としても教える方としても)の私であっても(だからこそ?)固定的に読むことは教育にはならないと思う。(それはどちらででも良い否定派としては裏切り行為だということです。)固定的に読むことを教えても読みはできるようにはならないからだ。それが教育効果として、継続的な教育としてどうかという問いかけではなく、これが読みの正解ということを教師の中に広げてしまうことに対して非常に危機感があるということである。

 でも固定的に書かなければそうした書籍としては成り立たないことは理解できる。またそうした教師の学習集団として成立しないことも理解できる。そうした枠組みをもって成立することがあるということだ。なんだかよくわからないフワッとした書き物が教育技術という本にあってはならないのだろう。

 だからこそあえて指摘しておかなければならないのはこれまで何度も議論されてきた自明としての「賛同しない自由としての読み」ということなのだと思う。
 この記事でも書かれている「想像と創造」ということもその一面ではないかと解釈する。読みの基本として書いてある言葉、文章に忠実に読んでいくということがある。それを勝手に作ってしまっていいのかどうかということだと思う。私はある程度の理解に基づいていれば勝手に読んでしまっていいと思う。その辺が非常に難しいところで合意が取りづらいことはこれまでの国語教育の論争からもわかる。テクスト論なのか作家・作品論なのかということはそのわかりやすさとして良いと思います。ただこれすらも理解の範疇として合意できない側面もあるくらい国語教育の認識の差というのはややこしいのです。
 そうしたことは許されることを概観するのに哲学は非常に役立つということは私の仮説です。哲学的に見ればこうしたことはある程度理解できます。認識の違いというものがどこから来るかを突き詰めてあるパッケージが哲学にはあるからです。

 今回もどっちが正しいかとかそれが存在しても良いかどうかという話ではなく賛同しない事由があるかどうかという話としてごんぎつねを取り上げたいということです。これは職場で国語教育の研究を行なっているときに起こりがちなのですが、かなり固定的な読みに支配されてしまう傾向が強い。それはこうした書籍やロジックの影響があるし、こういう集団が全国的に多いこともある。
 固定的でなくてはわかりにくい。そして今の教師はわかりにくいこと、実践しにくいこと、いわゆるパッケージ化されていないことを嫌がる傾向にあるということもあります。

 教師がもっと自由に読んでいいのではないか?そこから読みの手法がどちらでも良いという教えになるのではないかということです。

 私もこのごんぎつねの読み方になるほどなぁと思うからこそあえても申し上げておきたい。この読み方には賛同しないということを。


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