金貨とレース 〜運命をわけた二つの結婚〜
✦ 第1話:二人の花嫁、ひとつの街(1810年・春)
豪華な檻と、借り物の言葉
1810年4月。パリの街は、狂おしいほどの熱気に包まれていた。 オーストリア帝国から、若き皇女マリー・ルイーズが新たなフランス皇后として迎えられたのだ。街中の教会が鐘を鳴らし、広場には祝杯のワインが溢れていた。
しかし、チュイルリー宮殿の奥深く、大理石の回廊の先にある婚礼の間で、十八歳のルイーズは恐怖に身を震わせていた。 彼女が纏うウェディングドレスは、銀の刺繍が施された重厚なサテン。だが、その豪華さは、彼女にとっては冷たい檻の格子に等しかった。 「コルシカの怪物」――。祖国オーストリアを蹂躙し、数多の同胞の命を奪った稀代の覇王ナポレオン・ボナパルト。その男の妻となることが、敗戦国としての彼女に課せられた運命だった。
慣れない重いドレスを脱ぎ捨て、私室の長椅子でぐったりと横たわるルイーズのもとに、重い足音が近づいてきた。 現れたのは、ヨーロッパを恐怖に陥れた張本人であり、今日から夫となった男、ナポレオンだった。 ナポレオンは昼間の鋭い眼光を和らげ、一人の男として彼女に歩み寄る。 「疲れただろう、ルイーズ。フランスの流儀は、少し騒がしすぎたか」 ナポレオンの声は思いのほか低く、穏やかだった。しかし、ルイーズはびくりと肩を揺らし、慌てて背筋を伸ばした。彼女の頭の中で、ウィーンの実家で叩き込まれた「怪物ボナパルト」の悪名がリフレインしていた。
「いいえ……、ボナパルト陛下。素晴らしい、お式、でした」 ルイーズは、必死に練習してきたフランス語で答える。しかし、緊張のあまり言葉がたどたどしく、発音もオーストリアの訛りが強く残っていた。 ナポレオンはふっと苦笑し、彼女の前に跪いて、その冷え切った手をそっと包み込んだ。 「陛下、ではなく、ナポレオンと呼んでほしい。……まだ、私のことが恐ろしいか?」 「それは……」 ルイーズは視線を落とした。本当は「恐ろしい、帰りたい」と叫びたかった。しかし、自分の双肩には祖国オーストリアの平和がかかっている。本音を言えるはずがなかった。
「言葉が出ないのも無理はない。だが、約束しよう。私はお前を、この世で最も幸福な女にする。だから、焦ることはない。少しずつ、この国と私に慣れていってくれればいい」 ナポレオンの言葉に嘘はなさそうだった。彼は確かに、彼女をいたわろうとしている。しかし、その大きな手の温もりさえ、ルイーズには国同士の「契約」の重みに思えて、ただ小さく頷くことしかできなかった。
埃っぽい部屋と、二人のパン
同じ春の夜。 パリの北、労働者たちが身を寄せる場末の路地裏。その古びたアパルトマンの最上階に、ピエールとジャンヌの二人はいた。 昼間、大通りで皇帝の婚礼パレードを遠くから見物したあと、ようやくこの新しい住処に荷物を運び終えたばかりだった。
部屋の中は、まだ片付いていない木箱や、実家から持ってきた古びた家具が雑然と転がっている。窓から吹き込む春風が、うっすらと積もった埃を巻き上げた。 「ごめんよ、ジャンヌ。もっと綺麗な部屋を借りたかったんだけど……。ここじゃ、窓の隙間風もひどいし、床もギシギシ鳴る」 ピエールが、荷解きで汚れた顔を拭いながら、すまなそうに言った。二十二歳の彼は、明日から大通りにある親方の店で働くことになっている、若きパン職人だった。
ジャンヌは、まだ家具のない床に腰掛け、レース編みの道具が入った小さな籠を愛おしそうに撫でていたが、ピエールの言葉に顔を上げて悪戯っぽく笑った。 「何言ってるの、ピエール。私はこの部屋、とっても気に入ったわ。だって、窓を開けたら、あなたが明日から働くパン屋の煙突が見えるもの。朝、焼き立てのパンの匂いで目が覚めるなんて、最高に贅沢じゃない?」 「ジャンヌ……」 ピエールはほっと胸をなでおろし、彼女の隣に腰を下ろした。そして、ポケットから紙に包まれた硬いクグロフを取り出し、二つに割った。 「引っ越し祝い、これしかないけど。明日からは、俺が世界一美味いパンを毎日焼いてあげるからね」
「ふふ、楽しみにしてるわ」 ジャンヌは差し出されたパンを一口かじり、それから自分のまだ平らなお腹にそっと手を当てた。そこには、小さな温もりが宿りつつあった。 「ねえ、ピエール。この部屋で、これからたくさんの思い出を作っていこうね。いつか、この部屋が狭いって文句を言うくらい、賑やかな家族になって」 「ああ、約束するよ。どんなに不景気になっても、戦争が起きても、お前とこれから生まれる子どもだけは、俺が絶対に飢えさせない」
ピエールがジャンヌの肩を抱き寄せると、彼女はその胸にそっと頭を預けた。ロウソクの灯りが、埃っぽい、けれど温かい部屋を優しく照らしていた。 宮殿の冷たい大理石の上で震える皇女とは対照的に、名もなき娘の心は、未来への小さな希望で満たされていた。
📖第2話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n83989ddb3ca9
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n43f92436e25c
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