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トンボの訪問30😁

皆さん、こんにちは。今日も私のnoteを読みに来てくれて、ありがとうございます🙏

今から20年程前に父の会社が倒産し保証人だった私は、当時、住んでいた家も僅かばかりの預貯金も失いました😭

何より堪えたのは当時、小学生だった息子と娘と離ればなれになってしまったことでした。

ある時、私は、ある事をきっかけに自分の今までの生きてきた道のりを、noteに書いてみようと思ったのです。

今回も前回のつづきになります。

前回は、大学時代の後輩だった山下幸奈と結婚し新婚生活がスタートしたものの程なくして、娘ができたことを一番喜んでいた母が病に倒れたまでを書きました。

それでは続きをどうぞ

そんな母の闘病生活が続いていた平成三年に弟、弘志の結納が行われた。相手は弘志の高校時代からの同級生で母も良く知っていた娘だった。彼女は入院中の母の病室にも時折、見舞いに来てくれていた。母は二人目の娘ができる事を喜んでいた。

 しかし、そんなおめでたい話しと裏腹に我が家には不幸が続いた。祖母も体調不良を訴えたのだ。検査の結果、母と同じ市民病院に入院する事になった。大腸癌との診断だったが高齢の為、手術はできなかった。それから父は病院に寝泊まりする事が増えた。私達夫婦も弘志も仕事の休日に頻繁に見舞いに通った。

 フロアーは違ったが母と祖母を交互に見舞った。その年の9月に母の余命三ヶ月を私達夫婦と弘志は父から聞いた。信じられなかった。弟の健にも伝え、できる限りの帰省を促した。重苦しい日々が過ぎていた。宣告を受けた三か月目が近づいたある日、父から話があると言って私達夫婦と弘志を家に集めた。

 そこで母の余命一週間の宣告を受けた事を私達に伝えた。私は何も考える事ができなかった。東京の健に帰省する様に伝えるのが精一杯だった。その頃の母は、痛みを和らげる為にモルヒネを投与されていて意識はいつも虚ろだった。私は翌日、出社した折に事情を話しその日から休みを取り、できる限り病院の母と祖母の部屋を行き来した。弘志と急遽帰省した健もできる限り病院に詰めた。
   
 宣告を受けた一週間が近づいたある午後、母の兄弟姉妹四人が揃って見舞いにきた。父が連絡をしたのだろう。私達家族と叔父叔母達がベッドを取り囲むその時に、父がいきなり母の下の取り替えをしようとした。いつも父がしていた事なのかもしれなかったが、あまりにも配慮のない行動だった。と、その時、意識が朦朧としていたはずの母が突然、起き上がり、父のその手を跳ねのけた。一瞬、その場の空気が凍り付いた。が母はすぐに又、ベッドに倒れこむように横になった。母の最期の意地を見た様だった。私は只々、圧倒された。

 その場の空気に居づらくなった私は一緒にいた妻を連れて「不足品を買いに行ってくる」と理由をつけて病室を出た。そして少し離れた駐車場に止めてあった車に乗り込み、いつも行くドラッグストアを目指して車を出した。何故かいつものルートではなく病院の前の道を通った。と、その時、病院の前に何故か出てきていた叔父が私の車を見つけ何か大声を上げていた。それに気づいた私は叔父の前で車を止めた。「すぐに病室に戻れ。車は俺が戻しておく」叔父の言葉に異変を感じた私と妻は母の病室に急いで戻った。 

 主治医が病室に来ていた。心電図などのモニターを確認していた。その波形は次第に平坦になっていく。暫くして主治医が脈などを確認し母の臨終を病室にいた私達家族に告げた。平成三年十一月二十五日の事だった。私の回りから、すすり泣きが聞こえた。だが私は何故か涙は流れなかった。あまりの突然さに心が追い付かなかったのだと思う。その後、母は霊安室に一旦移され父が依頼した葬儀社の車を待って家に帰った。

 家に戻った母の亡骸は仏壇のある和室に運ばれた。父と葬儀社の担当者が話をしている場に私が呼ばれた。父から「通夜、葬儀の喪主はお前がやれ」と突然言われた。「後の葬儀屋さんとの打ち合わせも頼んだぞ」と言い残して母の亡骸の傍に行ってしまった。勿論、受け入れるしかなかった。

通夜は明日の晩、告別式は明後日の午後からの日程が先ず決まった。葬儀社の担当者の説明をメモを取りながら聞いていく。当時は各家々で葬儀をすることがまだまだ多く、母の葬儀も弔問客の多さを予想して父の家の敷地内に祭壇を組むことになった。幸いに祭壇を組むのには十分なスペースがあった。私は細々とした打ち合わせを担当者と続けていた。暫くの時間が過ぎた後で病院から電話が入った。祖母の様態が急変したので直ぐに来てほしいとの連絡だった。その前にも連絡が入っていた様で葬儀社との打ち合わせをしていた私に気を使って先に弟の弘志と健が病院に行っていた。私と妻が病室に着くと「祖母の容態は今夜が峠です」と、主治医に言われた事を弘志が伝えてくれた。とても信じられなかった。家に電話をし留守番をしてくれていた叔母に「すぐ病院に来るように父に伝えてほしい」と頼んだ。30分程して父が祖母の病室に入ってきた。と、それを待っていた様に暫くして祖母は旅立っていった。
    
つづく

このnoteを書くようになったのは、私の住まいの小さなベランダで育てているレモンの木にある日の朝、トンボがとまっているの見つけたのがきっかけでした。

その時、私はある事で悩んでいました。何故かそのトンボの訪問が私の悩んでいる事に関係がある様に感じ、氣になったので調べてみると、下記の様な面白い記述を見つけたのです。
そして、その事をnoteに書いたのがきっかけとなり自分の事を少し書いてみようと思ったのです。

宜しければ次回も読んでみて下さいね🙇
      【トンボの訪問】
実際は休憩場所や餌となる虫を探して私の住まいの小さなベランダで育ているレモンの木にとまったのでしょうが調べてみると以下の様なおもしろい事が分かりました😁

1.トンボは前にしか飛ばない事から「成功、前進、勝利の象徴」とされ戦国時代の武士の間では「勝ち虫」と呼ばれ戦の縁起物とされていた

2.トンボは秋の季語でもあり「実り、豊かさ、成長」のシンボルとも言われている

3.特にレモンの木の様に実をつける植物にとまったというのは「実りや幸運が近づいている」「これまでの努力が実を結ぶ」という前向きな意味に結びつけて解釈される事もある
などの前向きに捉えることができる事が書かれていました👍️

そうなる事を祈ります😁
皆さんにも幸運が訪れます様に!


トンボの訪問


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