縄文ショート「ナギ物語」
#1 山族のケンと海の村のミミ
ケンが暮らす山の集落は、朝が早い。
霧が谷を満たすころ、彼は弓を背負い、獣道へと踏み出す。
山族の暮らしは狩りと木の実の採集が中心で、季節ごとに山の表情を読み取ることが何より大切だった。
その日、ケンは山のふもとで見慣れない足跡を見つけた。
獣ではない。人のものだ。しかも、山族の足跡よりも細く軽い。
「海の人たちだろうか」
最近、海辺の村の者たちが山の湧き水を求めて来ることが増えていた。
互いに挨拶は交わすが、まだ深い交流はない。
足跡をたどると、湧き水のそばに少女がしゃがみ込んでいた。
長い髪を貝殻で束ね、海の光を思わせる薄青の衣をまとっている。
少女は水面に手を浸し、驚いたように振り返った。
「あなた、山の人?」
「あなた、山の人?」
「そうだ。ケンという」
「わたしはミミ。海の村から来たの」
ミミは海辺の村の若者で、海藻や貝を山族に分ける代わりに、湧き水を分けてもらう役目をしているという。
ケンは、海の人がこんなに近くまで来ていることに驚いたが、それ以上に、ミミの声の澄んだ響きに心を奪われていた。
「山の水って、冷たくて甘いのね」
ミミは笑い、手のひらから水滴をこぼした。
その笑顔は、ケンがこれまで見たどんな朝日よりも明るかった。
それから、ふたりは湧き水の場所でよく会うようになった。
ケンは山の木の実や鹿の干し肉を持っていき、ミミは海の塩や貝を交換に持ってくる。
物々交換はいつしか口実になり、ふたりは山と海の話を語り合うようになった。
「海はね、朝になると銀色に光るの。波が踊ってるみたいに」
「山は夕方がいい。風が木々を揺らして、森が眠りにつく音がする」
互いの世界を語るたび、ふたりの距離は少しずつ縮まっていった。
ある日、ケンは思い切ってミミを山の高台へ案内した
そこは山族でも特別な場所で、遠く海まで見渡せる。
ミミは息をのんだ。
「海が…こんなふうに見えるなんて」
「いつも君が見ている景色を、山からも見せてみたかったんだ」
ミミはしばらく黙って海を見つめていたが、やがて小さくつぶやいた。
「ケンと話すとね、海の風が山まで届いている気がするの」
ケンの胸が熱くなった。
自分の中にも、ミミの海が流れ込んできていることを、彼はまだ言葉にできなかった。
季節が巡り、山と海の交流は少しずつ広がっていった。
山族は海の塩と魚を得て、海の人々は山の木の実や獣の皮を手に入れるようになった。
ふたりの出会いが、いつしか大人たちの往来を自然にしていた。
ある夕暮れ、ミミが言った。
「ねえ、ケン。山と海って、ずっと離れているようで、ほんとはつながっているのね」
「そうだな。川が海へ流れるように」
「わたしたちも、そうなのかな」
ミミの頬が夕陽に染まり、ケンは胸の奥が静かに震えるのを感じた。
その日、ふたりは初めて手をつないだ。
山の風と海の香りが混ざり合い、どちらとも言えない新しい匂いがした。
それは、ふたりだけの季節の始まりだった。(つづく)
