正義の教室
20250117
なぜだんだんと正義を主張する者をうざがるようになっていったのか?
それはきっと、正義なんてただの「建前」にすぎない、とどこかで気づいたからではないだろうか。
幼い頃に「正しい」と言じていたものが、ある日、ただの作り話だったと知り、本当の現実は違うのだと知ったとき、僕たちはお伽話のような「正義」という幻想についても同時に信じられなくなったのではないだろうか。
それなのに、ある程度の年齢になっても「正義」を振りかざすやつがいたとしたら。
「人間が持つ3種類の『正義の判断基準』それは『平等、自由、宗教』の3つだ。本当にこの3つだけなのか?そう疑問に思う人もいるだろう。だが、少し視野を広げて、世界レベルで考えてみてほしい。実際のところ世界を見渡せば、『平等』を尊重する国、『自由』を尊重する国、『宗教』を尊重する国の3種類があって、それぞれが自国の正義を訴えて、いがみ合っていることに気がつくはずだ」
「たとえば、共産主義や社会主義といった『平等』を絶対的な正しさとする国がある。
一方で、そんな国を抑圧的だと批判して「自由』を絶対的な正しさだとする国がある。
そして、最後に、何らかの『宗教』すなわち『自分たちの国の伝統的な価値観』を絶対的な正しさだとする国がある」
「では、その3種類....『平等、自由、宗教』これらの判断基準によってなされる行為が、なぜ『正義』だと言えるのか。それは、それぞれの逆を考えてみればわかりやすいだろう。たとえば、平等の逆、すなわち、不平等。これは普通に考えて悪いことだと言えるはずだ」
「もしもキミたちが、『特定の誰かが特権的に利益を得ている』もしくは『差別的に損害をこうむっている』といった不平等な状況を『悪いこと』だと思うなら…当然、それを改善しようとする行為、すなわち平等を目指す行為は『正義』だということになる」
「正義の反対は悪」なのだから、ある行為が「正義」かどうかを確かめたければ、その反対の行為が「悪」かどうかを問いかけてみればいい。で、その理屈で言えば、実際僕たちは「不平等や差別」を悪だと思っているわけだから、その反対である「平等」は僕たちにとって正義ということになるわけか。
「では同じように、自由の逆…不自由についても考えてみよう。不自由とは、つまり強制や拘束や支配などによって、自由に生きる権利が奪われた状態を指すわけだが、『誰かを不自由にする』つまり『人の自由を奪う』なんてまさに典型的な悪の行為だと言えるだろう」
それは完全に同意だ。ヒーローものに出てくる悪の組織が、なぜ悪なのかと言えば、それは彼らが世界を征服したり幼稚園バスをジャックしたりすることが、人々の自由を奪うことにつながっているからだ。
結局、彼らはその一点のみで「悪」だと評されているわけであり、もし彼らが無人島で同じことをやったとしたら、誰も彼らを「悪」とは呼ばないだろう。
ためしに、「わはは、無人島を支配した!誰も乗っていないイカダをジャックしてやったぞ!」という組織を想像してみたが...うん、ぜんぜん悪じゃない。だから、やはり「悪の組織」は、人々の自由を奪うからこそ「悪」なのであり、「正義のヒーロー」はその悪を食い止めるからこそ「正義」なのだ。
「最後に、宗教の逆、反宗教だが…これは、宗教になじみのない人には少しわかりにくいかもしれない。とりあえずは『社会の伝統的な価値観に反する行為』を思い浮かべてみてほしい。たとえば、お墓をむやみに壊したり、老人を粗末に扱うような行為だ。他には複数の異性と仲良くする行為も入るだろうか。これらについても、おそらくキミたちは不正義という感覚を得るはずだ」
不平等:正当な理由もなく、人間を差別して平等に扱わない行為→悪
不自由:人間の自由に生きる権利を奪う行為→悪
反宗教:宗教または伝統的な価値観を破壊する行為→悪
「我々が悪と呼ぶものは、おおよそこの3種類に分類できるわけだが、逆にこれらの悪を犯さず改善しようとする行為を『正義』だと言うことができる。つまり、『平等、自由、宗教』を推し進める行為が『正義』だと定義できるわけだ。では、これらの正義を具体的に実現するには、どのような思想、考え方が必要になるだろうか?これら3種の正義を追い求めようとしたとき、人間の思考は次のような主義に行き着く」
(1)「平等の正義」を実現するには
→ 功利主義(幸福を重視せよ!)
(2)「自由の正義」を実現するには
→ 自由主義(自由を重視せよ!)
(3)「宗教の正義」を実現するには
→ 直観主義(道徳を重視せよ!)
「『功利主義』の内容はよく『最大多数の最大幸福』という言葉で説明される。『全員の幸福度を計算し、その合計値が一番大きくる行動をしなさい!それが正義だ!』という考え方のことだ」
「『自由主義』は、人の自由を第一に考える思想で、ようは『個人の自由を守る行動をしなさい!それこそが正義だ!』という考え方のことだ。単純に『みんなの自由を守ろう』という話だから、誰もが共感できて一番なじみのある正義だと思う。ただし、この主義は裏を返すと『他人の自由を奪わないかぎり何をしてもいい』とも言えるため、3種類の中でもっともフランクな正義だとも言える」
「『直観主義』は、抽象的で少し説明が難しい思想なのだが、ようは『良心に従って道徳的な行動をしなさい!それこそが正義だ!』という考え方のことだ。なお、この主義において正義や道徳とは、直観...すなわち良心で『直ちに観てとる』ことで初めてわかるものであり、理屈や計算でわかるものではないという立場をとっている。したがって、しばしば直観主義者は、理屈を拒否し、『良心を働かせれば、これこれが正しいことは自明である。だから、さあこの正しいことをしなさい』といった押しつけをしてしまう傾向を持っている」
「正義とは『正しい行為をする』ということである。しかし、何が正しいかなんて時と場合によるし、さらには正しさの基準も3種類に分類できるとはいえ、やはり人それぞれなのだから、『絶対的な正しさなどない』という印象を持つ人も多いかもしれない。たしかに、それはその通りだろう。
だが...だからと言って、『正義』や『正しさ』について問いかけることが無駄だということにはならない。いや、むしろ、それでもなお、我々は『正義とは何か』『正しさとは何か』を問いかけるべきであるとさえ言える。
なぜなら、我々はみな、『正しさ』を求める存在であり、何らかの『正しさ』を基準にしなければ考えることも生きることもできない存在であるからだ。
たとえば、仮に『絶対的な正しさなんかない』と主張する人がいたとしよう。一見、彼は何の正しさも論じていないように思える。だが、実際には彼は『正しさなんかないということ』を『正しい』と信じているのだ。このように我々は何かを主張したり考えたりするとき、それがたとえ『正しさ』に疑いを持つような内容であったとしても、そこには必ず『それを正しいと思っている自分』が存在する。
つまり、正しさの存在自体をどんなに疑おうと、『その疑いを正しいと思っている自分の存在』だけは決して疑えないのだ。このことは、すわなち、我々が『正しい』という概念からは決して逃れられないことを意味する。そうである以上、我々は『正しさ』に無自覚であってはならない。自分が何を正しいと思っている人間なのか…何を正義だと思っている人間なのか…自分の考え方の基盤、すなわち、『正しさの基準』を、我々はもっとよく知らなくてはならないのだ。
ゆえに、我々は問いかけなければならない。
正義とは何か?
正義とはいったい何なのだろうか?」
功利主義の創始者の名は、ベンサム。18世紀後半から19世紀前半に活躍したイギリスの哲学者だ。彼は法律家でもあったのだが、当時、イギリスの法律はいい加減で曖味なものであり、彼はそれをとても許しがたいものだと感じていた。いや、そもそも法律というのは、イギリスに限らずどこの国であろうと、元来、曖昧なものであると言えるのかもしれない。たとえば、日本において法律は六法全書できちんと明文化されているが、それでも弁護士によって判断が違ったりする。
法律家のベンサムにとって、その時代の慣習や個人の感性によって法の解釈が変わってしまうイギリス法曹界の現状はとても許せないものであった。そこで彼は法の根拠となるものを求めた。つまり、法が法として成立するのはどういう条件によるものなのか?言い換えれば、法とはどんなときに正しいと言えるのか?そうしたことをベンサムは問いかけたのだ。
この問いかけは、とても非凡で素晴らしいものだと思う。なぜなら、たいてい我々は、法とは正しいものであり、法は守って当たり前という前提で物事を考えてしまいがちだからだ。
『いかなる国家であれ、その構成員の多数者の利益と幸福が、国家に関わるすべての事柄が決定される際の基準となるべきである』
そもそも、法とは『社会全体の幸福の量を増やす』もしくは『不幸の量を減らす』ためにこそ存在するのであり、それを達成できる法だけが、法として正しいのだと言える。功利主義の考え方を用いれば、このようにひとつひとつの法の根拠を明らかにできる。
『誰であろうとひとり以上には数えない』
歴史に名を残す偉大な哲学者、思想家というのは、単純に『最初にそれを言い出した人』なのではない。そもそも人類の歴史は長い。どんな画期的な思想だろうと、それを先に考え出した人は案外いたりするものである。しかし、そこで歴史に名が残るかどうかは、その人がその思想にどれだけ入れ込み、どれだけ人生を捧げたかにかかっていると言える。
『人間を支配するものがふたつある。それは快楽と苦痛だ。我々の行動を決定づけているのは、実はこのふたつだけなのだ』
幸福なんて定義も曖味で、人それぞれのものだ。そんなもの測れるわけがないし、ましてや、客観的な数値に置き換えることなんてできるわけがないと、普通の人ならそう考えるところだろうな。だが、ベンサムは違った。
彼はそれができると考え、本来不可能なはずの『幸福度の測定』に異常な関心を示し、その方法の追究に文字通り人生のすべてを捧げたのだ。
まず、手始めにベンサムは、『幸福とは快楽である』という彼独特の定義をする。つまり、幸福とは『快楽が増加すること』であり、不幸とは『快楽が減少すること』であると定義したのだ。ちなみに、この『快楽』は、その逆である『苦痛』に置き換えても成り立つ。その場合、幸福とは『苦痛が減少すること』であり、不幸とは『苦痛が増加すること』であると言い換えることができる。
幸福→快楽が増加または苦痛が減少
不幸→快楽が減少または苦痛が増加
結局、大多数の人がやるようになれば、心理的抵抗なんてものはすぐに薄れてしまう。
繁華街に行けばお酒を飲んで酔っ払ってる人たちとすれ違うけど、別になんとも思わないし、少なくとも異常なことだとは思わない。それはなぜかと言えば、みんなが普通にお酒を飲んでいるからだ。
快楽計算は、主観の域を出ない。客観性がない以上、快楽計算の結果なんて間違ったものになってる可能性は十分にある。そんな間違ってるかもしれないものを、絶対に正しいと言い張って、誰かが権力にものをいわせて強引に推し進めるとしたら….それって正義どころか、悪そのものじゃないか。
自由主義
『リベラリズム、リバタリアニズム』
両方とも自由主義の特定の立場を表す専門用語であり、両方とも日本語に訳すと『自由主義』という意味になる言葉である。
弱者に優しい福祉社会を作る考え方がリベラリズムであり、弱肉強食の自由競争を推進する考え方がリバタリアニズムである。
リベラリズムとリバタリアニズムは、表現がわかりにくいので、『弱い自由主義』と『強い自由主義』とする。単純に、自由主義には強い方と弱い方の2種類があると思ってもらえばいい。
『強い自由主義』だけが真の自由主義であると最終的には主張したいのだが、それは後にして、まずは弱い自由主義とは何か。
『弱い自由主義』とは、『自由に生きることが人間の幸福であり、社会は個人の自由を尊重しなくてはならない』という思想だ。
自由主義としては、この思想はいまいち『弱い』と言わざるを得ない。なぜなら、自由よりも幸福を上位に置いているからだ。
すなわち、『幸福>自由』。
それは彼らの思想を分解すればよくわかる。
(1)幸福になるには自由が必要だ
(2)よし、自由を尊重しよう
これが彼らの思想のロジックであり、このような論理展開から自由を尊重している以上、彼らの最優先は『自由』ではなく、『幸福』であることは明らかだ。
弱い自由主義者たちが掲げる思想は、自由という単語を使ってはいるものの、その内実は功利主義そのものである。なぜなら、彼らの目的は『人々の幸福度の増大』にあるからだ。したがって彼らにとって、自由はあくまでも、幸福度を増大させるための道具、手段のひとつにすぎない。だから、ある特定の自由が『人々の幸福度の減少につながる』としたら、彼らは平気でその自由を制限しようとするだろう。彼らにとって、あくまでも大切なのは人々の幸福の方であって、自由は、結局のところは二の決であるからだ。
つまり、『弱い自由主義者』たちは、自由主義とは名ばかりで、その実、『自由主義の皮をかぶった功利主義者』にすぎないのである。
『強い自由主義』とは何だろうか?それは弱い自由主義のちょうど正反対、『自由>幸福』を旨とする者たちのことを言う。彼らにとって幸福はあまり関係ない、いやまったく関係ないと言っていい。強い自由主義者にとって重要なのは、人間に与えられたもっとも基本的な権利である『自由』を守ることであり、そこから生じる結果についてはいっさい問わない。その意味で強い自由主義者は、とてもシンプルだと言える。
『自由を守ることは、結果にかかわらず、正義であり、自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である』
そこに結果も事情も幸福も関係ない。いかなるケースにおいても、単純に、愚直に、たとえ誰が不幸になろうとも、自由を守ることが正義だと考える、それが強い自由主義だ。
功利主義であれば、人を不幸にするから、もしくは苦痛を生み出すから、という理由で殺人を否定するだろう。だが、強い自由主義にとって、殺人は人を不幸にするから悪なのではなく、他人の自由を奪うから、望まない痛みを強制するから、悪なのである。
だから、強い自由主義については、
『自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて』
まさに、『人に迷惑をかけてないんだから、何やってもいいでしょ』というやつだ。
強い自由主義における真の論点は、『愚行権の是非』つまり『人間には自分の意志で不幸になる自由があるか?』ということだ。もちろん、強い自由主義は『ある』と考える。
強い自由主義ーいや、微底した純粋な自由主義は、強い方だけであるため、以後、そのまま自由主義と呼称するが、自由主義の原理原則は『他人の自由を侵害しない限り好きにやれ』であるのだから、当然、誰かが部屋でどんなに自分の身体を切り刻もうと、気まぐれに高い崖から飛び降りようと、そんなものは本人の自由であるとして許容しなければならない。
それを他人がそんなことはダメだと、正しさの価値観を押しつけて、その人の自由をうとしたら…それはただの拉致であり、暴力であり、独裁であり、自由主義では悪だと規定される。もちろん、こんなふうに述べると、世の中にいる自称自由主義者やその学者たちは文句を言うだろう。自由主義とはそんなに極端な思想ではありません、と。
いいや、それは違う。
それは彼らが弱い自由主義者すなわち功利主義者であり、自由よりも優先的に考慮すべきものがあるから、そういう感想を持つのであり、彼らはまったく自由主義に殉じていないと言える。本来、自由主義とは、幸福よりも何よりも、人間の自由を絶対的な権利として尊重することを正しいとする立場なのだ。
功利主義
→全体の幸せを重視→個人に強制する
自由主義
→個人の権利を重視→ 個人に強制しない
自由主義にとって、モラルに反した行為とは、『他人の自由を他人が奪うこと』、ただそれだけであり、それ以外にモラルに反した行為など存在しない。むしろ、人助けを強要することの方がモラルに反するとすら考える。そもそも、人助けであれなんであれ、上から押さえつけられて無理やりやらされることが、本当に正義の行為だと言えるだろうか?
(1)有能・無害な人間→自由にさせても誰の自由も奪わない
→ゆえに自由を保証
(2)有害な人間→自由にさせると『他人』の自由を奪う
→ゆえに自由を制限
(3)無能な人間→自由にさせると『自分』の自由を奪う
→(自己責任として)自由を保証する?しない?
問題なのは、三番目の無能な人間一自由にさせると自らの自由を阻害してしまうという自由主義にとってまるでパラドックスのような人々についてだ。無自覚に自分の自由を放棄してしまう人間についてはどうすればいいだろうか?
「バカな人がバカな行動ができないよう自由を制限しつまり何らかの法律を作るってこと?それだと、バカじゃない無関係な人たちまで芋づる式に自由が制限されてしまう。一番レベルの低い人に合わせて、人間の自由を奪う法律ができるって絶対おかしな話でしょ!だから、そういうバカな人はどうなろうと自己責任ー放っておけばいいのよ!
政治家もそうだけどさ、なんでみんなそうやって弱者の顔色ばかりうかがって、弱者を優遇するような社会を作ろうとするのよ。それって本当に必要?
適者生存、弱者は滅ぶ、それが自然の摂理でしょ?
運だって実力のうちよ。餌がとれなかった動物が、サバンナの片隅で飢えて干からびて死ぬのと同様、不運にも沼に落ちて身動きが取れなくなった動物だってそのまま死ぬ。それでいいじゃない。無能も不運もバカも情弱も、環境に適応できなかったやつは滅ぶ。敗者は消える。
当たり前のこと。それを変な倫理観を振りかざして止めようとするから世の中がおかしなことになるのよ。
ほら、たとえば超高齢化社会、経済活動もできない病気持ちの老人がこれからたくさん出てくるわけだけど、その医療費は誰が出すの?高齢者は弱者で助けるのは義務だから、若い人は財産を差し出して当然ってこと?そんな、モラルを盾にした若者を強制労働させる社会健全と言えるかしら。むしろ、老後の蓄えができなかったのは自己責任なんだから、負け組の老人は、まともな医療が受けられなくてそのまま死んで当然、と切り捨てればいいのよ。そうすれば、ほら、老人と若者の割合も適切なものになるわけじゃない。
でも、本音ではそうでしょ。弱者や無能やバカなんて、本当はみんな社会から消えてほしいと思ってる。無能で何の取り柄もない異性なんて交際相手に選ばないじゃない。それって、敗者の切り捨てと何が違うの?敗者は選ばれない。頭禿げてる無能な安月給の教師がずっと独身で、遺伝子が残らないのと同じ。
みんな自由にやりたいことをやって、勝った者は生き残り、負けた者は消えていく。そういう格差社会でいいのよ。なのに格差を問題視して格差を埋めよう、敗者を救おうと、声高に叫ぶ偽善者がいるから、世の中が不自由になって停滞していくの。
だから、結局のところ、運が悪いやつ、無能なやつ、バカなやつ、そういう人間なんてみんな、死ねばいいと思うのよ!」
ジョン・スチュアート・ミルは、人間が幸福になる条件を『自由であること』だと考えていたので、その意味では弱い自由主義者と言えるかもしれないが、でも、さっきの『危害原理(危害をくわえなければ好きにしろ原理)』みたいな、強い自由主義っぽい主張がけっこう混ざっていたりする。
たとえば、ミルが「危害原理』を導き出した論理はこうだ。
(1)民主主義は、多数派の好みで法律が決まるため、少数派の好みが制限されがちである。
これを『多数派の暴虐』と呼ぶ。
(2)『多数派の暴虐』が行われると、個人が自由に自分の好み(幸福)を追求できない社会になってしまう。そこで、『危害原理』を提唱する。
(3)『危害原理』とは、『他人に危害をくわえないかぎり、好きにせよ』または『他人に危害をくわえていないのに、人の自由を制限するような法律を作るのは不当だ』という国家運営の原理原則のことである。
ミルは、無教養な人間、未開の人間には自由の権利はないと言っている。他には、経済力のない人間には結婚を禁止するのが当然だと言ったり、子供の教育を怠った親には罰金を取れ、とも言っている。
「ちょっと前までは、同性愛がおぞましい行為だという風潮が、特にキリスト教圏ではあったけど、今どきはもはや同性愛を批判するのって、狭量であり、差別であり、人権侵害だってなってるわけじゃない。つまり、価値観なんて時代によって変化するものだということ。
それなのに、自分の価値観を絶対的なものだとして他人に押しつけるのって、絶対的に間違ってると思うんだけど」
「今、わたしが麻薬を吸おうと思ったのだとしたら、きっとそれには、それ相応の理由があると思うの。わたしなりの理由がね。もちろん、やめなさいと他人や親が意見するのは自由だけど、その意見を聞いても、わたしがやっぱり吸うと判断したのなら…もう放っておいてほしいし、放っておくべきだと思うわ」
人には自分で決めた人生を生きる権利がある。その生き方によって本人がどれだけ不幸になろうと、他人から見てどれだけ馬鹿げた行為であろうと。
「1年後でも、今とそのときの私じゃあ、ぜんぜん考え方や価値観が変わっているかもしれないわよね。いわば『他人』みたいなもの。それなのに、今ここで遠い未来の私について行動を制限するような契約を結ぶのは、未来の自分、つまり『他人』の自由を奪うのと同等のことになる…」
「そもそも多くの場合、我々は宗教というと何か特定の神さまを僧じることだと思っている。だから、神さまを言じてさえいなければ、自分が宗教とは何の関わりもない人間だと思ってしまっている人が多い。が、実際にはそうではない。『宗教的である』ということは、神さまを信じること、宗教団体に入ることとはまったく関係のない、別のことなのだ。
では、『宗教的である』とは、もともとどういうことで、どう区別すべきものであるのか?
私は、『物質または理性を越えたところにある何かをじていること』、それが宗教的であることの唯一の条件であり、その一点によって、宗教的かどうかの是非を見分けるべきであると考えている」
「正義が説明不可能なものなら、それをどうやって知るのか。答えはシンプルだ。直接そのまま、枠の外にある正義を『観れば』いい。そして、このような正義の捉え方を『直観主義』と呼ぶ。
直観主義の『直観』は『直ちに観る』という漢字を書く。つまり、思考という段階を踏まず、正義という概念を直接的に観て取る、という意味だ」
歴史を学ぶ意義そのものでもあるのだがこれから私が説明する歴史の流れの中には、『時代が移り変わっても、変化しない人類の営み』、もう少し言えば『人類の普遍的な悩み事』『恒久的課題』が隠されている。
「アダムが食べたという『知恵の実』、あれは本当は
『善悪の実』と呼ばれていてそれが正式名称なのだが、善悪を知ることが知恵を得ることなのだという構図は、なかなか意味深な話だと言えるね」
A相対主義:すべて相対的なものにすぎない!
↕︎
B絶対主義:絶対的に正しい、善いと言えるものは存在する!
A原子論:世界なんて小さな粒(原子)の集まりにすぎない!
↕︎
Bイデア論:絶対的で完璧な善の概念が世界に存在している!
A唯名論:社会にとって都合が良い行為に「善」という名前をつけただけ!
↕︎
B実在論:絶対的で普通的な善は世界に実在している!
A経験主義:善なんて経験から作られた人それぞれのものにすぎない!
↕︎
B合理主羲:合理的に考えれば絶対的な善の存在が証明できる!
B絶対主義から始まる一連の哲学は、みな枠の外側に、善や正義があると考えている。一方、A相対主義から始まる一連の哲学は、善や正義がない、もしくは、枠の内側にあると考えている。つまり、結局のところ人類は、善や正義といったものが、『枠の外』にあるかどうかでずっと議論してきた。
『善』や『正義』、他には『神』でも、『愛』でも、『意味』でも何でもいい。とにかくそういった見たり触れたりできない概念(イデア)的なものが、枠の外側…つまり人間の認識や理屈の外側に『本当に存在する」のかどうか…その争点だけを巡って人類は、2500年もの間、ひたすら考え続けてきたと言える。
過去の哲学者たちが、人智を超えたものの存在に、なぜそんなにこだわっていたか。そうした超越的な存在を前提にしない限り、我々が『善悪』について語ることも『生きる意味』を問うことも、そもそもが不可能なことなのだ。
「ニーチェが死んだと言った『神』。それはもちろん、『真理』『善』『正義』など、枠の外側にある、超越的な存在のことだ。ニーチェはそれらが『死んだ』と言ったのだ。いや、それどころか、そんな非現実的なものをじるから、人間は生きる意味を見失ったのだとさえ断言する。
さっきまでは、神や善などの超越的な存在がなければ生きる意味がないという話をしていたのに、ニーチェは完全にその逆のことを言っている。
ニーチェによれば、古来、人類は『狼』や『鷹』のような強者を『善い』とする価値観を持っていたが、あるときからー具体的にはキリスト教という宗教や道徳が発生してから『羊』のような大人しい弱者を善い』とする価値観を持つようになってしまった。これは、自然な、人間本来の価値観ではなく、あとから宗教家や道徳家によって正しいと思い込まされた、偽物の価値観だとニーチェは主張する。そう、ニーチェは、神や善や道徳を、普遍的なものどころか、人工的なものであると言い、しかも、支配者が人間を都合よく大人しくさせるための抑圧の道具にすぎないのだと言ってしまったのだ」
ニーチェは、ありもしない、見たり触れたりできない、『神』や『道徳』を崇拝するのではなく、現実の存在『実存』に目を向けた生き方をせよと強く訴えかけたのだ。この、実存を重視する考え方を『実存主義』と呼ぶ。
「哲学史は、このあとも、構造主義や道具主義やポスト構造主義など、さまざまな主義主張、哲学体系を生み出していくが、実のところ、それらはすべて真理や正義を相対化して否定する考え方のものばかり。
つまり、哲学の歴史…善や正義を追い求めてきた人間の思索の歴史は、ある意味、ニーチェが終止符を打ったと言っても過言ではないのである」
善を追求する哲学の歴史をソクラテスが始めて、それをニーチェが終わらせた。つまり、「善く生きる」と「神は死んだ」
直観主義の問題点。それはいたって単純で、「人間は正義を直観なんてできない」「人間に完全な正義がわかるわけがない」という、よくよく考えれば当たり前のこと。そもそも、正義とは「無限に正しいもの」のことであるが、一方、人間とはあくまでも「有限」の存在にすきない。だから、有限のコップで無限の水を撒い取れるわけがないように、人間(有限)が、正義(無限)を計り知ることなんか、最初からできるわけがないのだ。
人間は、完全な正義を直観できないし、知りようもない。それはどうしようもない現実だ。
でも、そんな何が正しいかわからない世界の中でも、それでも「正しくありたい」と願い、自分の正しさに不安を覚えながらも「善いこと」を目指して生きていくことはできる。
きっと僕たちにはそれで十分でしむしろ、それこそが人間にとって唯一可能な正義なんじゃないだろうか。
平等の正義。功利主義。最大多数の最大幸福。ベンサム。快楽計算。
自由の正義。自由主義。弱い自由主義と強い自由主義。愚行権。
宗教の正義。直観主義。枠の外側。イデア論。ソクラテスとニーチェ。
構造主義もポスト構造主義も、だいたい似たようなことを言っている。ようは、『人間は、何らかの社会構造に支配されており、決して自由に物事を判断しているわけではない』という話だ。『人間は、自分の意志で考えて行動しているように見えて、実は、周囲の環境や役割や立場によって、無意識にその考えや行動が決定やけられている』ということである。
「なぜ特定の職業が、特定の制服を着て仕事をしているのか。なぜキミたちが、わざわざ特定の制服を着て学校へと通っているのか。それは、もちろん、それらの制服の着衣が、当人に『立場の自覚』と『集団への帰属意識』を促すと期待されているからである。つまりー個人としてではなく、集団の中の一員としてー医者は医者らしく、学生は学生らしく、囚人は囚人らしくあるためだ。そうした意識の変容が、たかが布の色や形ぐらいで引き起こされているという事実を、我々はもっと重く受け止めるべきだろう」
『人間がどう考えるかは、その人が生きる社会のシステムによって、無意識に形づくられてしまっている』
「『働く』または『働かない』という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?」
「『働く』は『偉い』とか『生きがい』とか....。『働かない』は『ろくでもない』とか『羨ましい』とか、そんなイメージが浮かびますね」
「今の回答は、まさに我が国の資本主義社会という『システム』ならではのものだと言えるね。つまり、資本主義、貨幣経済という『システム』の中で生きている人間だからこそ、思いつける回答だということだ。実際、経済という『構造、システム』を持たない国に生まれていたとしたら、同じように回答しただろうか?」
僕は、美味しい食べ物が1年中そこらに転がってるような暖かい南国で、のんびりと暮らしてる自分の姿を思い浮かべた。
「いえ、しないと思います。少なくとも、働くのが偉いとか働かないのが羨ましいとか、そういう発想自体を持てなかったと思います」
「仮にキミに弟がいたとして、その弟が人に挨拶を返さない子だったとしよう。さて、キミは何と言って彼を諭すだろうか?」
「それはまあ、まともに挨拶もできなかったら、社会に出てから困る…あ」
「どうやら気づいたようだね。今言った何気ない言い方は、ようするに、『働いてお金を稼いで生きる資本主義システムにおいて、通用しないからダメだ』と言ったわけだ」
「自分では、普通に悪いことは悪いと言ったつもりなのに、知らず知らずのうちに、自分が生きている社会システムの価値観で答えていました」
ちなみに、僕は、その回答以外にも「挨拶を返さないと、非常識だと思われて人から嫌われるぞ」という単純な論し方も思いついていた。でも、これも同じで「じゃあ、なぜ嫌われたらダメなの?」と、もし問われていたら「だって、得しないじゃん」と即答していたと思う。
これも、やはり、資本主義システムからの影響が無意識に出てしまった回答であるのが丸わかりだ。
「挨拶を返さないとなぜいけないか?本来なら、さまざまな回答の可能性があったはずだ。
たとえば、『挨拶とは、今日というかけがえのない一日に、互いに出会えたことを喜び合う行為である。だから人生を感動的に楽しみたいなら自分のためにも積極的に挨拶をするべきであろう。だが、もし、キミがそんな気分でなければむしろ挨拶はするべきではない。自発的に他者と今日という奇跡を分かち合いたいときに行えばいい。それが真の挨拶なのだ』と言ってもよかった。いや、むしろ、『挨拶とは何か』をちゃんと考えるなら、そう答えるべきだったとすら言えるかもしれない。だが、多くの人は、本来の意味を省みることもなく、自分が生きる社会システムの価値観で無意識に答えてしまう」
「仮にここにコップがあり、そこに水を注いだとしよう。すると、水はこのコップの形になるわけだが…もしかしたら、水はこう言うかもしれない。『僕は自分の意志でこの形になったのだ』と。だが、それは幻想であり、事実は『たまたまコップがそういう構造をしていたから』にすぎない」
身も蓋もない人間観。今の話の場合、「コップ」は社会の構造で「水」は僕たちの思考のことだがまさにそのたとえの通り、人間はただ構造に合わせて考えさせられてるだけにすぎないということ。
「ポスト構造主義は、構造主義と何が違うのか。それは、『構造主義がわずかに持っていた希望を打ち砕いたこと』だと言ってもいいかもしれない」
構造主義が持っていた希望?
「構造主義は一見すると、人間の主体的な意志を軽視した非人間的な思想に思えるかもしれないが、実は、こんな希望を見出すことができる。
『自分たちが生きている社会の構造をきちんと把握しよう。そして、その構造上の大陥を見つけ出し、それを修復してもっと豊かで幸せな未来を作り出そう』」
人間はいつまでも構造の奴隷ではなく、むしろ自分たちで都合の良い構造をデザインしていこうという話しだ。たしかにそれなら建設的で希望がある。
「だが、ポスト構造主義の哲学者たちは、その希望をこんなふうに打ち砕く」
『そんなことは不可能だ!人間は自分の意志で構造を作り変えることなど絶対にできない!
なぜなら、その作り変えようという意志自体が、とらわれている構造から生み出されたものにすぎず、元の構造を越えたものを作り出すことなんてできないからだ!』
「コップの水は、一度コップに入ったが最後、コップの範囲の中でしか動くことができないのだから、どうやったってそのコップから抜け出せない」
『監獄の誕生』ミシェル・フーコー
ここで言う監獄とは、比喩でもなんでもなく、そのまま『刑務所』のことであるが、この本の中でフーコーは、刑務所というシステムが歴史的にどのように誕生し、それが人類にどのような影響を与えていったかについて、その分析結果を語っている。
まずフーコーによれば、18世紀頃まで人類は、犯罪者を公開処刑にするという文化を持っていた。しかも、それは犯罪者を車で八つ裂きにしたり、火あぶりにしたりと身体的に残虐な方法での処刑であったという。なぜ、そんな酷い処刑の仕方をするのか?それは、もちろん、見せしめだ。権力者に逆らうことがどれほど罪深いものであるかを民衆に知らしめるためである。
しかし、19世紀以降、人類からこうした残酷な公開処刑は消滅していく。そして、代わりに『監獄』すなわち『刑務所』というシステムが誕生する。なぜ、刑務所が生まれたか?
表向きには『人道に配慮』といったところだろうか。もしくは『犯罪者にも人権を、更生のチャンスを』と言ったところだろうか。
もちろん、『人道に配慮』というのは善いことである。今更、公開処刑の時代に戻るべきだとは誰も言わないだろう。だが、こうした『人道に配慮』した刑務所の設置によって、我々の社会システムは事実として間違いなく変わり、結果として我々の思考の形式は確実に変更を余儀なくされる」
「つまり、コップが変わったわけだ」
コップが変われば、中の水ー僕たちの思考も強制的に変わってしまう。
「まず注目すべきことは、刑務所という存在が我々にどんな意識の変化をもたらしたか。それは『正常と異常』の境界線をはっきりとさせたことだとフーコーは唱える。
正常と異常、正気と狂気…。古来、これらに明確な境目はなかった。しかし、刑務所ができて以降、いつの間にか、そこにくっきりと境界線が引かれてしまう。
善良な市民と犯罪者。普通の人間と普通ではない人間。境界線がはっきりすれば、我々はどうしてもこっち側、『正常側』でなければならないという思い込みにとらわれるようになる。
本来、そんな境界線などなかったにもかかわらずだ。
そもそも刑務所というのは、誰かを悪人すなわち『社会的に異常な人間』として断定し、その生活を監視して「正常な人間』に矯正する装置であると言える。
かつては、権力者に逆らった悪人は単純に殺されて終わりであったが、刑務所ができたことで、悪人は人道の名の下に生かされ『正常な人間』に調教されるようになったのだ。つまり、『権力に逆らう人間は排除しなくてはならない』から、『人間は誰しも正常に生きなくてはならない』という意識の変化が起きたのだ。この変化は、人類史においてはつい最近のことなのである。
刑務所というシステムの要点を理してみよう。それは次のふたつだ」
(1)「異常者(囚人)」を保護して「正常者(一般人)」に矯正する。
(2)そのためには、囚人を一定の規律に従わせ、その行動を監視する。
「ここで特徴的なのは、監視という矯正方法だ。刑務所はけっして体罰などで囚人を痛めつけて、正常な人間に正しようとするわけではない。そうではなく、囚人を規則正しく起こし、食べさせ、働かせ、寝かせ、その日常を看守が監視することで正常な人間に矯正しようとする。なぜ監視が矯正になるのか?
たとえば、宿題をやらない子供を思い浮かべてほしい。その子を矯正する方法として、手っ取り早く『殴る』というやり方があるだろう。だが、その方法では真の矯正は実現できない。
なぜなら、仮にその子が宿題をやるようになったとしても、それはあくまでも痛みとの取引による打算的な選択にすぎないからだ。その証拠に、もし痛めつけられない環境に戻せば、きっと彼はまたサボるだろう。
だから、彼を真に矯正したければ、こうすればいい。
まず最初に、『宿題はみんな当たり前にやっている。それができないやつは、おかしな人間だ』という特定の価値観を信じ込ませる。そして、そう思い込ませたあと、後ろからずっと『見て』いればいいのだ。そうして、もし彼が『うわ、ボク、人に見られてる。おかしな人間だと思われたくない』という感覚を持ったとしたら、しめたもの。しばらく定期的に見ていれば、そのうち彼は誰も見ていないときでも『他者の視線』を意識するようになり、自分を律して自ら宿題をやるようになるだろう」
「今のたとえ話から、刑務所における監視というシステムが、いかに人間を矯正するのに効果的であるかが、わかってもらえたかと思う。が、しかし、よくよく考えてみれば、この話は刑務所だけにとどまらない。他者の視線を気にさせて自分を律するように仕向けるーこのやり口は、社会のいたるところにある。いや、社会全体がそうだと言ってもよいだろう。そう、我々が住む社会(コップ)は、実は『監視による矯正』という、刑務所と同じ構造で出来上がっているのである」
「スマホの普及。今は、街を歩く人のほとんどが、スマホという情報機器を持っている。もし社会がフーコーの言う通り刑務所だとするなら、このスマホの普及はいったい何を意味するのか?それはおそらく『囚人全員が監視カメラを日常的に持ち歩き、互いを監視し合っている状況』にほかならないのではないだろう」
『市民の誰もが監視カメラと盗聴器をポケットに忍ばせ、しかもその情報をいつでも公の場に発信できる時代になったから』である」
善人が増えたのではなく、テクノロジーの発達により監視される機会が増えて、より婦正が徹底される社会構造になっただけである。
「監視社会から「相互監視社会』へ」
きっとこれからも監視社会は続いていくだろう。監視される側が、囚人側が、どんな意志を持とうと関係ない。社会が、自らの発展のために『正常』な人間を求めて、監視システムを自ら強化していく。そして、その社会のために産み出された人間は、社会が規定する『正常』から外れることを恐れ、死ぬまで『他者の視線』を気にしながら生きていくのだ。
もはや人間が、『人間にとって正しい社会』を作っているのではない。
社会が、『社会にとって正しい人間』を作っているのだ。とっくに主従関係は逆転してしまっているのである。
「仮に全然考え方が異なる人間がいたとしても、それこそ宇宙人であったとしても、知的に『考える』生命体であるならば、そこには必ず『真である』『正しい』という概念の基盤が存在する。なぜなら、考える、思考するとは、つまるところ、何らかの理論を『真である』『正しい』と主張することであり、そういう形でしか起こり得ないからだ」
僕たちが暮らす社会は、『監視によって人間を調教すること』を最初から意図して設計された社会である。
他者の視線によって生き方を変えるのだとしたら、社会は今後も監視を強化していくでしょう。なぜなら、その方が社会にとって都合の良い人間、『ルールを守り、常識から外れることを恐れる従順な人間たち」をたくさん作り出すことができるからです。
#日記
#エッセイ
#コラム
#ブログ
#人生
#生き方
#ライフスタイル
#日常
#とは
#スキしてみて
#正義
#正義の教室
#飲茶
いいなと思ったら応援しよう!
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。