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ラスト・ドロップ(最後の飴)

第4話:戦後の終わり、そして新しい空

病室のモニターが刻む鼓動は、驚くほど静かで、規則的だった。

千尋がおばあちゃん、ハルの手を握りしめてから、どれほどの時間が経っただろう。

窓から差し込む夕暮れの光が、ハルの深い皺が刻まれた横顔をオレンジ色に染めていた。その表情は、先ほどまでの張り詰めた強ばりが嘘のように、穏やかだった。

「おばあちゃん」

千尋は、もう片方の手で、ベッドの傍らに置かれたあの錆びた缶に触れた。

昭和二十一年の夏、飢えと怯えの中で、十歳の少女が命がけで隠し通した、たった一粒の飴。そこから始まった、ハルの九十年にわたる孤独な戦い。

「もう、いいんだよ」

千尋は涙を拭うこともせず、ハルの耳元で、一言一言を優しく、語りかけるように紡いだ。

「おばあちゃんは、一生懸命生きたよ。あの子を死なせたくなくて、お腹を壊させたくなくて、必死に守ろうとしたんだよね。それは間違いなんかじゃない。おばあちゃんの、いっぱいの優しさだったんだよ。

だからね、もう自分を許してあげて。あの子も、お姉ちゃんをずっと待ってたはずだから。……おばあちゃんの戦後は、もう、終わりだよ」

ハルの指先が、微かに、本当に微かに動いた。 千尋の手のひらに、最後のぬくもりを伝えるように。

ハルは、深く、長い、穏やかな息を吐き出した。

その呼吸の終わりとともに、モニターの電子音が静かな一本の直線へと変わる。

駆けつけた医師や看護師たちの慌ただしい足音の中で、千尋はおばあちゃんの顔を見つめ続けた。

その表情は、かつてないほど安らかで、まるで八十年前のあの眩しすぎる青空の下で、ようやく大好きな妹の元へ駆け寄って、笑い合っているかのように見えた。

ハルの九十年の旅路は、2026年の、暑い夏の終わりに、静かに幕を閉じた。

季節は巡り、春が訪れた。

ビルに四角く切り取られた空は、白く霞んだ青色をしていた。

絶え間ない車の走行音、行き交う人々の話し声、地下鉄から吹き出す生温い風。

東京の春は、目まぐるしい速さで千尋を包み込んでいた。

千尋は、雑踏の真ん中で立ち止まり、スマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。

大学の入学式を終え、新しいアパートでの暮らしが始まって数週間。事前にネットでいくら調べていても、実際の生活は思い通りにいかないことばかりだった。

アルバイトの面接には落ち、不慣れな自炊で指を切り、満員電車に揺られるだけで吐き気がする。

かつて抱いていた「東京なんて、ネットで調べれば何とでもなる」という生意気な自信は、本物の東京の冷たさに触れて、あっさりと粉砕されていた。

「やっぱり、私の選択は間違っていたのかな……」

ビル風に吹かれ、孤独と不安が足元から這い上がってきたとき、千尋はリュックの奥深くから、あるものを取り出した。

タオルに包まれた、ずしりと重い、錆びた鉄の缶。 サビが落ちないよう、大切に持ち運んってきたハルの遺品だった。

千尋は缶の蓋を開け、中にある、すっかり固まった茶色い飴の塊を見つめた。

それは、甘さを失い、泥のように錆びついた過去の遺物。けれど、千尋にとっては、何よりも尊い、一枚のお守りだった。

耳の奥で、あの病室での、かすれて、けれど芯のあったハルの声が蘇る。

——お前の中にはね、千尋。あの激動の東京を、迷いながら、怯えながらも、自分の足で踏みしめて生き抜いた、おばあちゃんの血が流れているんだよ。

——間違えたっていいんだよ。間違えたって、お前の命が消えるわけじゃない。何もない焼け跡からでもね、人はまた、自分の頭で考えて、新しい靴を履いて、一歩を踏み出せるんだ。

(おばあちゃん……)

千尋はゆっくりと顔を上げた。

ビルの隙間から見える空は、おばあちゃんが語った昭和二十年のあの凄烈な「青」に比べたら、ずっと濁っていて、狭い。

それでも、その空の下で、千尋の心臓は確かにトントンと脈打っている。

「思い込みは命取りだよ」

千尋は、おばあちゃんの口癖を小さく呟いた。

かつては、自分を縛り付ける、耳を塞ぎたくなるような呪いの言葉だった。 けれど、今は違う。

「私は大丈夫って、何でも一人でできるって、思い込んじゃダメだ。失敗して、迷って、怖がってもいい。その都度、立ち止まって、自分の頭で考えて、選び直せばいいんだ」

それは、おばあちゃんが九十年の生涯をかけて、命がけで千尋に遺してくれた、本当の「祈り」だった。

千尋は錆びた缶を大切にリュックに仕舞うと、靴の紐をきゅっと結び直した。

周りの人々は、誰も千尋のことなど気にかけていない。けれど、それが妙に心地よかった。誰も正解を教えてくれないこの大都会で、自分だけの正解を、傷つきながら見つけていけばいい。

千尋は、一歩、前に踏み出した。

踏みしめたコンクリートの感触は冷たく、けれど、どこまでも確かだった。

頭上の空は、どこまでも、どこまでも続いていた。

(エピローグへ続く)

📖 エピローグ:https://note.com/juicy_laelia8513/n/nff5b463b96ad  
📖第3話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/nef961e6cc8b2  
🌐 英語版:https://note.com/ttukumoo/n/nacb13eb5ef54

最後までお読みいただき、ありがとうございます。💗

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