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シロクマ文芸部/密月


『熱帯夜』というタイトルの本が私の手元に届いたのは、うだるような暑さが肌に纏わりつく八月の半ば過ぎだった。来月出版される新刊本は三センチほどの厚みがあり、ページの冒頭には著者謹呈の紙が挟まっていた。上質な手触りの光沢ある黒い表紙に、紫や白や群青のインクが絡まり合いながら流れ落ちてゆく絵が描かれている。彼の本の装丁はいつでも美しく、はっとする洗練されたデザインに目を引く。

作家名は南極圏トラオ。ここ数年出版界を賑わせている新進気鋭の若手作家だ。書籍が売れなくなった昨今の風潮に背いて、彼の本だけは異例の数字を叩き出す。筆も早く、年間に三、四冊は新刊を刊行するスピードライター。大手出版社は彼の原稿の取り合いに躍起になっていて、編集者や作家同士の食事会でも必ず話題にのぼるほど、無視できない注目の存在だった。

けれども彼は完全なる覆面作家で、その素顔を知る者はほとんどいない。彼の才能に惚れ込んでいる有名編集長の開いたパーティーすら、平気でエスケープする度胸の持ち主だ。

四年前、作家の登竜門である権威ある文学賞を受賞した際も、トラオは世間の度肝を抜いた。授賞式の舞台に現れたのは、洒落たスーツでも、敢えてラフな服装でもない、トラの着ぐるみを着たトラオだった。

壇上での挨拶は、すべてお笑い芸人の大喜利のように進められた。司会者の問いかけに対し、彼は一切口を開かず、用意してきたフリップを次々めくって回答する。記者からの鋭い質問に対しても、ウィットに富んだ、あるいは人を食ったような回答をフリップで返し、緊張感に包まれていた会場は、さながら演芸場の様相を呈した。

ネットの反応は賛否両論。一部の文壇の重鎮たちからも「不謹慎な態度だ」と批判を浴びた。しかし、そんな雑音を黙らせるだけの圧倒的な力が、彼の作品にはあった。まだ誰にも触られていない視点。血が沸騰しそうなストーリー展開と、圧巻の表現力。ミクロでありマクロな物語は国境を越え、四十越える国で翻訳され、熱狂的な支持を集めている。

そんな彼が、ある日SNS で「一番好きな作家は誰か」というフォロワーからの問いに対し、私の名前を挙げたのだ。

『文章とは浸透率だ。彼女の本は一文字目から細胞が吸収したがる』

そのつぶやきに、私の長年の担当編集者である木島さんは色めき立った。

「先生、これはチャンスですよ! あの南極圏トラオとの対談が実現すれば、次の新刊のプロモーションとしてこれ以上のものはありません」

木島さんはすぐさまトラオの事務所に連絡を取り、対談を申し込んだ。しかし、返ってきたのは無機質な拒絶だった。

「南極圏トラオは、公の場での対談は一切行いません」

期待が大きかった分、木島さんの落胆も激しかった。私自身も、少し残念に思っていた。自分の作品をそれほどまでに愛してくれる若き才能と、言葉を交わしてみたかったという知的好奇心があったからだ。

だが、運命は意外な形で動き出す。
翌月、私の新刊出版を記念して開催されたサイン会でのことだ。会場には、私の小説に出てくるような、控えめでおとなしそうな女性ファンが多く詰めかけていた。その列の中で、一人だけ異質な空気を纏った人物がいた。

スラリとした背の高い、モデルのような容貌の男性。清潔感のあるボタンダウンの白いシャツにジーンズ。シンプルな服装をこれ以上ないほど着こなしていた。彼は順番が来ると、花が綻ぶような明るい笑みを浮かべて私を見つめた。

「デビュー作から大ファンなんですよ。先生の本を読むために生きてます」

その声は、沈滞した会場の空気を一瞬で塗り替えるような、不思議な響きを持っていた。私は彼の眩しさに年甲斐もなく照れて、名前の文字を間違えてしまったが「あっ、直さないでいいです」と、修正を拒んだ。

「ごめんなさいね」

謝りながらサイン本を差し出すと「いいんです。今日から改名します」と軽々した口調で言い、小さな紙袋を差し出した。

「これ、どうぞ。よかったら」

差し入れの類いは編集者が受け取ることになっているが、私は無意識に手を伸ばして受け取っていた。この温度のままに紙袋に触れたかったのだ。

帰宅して包みを開けた時、思わず声をあげた。入っていたのは、私が長年愛読している古いドイツ人作家の、極めて希少な初版本だった。感激しながらも、乾ききった本は急いで捲ったらぱらぱらと粉になってしまいそうで、慎重に一枚ずつ開いていった。
すると、最後のページに白い紙が挟まっていた。二つ折りになっていたそれは手紙だった。素っ気ない便箋に書かれた手書きの手紙に、私は絶句した。

『先日は大変な無礼を致しました。対談をお断りしたのは、決して先生を軽んじているからではありません。しかし、僕は先生との大切な会話を、他の誰にも聞かせたくないのです』

どくんと鼓動が大きく鳴った。サイン会場にいた、眩しいほどの光を放っていた青年。彼こそが、着ぐるみの下に素顔を隠した「南極圏トラオ」だったのだ。対談のことは水面下のやり取りで終わったから、本人でなければ知りえない。

なにより、思い出せば出すほど、彼が纏っていた空気は、トラオの書く小説そのものだった。洗練されているけれど、どこか破滅的な危険を孕んでいる、あの気だるい熱量…。全てを冗談にすり替えようとする、挑発を誘う笑み。動揺する私とは対照的に手紙の内容は簡潔で、最後の一行には短い文と連絡先が添えられていた。

『二人だけで会いませんか』

私は迷った。彼は私よりずっと若く、そして今をときめく時代の寵児だ。一方で私は、家庭を持ち、平穏な日常を守るべき立場の人間である。編集者の木島さんにも、夫にも、このことは言えない。これは仕事ではなく、かといって単なるファンとの交流でもない、もっと危うい何かの予感がした。それでも、私は彼に会いたいという衝動を抑えきれなかった。

私は秘密裏に彼と連絡を取り、七月の最初の金曜日、都心の静かな料亭で会う約束を交わした。外は、息苦しいほどの熱を孕んだ夜だった。アスファルトから立ち上る陽炎が、街灯の光を歪ませている。
タクシーに乗っている間の私は、窓ガラスに映る自分を見つめては、服装はおかしくないか、化粧や髪型は崩れていないかと、確認に余念がなかった。歩道を歩く、若く美しい女性が目に入ると、こんなおばさんが何をこんなにそわそわしているんだろうと正気に戻るが、熱が冷めきることはなかった。

食事会があって、と言った時「あ、そう」と夫は何ひとつ詮索することなく答えた。小説家の妻との生活に慣れきっている彼は、こうした会食の報告は「明日は雨らしいわ」ぐらいの、一応聞いておくものでしかない。私もいつもはそうだったが、おとといだけは夫の反応を見届けながら告げた。けれど「どこで?」も「誰と?」も、彼は訊ねなかった。四十八歳になる生真面目で気弱な女が、あらぬことをするわけがないと、わずかばかりの危機感すら抱いていなかった。私はそれに安心したのか、ムッとしたのか、自分でもはっきりしないが、胸にある秘密がひとまわり大きくなった気がした。

料亭の門をくぐると、水の打たれた石畳が涼しげな音を立てた。案内された奥の個室。襖が開くと、そこにはあの時と同じ、捉えどころのない微笑を浮かべた彼が座っていた。

「こんばんは」

彼の声が、湿り気を帯びた夜の空気に溶け込んでゆく。この夜が、私の人生を取り返しのつかない場所へと連れていってしまわないよう祈った。

床の間付きの広い個室は、都会の喧騒を嘘のように遮断していた。磨き上げられた黒漆塗りの座卓が、庭の緑を鏡のように映し出している。その向こう側に座る南極圏トラオは、サイン会の時と同じく、眩しいほどの清潔感を纏っていた。

「お忙しい中、わがままを聞いてくださってありがとうございます」
 
彼は深々と頭を下げた。着ぐるみを着てフリップをめくっていた人物と同一人物だとは、未だに信じがたい。しかし、その細長い指先や、伏せられた睫毛が描く影の鋭さに、彼の作品が持つあの「冷たい熱量」の片鱗が見えた。

「こちらこそ。ご招待いただいて光栄です」

仲居が運んできたビールが、薄いグラスの中で黄金色に輝いている。私はあまり酒に強い方ではない。普段なら丁重に断るところだが、私が「飲めない」と言えば、彼も気を遣って控えるだろう。この張り詰めたような、それでいて甘やかな緊張感を解くための触媒が必要だった。

「乾杯しましょう」

彼はグラスを持ち上げて、子供のように目を輝かせた。

「信じられないな。先生と乾杯できるなんて」

触れ合うグラスが、チリンと繊細な音を立てる。私は照れくささを笑顔でごまかした。まるで息子の成人祝いのように、おぼつかなそうな手付きで乾杯を交わす。冷えた液体が喉を通ると、緊張で強張っていた胸の奥がわずかに緩んだ。料理が運ばれてくる間、彼はまず、先日手渡した私の新刊についての感想を述べ始めた。

「サイン本、部屋の特等席に飾ってあります。汚すのが怖くて、読む用にもう一冊買いました」

「まあ。言ってくれれば差し上げたのに。今日持ってくればよかったわ」

「いいんです。好きな作家さんの本をレジに持ってゆくってわくわくするじゃないですか。宇宙をひとつ手に入れたような気分になって」

彼はそこから、堰を切ったように話し始めた。私の作品のどのシーンの、どの言葉が、どのように彼の魂を揺さぶったのか。それは決して、作家仲間の社交辞令のような大袈裟な賛辞ではなかった。また、こちらの反応を伺うような一方的な詰問でもない。まるで、百科事典のページを一枚ずつ、指先で愛しむようにめくってゆく子供のようだった。そこにある知識を、感情を、一滴も漏らさずに吸い込もうとする無垢なまでの好奇心。

質問は、作品の核心を突くものばかりだった。私は元来、自作の解説をするのが苦手だ。書いた瞬間にその感情は私から離れ、読者のものになるべきだと思っているからだ。しかし、トラオの問いかけには不思議な魔力があった。彼は聞き手としても、恐ろしいほどに優れていた。

気づけば私は、普段のインタビューでは決して口にしないような、作品の誕生に至る背景や、執筆中の苦しい胸の内までもをつらつらと吐露していた。酔うほど飲んではいないのに、女子中学生のように自分語りが止まらなくなっていた。トラオは私の言葉をひとつひとつを、深い頷きと魅力的な瞬きと共に受け止めてゆく。惜しみない笑顔で相槌を打ち、自身の執筆方法などもさらりと明かす。お互いが独り占めしているこの時間に私は酔っていた。

「先生の話を聞いていると、眼前に新しい風景が広がっていくようです」

彼は満足げに微笑み、二杯目のビールを口にした。ゼリーのように膨らんだ下口唇が、危険なほどに美しく見えた。普段美醜で人を判断しない私ですら、真正面にいる彼とはうまく目を合わせられなかった。

外では相変わらず都会の喧騒が渦巻いているはずなのに、この部屋だけは、深い水底のような静寂と熱に包まれていた。

(つづく)


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