【大人向け】紫の扉の向こう~全部、置いてきました。その帰り道~
お読みになる前に
【18歳以上向け】
・本作品は成人向けの創作小説です。恋愛・官能的な表現が含まれます。
18歳未満の方は閲覧をご遠慮ください。登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものであり、実在の人物・団体・出来事とは関係ありません。
・この短編小説は、VRChatワールド「あやしいさろん ⁄ Immoral Salon」の世界観や体験から着想を得た、非公式の二次創作フィクションです。
作中の登場人物、出来事、施術内容、台詞および細かな設定は、実際のワールド内容をそのまま再現したものではなく、筆者による独自の創作・脚色を含みます。
参照ワールド:あやしいさろん ⁄ Immoral Salon
※本作は、成人キャラクターを主人公とした架空の心理ホラーです。衣装の自動処理や羞恥表現を含みますが、身体への損傷や露骨な性的描写はありません。
・本作の公開にあたり、権利上または内容上の問題が確認された場合は、予告なく公開を停止・取り下げることがあります。あらかじめご了承ください。
登場人物|Characters
K(ケイ)|Protagonist
本作の主人公。18歳。風邪で寝込んで1週間。雨の夜、通知のあった「不思議なサロン」へ足を踏み入れる。
システム音声|System Voice
店内設備から流れる無機質な案内音声。Kの戸惑いをよそに、決められた工程を淡々と進めていく。
呼び出し
風邪をひいて、一週間が過ぎていた。最初の三日は熱でほとんど動けなかった。四日目からは少しずつ食欲が戻り、五日目には咳も軽くなった。六日目にはもう起きている時間の方が長くなっていた。それでも、シャワーを浴びる気力だけは戻らなかった。身体はまだだるく、髪を洗って乾かすことを考えるだけで、また布団へ潜りたくなった。
そうして気づけば、一週間。Kはさすがにまずいと思っていた。
「……今日こそ入るつもりだったのに」
窓の外は、嫌になるほど綺麗な雨だった。しとしとと細い筋になって落ちる雨は、治りかけの身体には少しだけ冷たく見える。部屋の中でKは帽子を持ったまま立ち尽くしていた。大きな花飾りの帽子。黒い外衣。白シャツ。黒ネクタイ。短い黒ボトム。白黒の縞模様のレッグウェア。黒い靴。いつもの格好に着替えてはみたものの、本人にだけ分かる違和感があった。
髪が少し重い。首筋が落ち着かない。白シャツの襟元が気になる。黒い外衣の内側には、部屋着ではないはずなのに、閉じ込められた空気のような匂いがある気がする。何より、一番見えないところにあるはずの黒いショートインナーの存在を、今日はどうしても強く意識してしまう。
「……絶対、今日の僕、だめだよね」
鏡の中の自分へ呟く。頬色は戻ってきている。目元にも少しだけ元気がある。けれど、体調が戻ってきたからこそ、清潔でないことが余計に気になった。シャワーを浴びていない一週間。その事実が、衣装の下でじっと沈殿しているようだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。見慣れない通知。
《ベルベット・ブルーム美容サロン》
《ご来店をお待ちしております》
《洗浄推奨度:緊急》

Kはしばらく画面を見つめた。
「……緊急?」二度見する。
《ご来店をお待ちしております》
予約した覚えはない。少なくとも、今日ではない。けれど不思議と、それを拒否してはいけないような、静かな圧があった。まるで「あなたは今日来るべきです」と決められているような文面だった。
「……何それ」
気味が悪い。普通なら無視するはずだった。けれど、今のKには、その文面が妙に刺さってしまった。一週間。自分でも分かっている。そろそろ限界だと。
「……行って、どうにかなるなら……」
言い訳のように呟いて、Kは帽子をかぶった。花飾りが少しだけ揺れる。鏡の中の自分は、見た目だけならいつものKだった。けれど、その内側にある状態まで含めたら、きっと今日はまったく違う。
雨の中を歩きながら、Kは何度も引き返そうとした。サロンへ行く前に、せめて一度家でシャワーを浴びるべきだったのではないか。いや、もうここまで来たなら、むしろ全部機械に任せてしまった方が楽なのではないか。考えはまとまらず、そのたびに帽子の下の獣耳が落ち着かなく動いた。
雨の向こうに、紫色の光が見えた。
《ベルベット・ブルーム美容サロン》

今夜の看板は、妙に静かで、妙に優しかった。まるで「遅かったですね」と言われているようで、Kは入口の前で本気で帰りたくなった。
「……今からでもやめたい」
けれど扉の横には、すでに表示が出ていた。
《K様 到着を確認》
《本日の重点洗浄対象:黒色ショートインナー》
Kは数秒、その場で固まった。
「……なんで最初からそこなの」
顔が熱くなる。まだ中にも入っていないのに。まだ受付もしていないのに。なぜ一番触れられたくないものが、真っ先に表示されるのか。Kは両手で帽子のつばを押さえ、うつむいた。
「……帰りたい」だが扉は、静かに開いた。

展示
店内は、以前来たときよりも静かだった。いや、正確には静かすぎた。受付には誰もいない。紫色の花。黒い大理石。淡い照明。磨かれた床。どこにも人の気配がないのに、Kだけは確かに待たれていた。
端末が点灯する。
《ようこそ》
《一週間ぶりの衛生回復プログラムを開始します》
「一週間ぶりって言わなくていいから……!」
すぐに次の表示。
《衣類解析モード》
《視覚資料を表示します》
「……視覚資料?」
端末の奥の壁一面に、半透明のディスプレイが浮かび上がった。そこにはKの全身シルエットが表示され、身につけている衣装が一つずつ分離されていく。まるでファッション資料のように、美しく、そして残酷に。
最初に表示されたのは帽子だった。
《花飾り帽子》
《大ぶりの麦わら調ハット》
《白リボン付き》
《紫・白系の装飾花 計14点》
《印象:愛らしさ・象徴性・個体識別要素》
画面には三面図まで表示される。正面、側面、上面。花の配置の違い、
リボンの結び目の向き、つばの柔らかな反りまで解説されていた。
「そこまで……資料化するんだ」

Kは少し呆れたが、まだ耐えられた。帽子は大事なものだ。きちんと扱われているなら悪い気はしない。問題はその後だった。
《黒外衣》
《ロング丈・黒基調》
《紫花模様・金装飾》
《着用者の外観印象を最も大きく形成する衣装》
《現在状態:外観上良好/内部残留臭気あり》
「うっ」Kの表情が固まる。
《白シャツ》
《白地・標準襟》
《清楚印象の中核衣装》
《現在状態:襟部・袖口・裾に使用痕》
《衛生状態:要重点洗浄》
「ちょっと待って」Kが小さく抗議する。
《黒ネクタイ》
《細身・黒》
《視線誘導効果:中》
《現在状態:軽度の繊維疲労》
《黒ボトム》
《短丈・黒》
《可動性重視》
《現在状態:摩擦部消耗あり/内部蓄積あり》
《衛生状態:高負荷洗浄推奨》
「内部蓄積って何……」
Kの頬が熱くなる。言い方がいちいち嫌だった。
しかも、どの表示も妙に客観的で、妙に美しいレイアウトで並ぶせいで、
余計に逃げ場がない。
《白黒レッグウェア》
《高伸縮》
《視覚印象:強》
《現在状態:汗塩・湿気の蓄積あり》
《快適性低下を確認》
そして最後。画面が少し間を置いた。
ディスプレイ全体が一段暗くなり、中央へ一枚だけ、
別枠のカードのような表示が現れる。
《黒色ショートインナー》
Kの呼吸が止まった。
「…………」
画面には、他の衣装とは明らかに違う密度の情報が並び始めた。
《分類:重点解析対象》
《色:黒》
《形状:ショート丈》
《使用感:高》
《個体識別:着用頻度 高》
《着用者との心理的結びつき:強》
Kがゆっくり顔を上げる。
「……心理的、結びつき?」
次の表示。
《お気に入り認定》
「やめて!!」
Kの声が受付に響いた。誰もいないはずの空間で、自分の声だけが妙に大きい。
《補足表示》
「補足しなくていい!」
だが無機質な表示は止まらなかった。
《着用者は当該インナーを繰り返し選択しています》
《推定理由:伸縮性・安心感・肌当たり・慣れ》
Kは帽子のつばを深く下げた。
「……そうだけど……!」
図星だった。たしかにお気に入りだった。派手でも高価でもない。
ただ、これが一番落ち着く。柔らかくて、きつすぎず、ずれにくくて、
他のものより安心できる。だからつい選んでしまう。
それを、こんなところで、こんな形で、解説付きで暴露されるとは思わなかった。
《エピソード表示》
「いらない!」
《過去の着用傾向を参照》
《発熱時・体調不良時・長時間在宅時に高確率で選択》
《安心感を求める場面で優先される傾向》
Kはその場にしゃがみ込みそうになった。
「……それまで分かるの……」
《推定精度:高》
「言わなくていい……」
無機質な画面はさらに進む。
《当該インナーは、単なる衣類ではなく、着用者の“回復時の定番”として機能しています》
「やめて……」
もう怒る元気もなくなってきた。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。たかが一枚のインナーが、まるで自分の弱い部分の象徴みたいに分析されていく。
だが本番は、その先だった。

背徳のインナー
《重点拡大解析を開始します》
Kは顔を上げた。
「……まだあるの?」
ディスプレイが切り替わり、黒色ショートインナーの拡大図が表示された。正面。背面。内側。縫い目。腰帯。脚部。素材断面。もはや商品開発資料か検査レポートのようだった。
《外観解説》
《黒色ショートインナー》
《柔軟性重視の薄手素材》
《腰帯部:伸縮低下》
《脚部:摩耗あり》
《前面:生地厚低下》
《内側:多数の綻びを確認》
Kの目が見開かれる。
「……多数?」
画面は容赦なく、インナー内側の拡大イメージを表示した。もちろん直接的すぎる表現ではない。ただし布地の裏側が図として示され、糸のほつれ、毛羽立ち、擦れによる薄化、微細な穴が、赤い丸や矢印つきでマークされている。
《内側観察図A》
《縫製近傍の綻び 4か所》
《腰帯裏の糸端突出 3か所》
《摩擦による薄化 2領域》
《微量な穿孔 1か所》
Kの顔が一気に赤くなる。
「うそ……そんなに……?」
《表示を拡大します》
「拡大しなくていい!!」
だが画面は拡大された。糸がやや浮いている部分。生地が薄くなって透過しやすくなっている箇所。小さな穴。ごくわずかな擦れ。日常で使っていれば、いずれは起こる、ごく現実的な劣化。それなのに、こうして大画面で資料風に並べられると、まるで自分の秘密を展示されているようだった。
《解説》
《当該インナーは長期間の愛用により、着用者の身体動作に最適化されつつあります》
《一方で、同時に内側構造の疲労が進行しています》
「言い方……!」
Kは片手で顔を覆う。
《“最適化”ではなく“使い込み”です》
「訂正までしなくていい!!」
《補足》
《当該インナーは、着用者の生活と回復の履歴を繊維内に蓄積しています》
Kはもう何を言えばいいのか分からなくなった。
「……詩的にまとめないで……」
だが、それでも画面は止まらない。
《臭気解析》
「やっぱり来た……」
画面にはグラフが出た。他の衣装と比較した棒グラフ。外衣、シャツ、ネクタイ、ボトム、レッグウェア、インナー。インナーの棒だけが明らかに高い。
《衣類別臭気比較》
《1位 黒色ショートインナー》
「やめて……」
《詳細》
《閉鎖環境由来のこもり》
《長期着用由来の湿気保持》
《皮脂・汗塩・角質由来成分》
《柔軟剤残香の減衰》
Kは帽子を深く押さえた。
「もう、何も見たくない……」
《表示義務のため継続します》
「その義務ほんと嫌い……!」
そして。
《内側異常反応》
Kがぴたりと止まる。
「……異常?」
画面中央に、ぼんやりと丸いマーキングが表示された。内側の一部に、淡く色の違う領域がある。
《内側観察図B》
《未分類のシミ状反応を検出》
Kの頬から一気に色が引いた。
「…………え?」
数秒。完全に沈黙。
「な、なにそれ」
《再解析中》
「ちょっと待って。何その言い方」
Kは本気で焦り始めた。
《候補を議論します》
「議論しなくていい!!」
だが画面には、まるで会議資料のように候補が並んだ。
《候補1:柔軟剤残留》
《候補2:洗剤成分の偏在》
《候補3:皮脂と湿気の複合残留》
《候補4:不明》
「最後の“不明”を先に出すのやめてよ!!」
Kの声は半分怒っていて、半分泣きそうだった。
《追加観察》
シミの輪郭が拡大される。
《形状:不定形》
《大きさ:微小》
《色調:薄灰》
《質感推定:繊維表面の付着物》
「……やだ」
Kは首を振る。
「それ、そんなに詳しく見なくていい」
《議論を継続します》
「継続しないで!」
《候補1:柔軟剤残留 可能性 31%》
《候補2:洗剤成分偏在 可能性 18%》
《候補3:皮脂と湿気の複合残留 可能性 46%》
《候補4:不明 可能性 5%》
Kは数秒、動かなかった。それから、ゆっくり目を閉じた。
「……つまり、だいたい普通の汚れじゃん」
《はい》
「最初からそう言ってよ!!」
Kは本気で怒った。
「“未分類のシミ”とか“議論”とか“不明”とか、そんなの言われたら変な想像するでしょ!」
《着用者の動揺を確認》
「確認しなくていい!」
《感情:羞恥・怒り・安堵》
「全部合ってるけど表示しないで!!」
Kは帽子をつかんだまま、しばらくその場でうつむいていた。恥ずかしい。腹が立つ。けれど、結局は“普通の範囲”だったことに、心の底では少し安心している。それすら見透かされている気がして、余計に情けなかった。
すると画面が再び変わった。
《回収洗浄の可否判定》
Kが顔を上げる。
《判定:回収対象》
「……回収?」
《黒色ショートインナーは重点回収洗浄を実施します》
《他衣類も順次回収します》
「ちょ、ちょっと待って」
Kが一歩下がる。
「“回収”って、今ここで全部……?」
《はい》
「はいじゃない!」
だがそのとき、床の奥で静かな機械音がした。ゴウン。チャンバーの足元に薄紫色の液体が流れ込み始める。
《衣類回収工程を開始します》
「待って待って待って!」
Kの声を無視するように、液体はゆっくり上がってきた。

回収と消失
チャンバー内部の光が、やわらかな白から冷たい紫へ変わった。Kの身体が少し浮く。髪がふわりと広がり、帽子のリボンが揺れる。無機質な画面には、すでに回収順が表示されていた。
《回収順》
《1 靴》
《2 外衣》
《3 ネクタイ》
《4 白シャツ》
《5 レッグウェア》
《6 黒ボトム》
《7 黒色ショートインナー》
最後の行だけが、少し太く、強調されていた。
「なんで最後だけ目立たせるの……」
Kの頬が熱い。
最初に靴が回収された。黒い靴の表面から粒子がほどけ、静かに光の中へ消えていく。次に外衣。黒い長い裾が、雨の匂いごとほどけていく。ネクタイ。シャツ。レッグウェア。どの工程でも、装置は淡々と状態を報告した。
《外衣 日常臭気除去中》
《白シャツ 襟部重点洗浄》
《レッグウェア 汗塩蓄積除去》
Kは毎回「いちいち言わなくていい」と抗議したが、返事はいつも同じだった。
《処理内容開示は必須です》
そして黒ボトム。
《黒ボトム 回収開始》
《摩擦部・繊維疲労あり》
《内部蓄積あり》
《重点洗浄を実施》
「だから“内部蓄積”って何だよぉ……」
Kは赤い顔でうつむいた。黒いボトムは他より少し長く処理され、粒子化しながら静かに消えていった。そのたびにKは、いよいよ最後が近づいていることを意識せずにいられなかった。
画面。
《最終回収対象》
《黒色ショートインナー》
「……やだ」
Kの声は小さかった。
《開始します》
「待って、せめて心の準備……」
《準備時間 3秒》
「短い!!」
《3》《2》《1》
Kは目を閉じた。
その瞬間、ごく細い気流が足元から立ちのぼった。くすぐったいような、ひやりとするような、不思議な感覚だった。インナー自体が粒子化していくのではなく、まず“そこにある”という存在だけが、周囲の空気から丁寧に浮き上がらされるようだった。
《最終対象 外側回収》
「……っ」
Kの肩が震える。
《状態確認》
《使用感:高》
《摩耗:中》
《綻び:多数》
《微細孔:1》
《お気に入り度:高》
「最後に言うなぁ!!」
顔が熱くて仕方ない。見えているわけではない。プライバシー保護の光膜もある。けれど、“今まさにあのインナーが回収されている”ことを、こんなにも詳しく宣言されながら進められるのが、たまらなく恥ずかしかった。
《内側回収》
「う……」
《シミ状反応部 除去》
《皮脂・湿気複合残留 除去》
《綻び部位 繊維保護回収》
《擦れ薄化部位 補修判定待機》
「やめて……」Kは帽子のつばへ額を押しつけるようにうつむいた。
《着用者反応》
《羞恥 上昇》
《体温 軽度上昇》
「もう無視して……!」
《最終繊維分離》
ごく静かに、けれど確かに、最後の一枚が回収されていく感覚があった。直接的ではない。ただ、何かが一つ、完全に自分から離れていくという実感だけが残る。装置はその一瞬を、まるで儀式のように演出した。
《お気に入りインナー》
《回収完了》
Kは数秒、動かなかった。
「……終わった?」
《はい》
《衣類回収工程 完了》
画面には、先ほどまでずらりと並んでいた衣類の一覧が、すべて《回収済》へ変わっていた。帽子だけが最後まで残されていたが、数秒後、それも静かに表示が切り替わる。
《帽子 保護回収》
「帽子まで!?」
花飾りがふわりと揺れ、白いリボンがほどけるように光へ包まれる。Kは一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、装置はただ淡々と告げた。
《全衣類回収完了》
《洗浄・補修工程へ移行します》
画面の中のKのシルエットから、衣装のレイヤーが一枚ずつ消えていく。外衣なし。シャツなし。ボトムなし。レッグウェアなし。インナーなし。帽子なし。最後には、ただの人型シルエットだけが残る。その上に、大きく表示された。
《K 回復対象として保護中》
Kはその文字をしばらく見つめていた。
恥ずかしかった。途中で何度も帰りたかった。順位までつけられ、お気に入りまで暴露され、インナーの内側のほつれや穴やシミまで議論された。たぶん、今までで一番恥ずかしい時間だった。
それでも。
《重点対象:黒色ショートインナー》
《補修を伴う念入り洗浄を開始します》
その表示を見たとき、Kはほんの少しだけ息を吐いた。
「……ちゃんと、直してくれるんだ」
《はい》
「……なら、まあ」
少しだけ頬を赤くしたまま、Kは小さく呟いた。
「それなら……許すわけじゃないけど、任せる」
装置は無反応だった。ただ静かに、紫色の光だけがチャンバーの中で揺れていた。
《次工程へ移行します》
そしてKは、自分の一番恥ずかしいお気に入りが、完全に回収され、洗浄され、補修されていく夜の始まりを、逃げられないまま見送ることになった。

洗浄結果レポート
《次工程へ移行します》
その表示が出てから、Kはしばらく黙っていた。チャンバーの中には、もう衣類がない。黒い外衣も、白シャツも、黒ネクタイも、黒ボトムも、白黒レッグウェアも、そしてあれほど細かく解析された黒色ショートインナーも、すべて回収されている。
プライバシー保護の半透明スクリーンだけが、Kの身体の必要な範囲を完全に隠していた。
「……もう、終わったんだよね」
Kは確認するように言った。
画面。《衣類回収工程:完了》
「うん」
続いて。《衣類洗浄結果レポートを表示します》
Kの表情が止まった。
「……レポート?」
《処理結果の確認は必須です》
「その言葉、もう嫌な予感しかしない……」
正面の大型ディスプレイが一度暗くなる。次の瞬間、そこにはまるで健康診断の結果表のような、整然とした一覧が表示された。
《ベルベット・ブルーム美容サロン》
《衣類洗浄・補修結果報告書》
《利用者:K》
《対象衣類:7点》
Kは眉をひそめた。
「名前まで……」
最初に帽子。
《花飾り帽子》
《雨水残留:除去》《外気臭:除去》《花粉:除去》《装飾花:形状回復》
《白リボン:繊維整形》
《最終清浄度:100》
「……帽子は普通だ」
次。《黒外衣》
《洗浄前臭気指数:46》《洗浄後:0》
《外気臭:除去》《皮脂由来成分:除去》《微量汗塩:除去》
《繊維補修:完了》
《最終清浄度:100》
「洗浄前の数字まで出すの……?」
次。《白シャツ》
《洗浄前臭気指数:53》《襟部皮脂指数:61》
《袖口汗塩指数:32》《たんぱく質反応:微量》
《洗浄後:すべて検出限界以下》
《最終清浄度:100》
Kの頬が赤くなる。
「襟だけ61って……」
《使用部位特性による正常範囲》
「分かってるけど、数字で見ると恥ずかしい」
次。《白黒レッグウェア》
《洗浄前臭気指数:58》
《汗塩指数:66》《湿気指数:72》《皮膚由来たんぱく質:微量》
《洗浄後:0》
《最終清浄度:100》
「72……」Kの獣耳が少し伏せる。
「一週間って、こんなに数字に出るんだ……」
そして。《黒ボトム》Kは顔をしかめた。
《洗浄前臭気指数:71》
《腰部皮脂指数:64》《繊維内部湿気:59》
《三重洗浄:実施》《第三洗浄後:全項目0》
《最終清浄度:100》
「……三回だったもんね」そのあと、画面が一度止まった。
Kは嫌な予感がした。
「……まだある」
画面中央に、大きく表示される。
《最重点対象》
《黒色ショートインナー》
「……やっぱり」
《洗浄前総合清浄度:22/100》
Kの目が見開かれた。
「22!?」
《着用期間・密着度・湿気保持を含む評価です》
「それでも22は傷つくんだけど!」
表示は続く。
《臭気指数:78》《湿気指数:73》《皮脂指数:69》
《汗塩指数:55》《角質由来成分:中》《皮膚由来たんぱく質:中》
《内側繊維疲労:高》《ほつれ:複数》《薄化:2領域》《微細孔:1》
Kはもう片手で顔を覆っていた。
「お願いだから、もう一覧にしないで……」
《補修結果》
《ほつれ:修復》《薄化部:補強》《微細孔:補修》《伸縮性能:回復》
《臭気:0》《湿気:0》《皮脂:0》《汗塩:0》
《たんぱく質反応:検出限界以下》
《最終清浄度:100/100》
数秒。Kは画面を見た。
「……100」少しだけほっとする。
だが。
《衣類別・洗浄前ランキング》
「まだやるの!?」
一位。《黒色ショートインナー 22点》
二位。《黒ボトム 34点》
三位。《レッグウェア 39点》
四位。《白シャツ 48点》
五位。《黒外衣 55点》
六位。《ネクタイ 72点》
七位。《花飾り帽子 77点》
Kはしばらく無言だった。
「……もう、インナーが優勝みたいになってるじゃん」
《清浄度順位では最下位です》
「訂正しなくていい!」
続いて別のランキング。
《洗浄前臭気ランキング》
「まだある……」
一位。《黒色ショートインナー:78》
二位。《黒ボトム:71》
三位。《レッグウェア:58》
四位。《白シャツ:53》
五位。《黒外衣:46》
Kは帽子もないのに、つい帽子のつばを下げるような仕草をしてしまった。「……最初から最後まで一位なんだ」
《はい》
「はい、じゃないよ……」
そして最後。《すべての衣類:洗浄・補修完了》
Kは長く息を吐いた。
「……これで、本当に終わり?」
装置。《いいえ》Kの顔から血の気が引いた。
「……え?」
全身詳細スキャン
《次工程》
《全身衛生状態・詳細解析》
「ちょっと待って」Kは透明な壁へ手をついた。
「衣類だけじゃなかったの?」
《一週間の未洗浄傾向を確認》
「そこまで言わなくていい!」
《人体表面臭気・皮脂・汗塩・角質・頭髪・獣耳を解析します》
Kの顔が真っ赤になる。
「……全部?」
《はい》
「拒否は?」
《衛生回復プログラム進行中》
「それ答えになってないよ!」
頭上から、青白い光が降り始めた。
《全身詳細スキャン開始》
Kは諦めたように目を閉じた。
光が頭髪を通る。耳。首。肩。腕。背中。腰。脚。足。そして全身。
《一次スキャン完了》
ディスプレイに、人型シルエットが表示された。
部位ごとに色が違う。青。緑。黄色。橙。赤。Kは嫌そうな顔をした。
「……これ、嫌なやつだ」
《臭気マップを表示します》
「やっぱり!」
頭髪。黄色。
獣耳。橙。
首。黄色。
肩。緑。
脇周辺。橙。
背中。橙。
腰まわり。黄色。
脚。黄色。
足部。赤。
Kは画面を見たまま固まった。
「……赤あるんだけど」
《高臭気領域》
「“高臭気”って言わないで!」
続けて数値。
《頭髪:臭気指数 63》
《獣耳:68》
《首周辺:55》
《肩:34》
《腕:29》
《脇周辺:72》
《背中:66》
《腰周辺:57》
《脚:49》
《足部:81》
Kは数秒、完全に動かなかった。
「…………81」
《足部》
「部位名まで繰り返さなくていい!」
《一週間未洗浄状態として想定範囲》
「“想定範囲”でも恥ずかしいものは恥ずかしい!」
画面がさらに切り替わる。
《部位別臭気ランキング》
Kが両手で顔を覆った。
「ランキングやめてぇ……!」
一位。《足部:81》
二位。《脇周辺:72》
三位。《獣耳:68》
四位。《背中:66》
五位。《頭髪:63》
六位。《腰周辺:57》
七位。《首:55》
八位。《脚:49》
九位。《肩:34》
十位。《腕:29》
Kは顔を覆ったまま呟く。
「耳が三位って何……」
《獣耳は毛量・皮脂腺・帽子内湿度の影響を受けます》
「ちゃんと理由あるんだ……」
それで少し安心した自分が、また恥ずかしい。
しかし画面は止まらない。
《臭気種類解析》
「種類まで!?」
《足部》
《主成分:汗塩・皮脂・角質・靴内湿気由来》
《状態:強》
「強って言わないで……」
《脇周辺》
《主成分:汗・皮脂・皮膚常在菌代謝物》
《状態:中〜強》
Kの顔がさらに赤くなる。
「……普通の生理現象だよね?」
《はい》
「じゃあ普通って最初に!」
《獣耳》
《主成分:皮脂・毛髪由来油分・帽子内湿気・外気》
《状態:中》
「耳まで……」
《背中》
《主成分:皮脂・汗・寝具接触由来》
《状態:中》
「寝てたから……」
Kは小声で言う。
《一週間の療養傾向と一致》
「そこまで生活推測しないで!」
《頭髪》《主成分:皮脂・汗・枕接触・外気》《状態:中》
「……もうやだ」
そして。
《総合人体臭気指数:67/100》
Kが固まる。「……67って高いの?」
《0が無臭、100が非常に強い状態です》
「説明しなくていい!」
Kは本気で顔を覆った。
「もう数字見たくない……」

上位臭気部位・再スキャン
装置。《上位臭気部位のみ再スキャンします》
Kが顔を上げる。「まだ確認するの!?」
《測定精度向上のためです》
「もう十分正確そうだけど……」
《対象》《足部》《脇周辺》《獣耳》《背中》《頭髪》
Kはため息をついた。「上位五つ全部やるんだ……」
最初。《再スキャン:足部》
青白い線が足元だけを何度も往復する。
《一次測定:81》《二次測定:83》
Kが目を見開く。
「上がった!?」《測定精度向上による補正》
「補正しなくてよかった!」
《最終値:83》
次。《脇周辺》
Kの頬が赤くなる。
「そこ、大画面で部位名出さなくていい」
《一次:72》《二次:71》《最終:71》
「一個下がった……」
少し嬉しそう。
すぐ自分で気づく。
「僕、何を喜んでるんだろ……」
次。《獣耳》「耳はもういいって……」
光が左右の耳だけを細かくなぞる。
《右:67》《左:70》
Kが固まる。「左右差まで!?」
《左側の帽子内部湿度が高かったと推定》
「そんな細かいことまで分かるんだ」
《平均:69》「上がってるし……」
次。《背中》《一次:66》《二次:65》《最終:65》
そして。《頭髪》《一次:63》《二次:64》《最終:64》
再スキャン結果。
《臭気上位ランキング・確定版》
Kは絶望した顔になる。「確定版いらない!」
一位。《足部:83》
二位。《脇周辺:71》
三位。《獣耳:69》
四位。《背中:65》
五位。《頭髪:64》
画面中央に大きく表示。
《最優先洗浄部位:足部》
Kはもう笑うしかなかった。
「……足が優勝した」
《臭気指数順位では一位です》
「その訂正いらない!」
全身洗浄
《全身洗浄へ移行します》
Kは疲れ切った顔で画面を見る。
「……やっと洗ってくれるんだ」
《プライバシー保護:最大》
半透明の光膜がさらに濃くなる。
《洗浄順序》
《1 足部》
《2 脇周辺》
《3 獣耳》
《4 背中》
《5 頭髪》
《6 首・肩》
《7 腕》
《8 腰周辺》
《9 脚》
《10 全身仕上げ》
「臭い順なんだ……」
《効率的な臭気除去順です》
「言い方が容赦ない……」
まず足部。《足部重点洗浄開始》
《洗浄前臭気指数:83》
温かな微細水流が足元を包む。Kの肩が少し下がる。
「……あ、気持ちいい」
《汗塩除去》《皮脂除去》《角質自然脱落分除去》
数字。《83→71》
「おお……」《71→58》《58→41》
Kは画面を見てしまう。
「なんか下がると嬉しい」
《41→22》《22→8》《8→1》《1→0》
《足部洗浄完了》
Kは本気でほっとする。
「……ゼロになった」
次。《脇周辺重点洗浄》Kの顔がまた赤くなる。
「部位名、毎回大きく出すのやめて」
《洗浄前:71》
「数字も……」
柔らかなミスト。
《71→55》《55→39》《39→20》《20→6》《6→0》
《洗浄完了》
次。《獣耳》「……来た」
温かい風。右耳。
「ひゃっ!」
Kの肩が跳ねる。《臭気指数:69》
「今その数字言わなくていい!」
風が根元から先へ。「っ……ふ」左耳。
「ひゃ……」洗浄気流。毛並みを整える。《69→57》「……下がってる」
もう一度。「ん……」《57→43》
くすぐったさが、だんだん心地よさへ変わる。
「……これ、やっぱり好きかも」《43→28》
「ふ……」温かな風。《28→12》
「あと少し……」《12→3》
最後。両耳を包むような柔らかな気流。
「……あぁ」《3→0》
《獣耳洗浄完了》
Kは耳を触る。
「ふわふわ……」
次。《背中重点洗浄》
温水。「……あ」《65→49》《49→31》《31→13》《13→0》
次。《頭髪》
温かなミスト。皮脂。汗。枕由来の付着物。外気。
全部が少しずつ流れていく。
「……一週間ぶりだ」
Kは目を閉じる。
《64→50》《50→34》《34→17》《17→4》《4→0》
髪が軽くなる。
「……すごい」
首。肩。腕。腰。脚。
順番に洗浄。部位ごとに数字が表示される。
《首:55→0》
《肩:34→0》
《腕:29→0》
《腰:57→0》
《脚:49→0》
そして。《全身仕上げ》
細かな温水とミストが、Kの全身を薄い膜のように包む。
《皮脂残留:検出限界以下》
《汗塩:検出限界以下》
《外気臭:検出限界以下》
《人体表面臭気:検出限界以下》
Kはゆっくり息を吐く。
「……やっと」
《総合人体臭気指数:67→0》
《全身清浄度:100/100》
Kは目を開ける。
「……0」しばらく画面を見る。
「なんか、すごく安心する」

返却されない衣類
洗浄液が排出される。温風。乾燥。Kはすっかりさっぱりしていた。
髪は軽い。獣耳はふわふわ。身体のべたつきもない。
「……これなら、まあ……」
チャンバーの扉が開いた。Kは外を見る。
「衣類は?」
画面。《衣類処理完了》
「うん。返して」
数秒。《返却対象:なし》Kは固まった。
「…………え?」
《回収衣類は衛生処理後、保管対象へ移行しました》
「は?」Kは画面へ近づく。
「ちょっと待って。全部?」《はい》
「外衣も?」《はい》
「シャツも?」《はい》
「ボトムも?」《はい》
「レッグウェアも?」《はい》
Kは嫌な予感しかしない顔で聞いた。
「……インナーも?」《はい》
「帽子も!?」《はい》
Kは数秒、完全に停止した。
「……返してよ!!」《返却予定はありません》
「聞いてない!」《利用規約に記載済み》
「絶対ちゃんと読んでないやつ!」
Kは頭を抱えた。
「じゃあ僕、どうやって帰るの!?」
その瞬間。壁の一部が開いた。
中から一枚の、膝近くまである厚手のサロン用プライバシーケープが出てくる。前後とも十分な長さがあり、身体の必要な範囲を完全に覆えるものだった。
《退店用プライバシーケープ》
Kはそれを見つめる。
「…………これ?」
《はい》
「服全部取って、これ一枚?」
《はい》
「雨なんだけど!?」
《防水加工済み》
「そういう問題じゃない!」
Kはケープを受け取るしかなかった。身体をしっかり覆い、前を閉じる。
幸い、透けることもなく、最低限の防寒性もある。
でも。鏡を見る。
いつものKではない。花飾りの帽子もない。黒い外衣もない。白シャツも。ネクタイも。黒ボトムも。縞模様も。黒い靴も。
もちろん、お気に入りの黒色ショートインナーも。
何もない。ただ、サロンのロゴが小さく入った黒いケープだけ。
Kの頬がまた赤くなった。
「……最悪」

画面。
《退店準備完了》
「準備できてない!」
その直後。出口の扉が開いた。外から雨音が聞こえる。Kが振り返る。
「待って。本当に返さないの?」
《返却対象:なし》
「インナーも?」
《保管済み》
「お気に入りなんだけど!」
《着用者との心理的結びつき:強》
「それ言うなぁ!!」
Kは真っ赤になった。
「返して!」
《処理終了》「会話終わらせないで!」
背後で機械音。チャンバー側の扉が閉じ始める。Kは慌てて外へ出た。
「ちょ、待って!」
サロンの内扉が閉じる。カチャン。「……うそ」
外側の扉。開く。冷たい雨の空気。
Kは黒いサロンケープだけを身体にしっかり巻きつけ、入口に立っていた。

数秒。
「……ほんとに放り出された」
振り返る。ガラス扉の向こう。最後に画面が見えた。
《ご利用ありがとうございました》
そして。
《黒色ショートインナー》
《お気に入り衣類として保管済み》
Kの顔が一瞬で真っ赤になる。
「最後までそれ出すなぁ!!」
カラン。扉が閉まった。
雨。夜。濡れた石畳。
Kはケープの前を両手でしっかり押さえた。頭には帽子すらない。
髪は綺麗。身体も綺麗。獣耳もふわふわ。
臭気指数は0。全身清浄度100。なのに。衣装は何ひとつ戻ってこなかった。
「……こんなの聞いてない」
数歩歩く。裸足では危ないため、ケープと一緒に渡された簡易的な防水スリッパだけが足元にある。ぺた。ぺた。
いつもの黒い靴とはまるで違う音。Kはますます恥ずかしくなった。
「……絶対誰にも会いたくない」
路地を急ぐ。雨はまだ降っている。
風が吹くたび、Kはケープをきゅっと握る。
それでも。ふと。自分の髪へ触れた。軽い。獣耳にも触れる。ふわふわ。
身体は、本当に一週間ぶりにすっきりしていた。
「……洗浄だけは、完璧なのが余計腹立つ」そして思い出す。22点。臭気指数78。ほつれ。微細孔。お気に入り認定。
謎のシミ。議論。回収。保管。Kは歩きながら、また顔を赤くした。
「……あのインナー、本当に返してよ……」
背後。サロン入口の表示が静かに切り替わる。
《処理完了》から。《回収衣類:保管中》
そして、その下に小さく。
《次回来店時、追加解析可能》
Kはそれを見ていなかった。
もし見ていたら。たぶん、その場で引き返して怒鳴り込んでいただろう。
雨の街を逃げるK
サロンの扉が閉まったあと、Kはしばらくその場から動けなかった。
雨はまだ降っている。街灯の光が濡れた路面に反射し、紫や白の光がゆらゆらと揺れていた。普段なら綺麗だと思えたはずの景色も、今のKにはまるで公開処刑の舞台にしか見えなかった。
黒いサロン用ケープ。簡易防水スリッパ。それだけ。
花飾りの帽子もない。黒い外衣もない。白シャツもない。ネクタイもない。黒ボトムもない。縞模様のレッグウェアもない。黒い靴もない。
そして、もちろん。あのお気に入りの黒色ショートインナーもない。
Kはケープの前を両手でぎゅっと押さえた。
「……ほんとに、この格好で帰るの……」
返事をする者はいない。
サロンの扉の向こうには、《ご利用ありがとうございました》の文字が静かに光っているだけだった。

「最悪……」
Kは小さく呟いて、ようやく歩き始めた。ぺた。ぺた。
簡易スリッパが濡れた路面を踏む。
その音が、妙に大きく聞こえる。ぺた。ぺた。ぺた。
「……やだ、この音」
いつもの黒い靴なら、もう少し落ち着いた足音がする。けれど今は、歩くたびに軽くて間の抜けた音がする。
まるで、「変な格好の人がここを歩いています」
と、足音そのものが宣伝しているようだった。
Kは自然と歩幅を小さくした。
しかし、小さくすればするほど。ぺた。ぺた。ぺた。音が妙に一定になる。
「……余計目立つ気がする」
Kは顔を赤くした。仕方なく少し早足になる。
ぺたぺたぺたぺた。
「うわ、それはもっとダメ!」
思わず独り言が漏れた。
そのとき。前から、傘を差した二人組が歩いてきた。
Kは反射的に顔を伏せた。通り過ぎればいい。
見ないで。お願いだから見ないで。
そう思った瞬間。
「……え、何あの格好?」
聞こえた。
Kの耳がぴくりと動く。「コスプレかな?」
もう一人の声。「でも、なんかかわいい」
Kの顔が一気に熱くなる。
「……聞こえてる……」
小さく呟く。
二人組はすれ違っていく。
Kは絶対に振り返らなかった。
でも後ろから。「耳もかわいくない?」「ほんとだ」
声だけは聞こえる。Kはケープをさらに強く握った。
「……やめてぇ……」
一週間ぶりに完全洗浄されて、髪はさらさら。獣耳もふわふわ。サロンのケープも黒くてシンプルだから、遠目には妙にまとまって見える。
本人にとっては最悪の格好なのに。
周囲から見れば、変わった衣装に見えるらしい。
それが余計に恥ずかしかった。
「違うから……コスプレじゃないから……」
誰にも聞こえない声で言い訳する。

家まではまだ遠い。Kはスマートフォンを確認した。
残りの道のりを見て、目を閉じた。
「……まだこんなあるの?」
いつもなら大した距離ではない。
けれど今だけは、途方もなく長く感じる。
Kはできるだけ人通りの少ない道を選んで進んだ。
大通りを避ける。駅前を避ける。コンビニの前を避ける。
明るい商店街なんてもってのほかだった。
住宅街の細い道。
建物の影。街灯と街灯の間。できるだけ暗いところを選ぶ。
まるで逃走者だった。ぺた。ぺた。ぺた。
「……静かに歩けないかな」
足音にすら腹が立つ。
交差点。信号は赤。
Kは誰もいないことを確認して、小さく息を吐いた。
「……ここなら大丈夫」
そう思った瞬間。後ろから人の気配。「わ、かわいい」
Kの身体が固まる。
「……え」
振り向かない。絶対に振り向かない。
若い女性らしい声だった。
「そのケープ、なんかキャラクターっぽい」
別の声。「獣耳すごいふわふわ」
Kはもう耳まで真っ赤だった。
「……これ、サロンに放り出された結果なんだけど……」
もちろん言えるわけがない。信号が青になる。
Kは逃げるように歩き出した。ぺたぺたぺたぺた。
「走りたい……」
でも走るとケープが揺れる。それも怖い。だから早歩き。足は速い。
上半身はケープを押さえるために固まっている。
結果、ものすごく不自然な歩き方になった。
本人は必死なのだが。遠目には。かなり、かわいらしい。
「何あの歩き方」
また聞こえた。
「かわいい」
Kは泣きそうになる。
「かわいいじゃないの……!」
小声で叫ぶ。
「僕は今、本気で恥ずかしいの……!」
けれど、周囲にはそんな事情など分からない。
ただ黒いケープを両手で握り、獣耳を真っ赤にしながら早歩きしている小柄なKがいるだけだ。
少し先。ビルの間を抜ける風が吹いた。Kは気づくのが遅れた。
「……あ」
バサッ。ケープの裾が大きく持ち上がった。
「キャー!!」
Kは反射的に、女の子のような高い声を上げた。
両手でケープを押さえる。
しゃがみ込むように身体を小さくする。
幸い、ほんの一瞬。
けれどKにとっては永遠だった。
「いやぁぁ……!」
顔が真っ赤。耳まで真っ赤。
獣耳は完全に伏せている。
Kはケープを身体へ巻きつけるようにして固まった。
後ろから。「え、かわいー!」
無情な声。Kの身体がさらに小さくなる。
「……かわいくない……」
消え入りそうな声。
「ほんとにかわいくないから……」
心臓がどきどきしている。ただ風が吹いただけ。
本当に一瞬だった。
それでもKには、世界中の人に見られたような気がした。
「……もう恥ずかしくて死にたい……」
もちろん本当にそうしたいわけではない。
ただ、それくらい恥ずかしかった。
今すぐ地面に穴が開いて、そこへ入れたらどれだけ楽だろう。
Kは数秒、その場でしゃがみ込んでいた。
でも帰らなければならない。家はまだ先。

「……帰ろ」
ゆっくり立ち上がる。
今度はケープの裾まで両手でしっかり押さえる。
前も。横も。全部気になる。歩き始める。ぺた。ぺた。ぺた。
「……もう、何この罰ゲーム」
小声で呟く。角を曲がる。
また人。Kはすぐ反対側へ移動する。
その動きがまた不自然で。「なんか、あの子くねくねしてない?」聞こえた。Kは固まった。
「……してない!」
心の中で全力で否定する。
けれど実際。風を警戒してケープを押さえる。
人が来ると避ける。
視線を感じると身体を小さくする。
獣耳が動く。歩幅も一定しない。結果として、かなりくねくねしていた。
「かわいいね」
「コスプレイベント帰りかな」
「衣装シンプルだけど、耳いいな」
Kは顔を伏せた。
「……もうやだ」
ぺたぺた。人が増える。ぺたぺた。
また視線。
ぺたぺた。「かわいい」
ぺたぺた。「何あの格好?」
ぺたぺた。「獣耳、本物みたい」
ぺたぺた。
Kはもう何も聞きたくなかった。
「僕は何も聞いてない……」
小声で自分へ言い聞かせる。
「誰も僕見てない……」
その瞬間。「かわいー!」
「聞こえるぅ……!」
思わず声が出た。
通行人が振り返る。Kはさらに赤くなる。
「……最悪」
また早歩き。
ぺたぺたぺたぺた。
「もうこのスリッパ嫌い!」
それでも帰るしかない。
家へ近づくにつれて、ようやく人が減ってきた。
見慣れた道。いつもの角。いつもの街灯。Kの目に少しだけ希望が戻る。
「……もうちょっと」
歩く。ぺた。ぺた。
「あと少し」
家が見えた。
「……着いた」
それだけで涙が出そうなくらい安心した。
Kは周囲を見る。誰もいない。
よし。最後の数十メートル。ほとんど走る。ぺたぺたぺたぺたぺた。
「もう知らない!」
ケープを押さえながら走る。玄関。鍵。
「開いて……!」
焦って鍵がなかなか入らない。
「なんでこういう時だけ……!」
やっと。カチャ。扉を開く。中へ入る。
閉める。ガチャ。鍵。Kはそこで動きを止めた。
静寂。誰もいない。見られない。もう大丈夫。
数秒。Kは玄関の壁に背中をつけたまま、ずるずると座り込んだ
「…………帰ってきた」
顔はまだ真っ赤だった。獣耳も伏せたまま。
ケープをぎゅっと抱きしめる。しばらく何も言わない。
そして。
「……もう二度と行かない」
数秒。
「絶対に」
さらに数秒。
「……インナー返してもらうまでは行くけど」
Kは自分で言ってから固まった。
「……違う!」
玄関にKの声が響く。
「返してもらったら、もう絶対行かないから!」
でも。ふわふわになった獣耳が、ぴくりと動いた。
Kはそれに気づき。
「……耳だけは、ちょっとよかったけど」
小さく呟いた。そしてすぐ。
「でもそれとこれとは別!」
誰もいない玄関で、一人で真っ赤になりながら。
Kはようやく、長すぎた帰り道を終えた。
帰宅後、二度目の羞恥
玄関の鍵を閉めた瞬間、Kはその場へずるずると座り込んだ。外ではまだ雨が降っている。ドア一枚向こうに、さっきまで自分が必死に逃げるように歩いていた街がある。でも、もう誰も見ていない。誰にも「かわいい」と言われない。誰にも変な格好だと振り返られない。もう大丈夫。そのはずだった。

「……帰ってきた」
声が震えていた。
Kはケープを両手でぎゅっと抱えたまま、しばらく玄関から動けなかった。耳の奥にはまだ、濡れた路面を踏んだ簡易スリッパの音が残っている。
ぺた。ぺた。ぺた。
そして。「何? あの格好?」「コスプレかな?」「かわいい!」思い出した瞬間、Kの顔がまた熱くなる。
「……やめて」
誰もいない玄関で、小さく呟く。
「もう思い出さなくていいから……」
けれど、忘れようとすればするほど鮮明になる。
獣耳を見られた。ケープを見られた。変な歩き方まで見られた。
そして何度も。何度も。「かわいい」と言われた。
「……かわいくなんか……」
そこまで言いかけて、Kは止まった。
本当に?少しだけ迷った。それが間違いだった。
Kはゆっくり立ち上がり、玄関から部屋へ向かった。濡れた簡易スリッパを脱ぐ。ケープはそのまま。髪からはまだ雨の水滴が落ちている。獣耳も少し湿っていた。
廊下の先。大きな鏡。Kは何気なくそこへ目を向けた。
そして。動けなくなった。
「…………」
鏡の中にいるのは、いつもの自分ではなかった。
大きな花飾りの帽子はない。黒い外衣もない。白いシャツも。
黒ネクタイも。黒ボトムも。縞模様のレッグウェアも。黒い靴も。
いつものKを形作っているものが、ほとんど何もない。
代わりにあるのは、大きめの黒いサロンケープ。
雨で少し濡れた長い髪。そこから覗く大きな獣耳。
そして、小柄で華奢な輪郭。
Kは鏡へ一歩近づいた。
「……僕、本当にこの格好で街中歩いてたの……?」
声が小さくなる。
鏡の中のKは、本人が想像していたほど惨めには見えなかった。
むしろ逆だった。細い肩。華奢な身体。
濡れた髪。黒いケープ。その上から覗く獣耳。
雨で少し頬が赤くなっているせいもあって、妙に幻想的だった。
まるで。雨の中から迷い込んできた、コスプレ姿の天使。
あるいは、黒い羽織をまとった美少女。

Kは鏡を見たまま、ぽつりと呟いた。
「……かわいい」
数秒。
「…………」
Kの目が大きくなる。
「僕、今、自分で言った……?」
顔が一気に赤くなる。
「やだ……」
両手で顔を覆う。
「なんで自分で言うの……!」
でも。もう一度。指の隙間から鏡を見る。
濡れた髪。ふわりと広がったケープ。小さな肩。大きな耳。
確かに。かわいかった。
「……ほんとに、女の子みたい」
それを口にした瞬間、Kはさらに真っ赤になった。
「だから言わなくていいって……!」
誰に言っているのか自分でも分からない。
鏡の中の自分が、あまりにも無防備で。あまりにも可愛らしくて。
それが、街中で何度も「かわいい」と言われた理由を、残酷なくらい納得させてしまう。
「……だから、あんなに見られたんだ」
Kは唇を噛んだ。
また思い出す。交差点。
人の声。「かわいい」
別の場所。「耳もかわいい」
また別の人。「コスプレかな?」
そして。一番思い出したくない瞬間。風。バサッ。ケープが持ち上がった。
「キャー!!」
自分でも驚くほど高い声。Kはその場で頭を抱えた。
「やぁぁぁ……!」
記憶だけなのに、今すぐもう一度叫びたくなる。
「なんであんな声出したの僕……!」
あのとき。完全に反射だった。考える余裕なんてなかった。
風が来て。ケープが大きく揺れて。Kはただ必死で押さえた。
その瞬間に口から飛び出したのが。
「キャー!!」
だった。
「……女の子みたいじゃん……」
Kは床へしゃがみ込んだ。耳まで真っ赤。獣耳は完全に伏せている。
でも記憶はまだ終わらない。
その直後。
「かわいー!」
無情なくらい明るい声。
Kは両手で耳を塞いだ。
「聞きたくない……」
でも聞こえる。頭の中に。
「かわいー!」「かわいい!」
「何あの格好?」「コスプレかな?」「耳もかわいい」
一つずつ。全部戻ってくる。
「……やめてよぉ……」
声が震える。Kはケープを強く握った。
そして。もう一つ。風でめくれた瞬間。
ほんの一瞬。本当にほんの一瞬だった。
でも。誰かに見られたかもしれない。
その可能性。それだけで。Kの顔はまた一気に熱くなる。
「……見られたかな」
小さな声。
「……やだ」
目が潤む。
「見られてないよね……」
返事はない。当然だ。
でも。あのとき後ろから声がした。
「かわいー!」
それが。何に対して言われたのか。考えたくない。
「……考えちゃダメ」
Kは首を振る。
でも脳裏には、ケープが大きく揺れた瞬間の感覚が戻ってくる。
風。軽くなる裾。慌てて押さえた手。
高い声。周囲の視線。笑い声ではなかった。むしろ好意的だった。
だからこそ。余計に恥ずかしい。
「……かわいいって言わないでよ」
ぽつり。
「ほんとに……」
声がかすれる。
「僕は、あのとき……」
Kは鏡の前でしゃがみ込む。
「本気で恥ずかしかったのに……」
目から涙が落ちた。一滴。二滴。
ケープの黒い生地へ落ちる。Kは慌てて目元を拭う。
「……泣くほどじゃないでしょ」
自分で言う。
でも。また思い出す。ぺたぺた音。人の視線。
「かわいい」
ケープ。風。「キャー!」「かわいー!」
「……うぅ」
もう止められなかった。Kはその場で膝を抱えた。
涙が次々に出てくる。
「恥ずかしかった……」
ぽろぽろ。
「すごく恥ずかしかった……」
肩が震える。
「みんな見てたし……」
鼻をすすりながら。
「いっぱい、かわいいって言われたし……」
それ自体は悪い言葉ではない。むしろ普通なら嬉しいはずの言葉。
でも今日は違った。自分が一番見られたくない状態のときに。
一番恥ずかしい格好のときに。
必死で家まで逃げている最中に。「かわいい」と言われ続けた。
それがどうしようもなく恥ずかしかった。
「……僕、何してたんだろ」
Kは泣きながら笑いそうになった。
「ケープ一枚で……ぺたぺた歩いて……」
また泣く。
「しかも、キャーって……」
さらに涙。
「ほんとに女の子みたいな声出して……」
鏡を見る。そこには、泣き顔のK。
濡れた髪。赤い頬。伏せた獣耳。黒いケープ。
泣いているせいで、さっきよりもっと幼く、もっと華奢に見える。
Kはそれを見て。また。
「……かわいい」
呟いてしまった。
数秒。
「…………また言った」
涙を流しながら、今度は本気で頭を抱えた。
「もうやだぁ……!」
声が裏返る。
「なんで今日の僕、こんなにかわいいの……!」
言ってからさらに羞恥。
「いや違う! 違うから!」
誰もいない部屋で必死に訂正する。
「僕が言いたいのはそうじゃなくて……!」
でも鏡は何も言わない。
ただ。泣き顔のKを映している。
Kはしばらく、その前で泣いた。たくさん。
今日一日ずっと我慢していたぶんまで。
サロンで衣装の状態を暴露されたとき。
お気に入りのインナーを解析されたとき。
シミを議論されたとき。全部回収されたとき。
衣類を返してもらえなかったとき。街へ放り出されたとき。
変な格好だと見られたとき。かわいいと言われたとき。
風でケープがめくれたとき。高い声で叫んでしまったとき。
全部まとめて。ようやく安全な家へ帰ってきたからこそ。
Kは思い切り泣いた。
「……もうやだ……」
涙を拭く。
「……絶対、もう行かない」
少し間。
「……衣装返してもらうまでは行くけど」
また同じことを言う。自分で気づく。
「……もう」
Kは泣きながら、小さく笑った。
「ほんと、僕なにしてるんだろ……」
そして最後に。もう一度だけ鏡を見る。
黒いケープ。濡れた髪。ふわふわの獣耳。泣いたあとの赤い目。
Kは少しだけ迷って。とても小さな声で。
「……でも、かわいいかも」
また顔が赤くなる。今度はもう否定しなかった。
ただ。
「……恥ずかしい」
そう呟いて。
Kはケープをぎゅっと抱きしめたまま、しばらく鏡の前から動けなかった。

翌朝、夢ではなかった
どれくらい泣いていたのか、K自身にも分からなかった。鏡の前でしゃがみ込み、黒いケープをぎゅっと抱えたまま、何度も同じことを思い出しては顔を赤くし、また涙をこぼした。街中で聞こえた「かわいい」。風でケープが大きく揺れた瞬間。思わず出てしまった高い声。サロンの画面に並んだ、あまりにも無慈悲な解析結果。そして、最後まで返してもらえなかった衣装。
気づけば、Kはそのままリビングのソファへ移動していた。ちゃんと横になった記憶も曖昧だった。ただ、泣き疲れて、身体から力が抜けて、いつの間にか黒いケープを身体へ巻きつけたまま眠ってしまったらしい。

朝。薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
Kはゆっくり目を開けた。
「……ん……」
頭がぼんやりする。昨日までの風邪の重さはかなり抜けていた。身体も軽い。髪もさらさら。肌もさっぱりしている。獣耳も、寝癖らしい寝癖すらつかないほどふわふわだった。
「……あれ」
一瞬。全部夢だったような気がした。
変なサロン。衣類の解析。臭気ランキング。お気に入りインナーの暴露。
回収。街中。
「キャー!」
かわいい。かわいい。かわいい。
Kは目を閉じた。
「……夢」
そうであってほしかった。
でも。身体に触れている布の感触が、いつものパジャマではない。
Kはゆっくり視線を落とした。
黒いサロンケープ。
数秒。
「…………」
もう一度見る。やっぱり黒いケープ。
「…………夢じゃない」
Kの顔が一気に赤くなった。
「うそ……」
勢いよく起き上がる。ケープの前を慌てて押さえる。
「ほんとにこのまま寝てたの!?」
誰もいない部屋に声が響く。
Kは周囲を見る。ソファ。テーブル。昨日脱いだ簡易スリッパ。
玄関には、当然ながら花飾りの帽子もない。
黒い外衣もない。白シャツもない。ネクタイもない。
黒ボトムもない。レッグウェアもない。黒い靴もない。
そして。
「……インナーも」
Kはそこで昨日の記憶を完全に取り戻した。
《お気に入り認定》《内側観察図》《ほつれ:複数》《微細孔:1》
《シミ状反応》《最重点対象》《回収完了》
Kは両手で顔を覆った。
「朝から思い出させないでよぉ……」
もちろん、思い出させているのは自分自身だった。
ソファから降りる。ぺた。
昨日とは違う。今日は裸足。それだけで少し安心する。
けれど、鏡の前を通った瞬間。また足が止まった。
「…………」
朝の光の中で見るKは、昨日の夜とは少し違っていた。
濡れていた髪は完全に乾き、柔らかく肩の周りへ落ちている。
獣耳は綺麗に整い、朝の光を受けてふわりと輪郭が浮かんでいる。
黒いケープは大きめで、華奢なKの身体をすっぽり包んでいた。
そして、そのアンバランスさが。昨日以上に。妙にかわいかった。
Kは鏡を見たまま固まる。
「……やだ」
少しだけ近づく。
「これ……」
昨日、自分で言ってしまった言葉が戻ってくる。
天使みたい。美少女みたい。かわいい。Kは首を振った。
「違う違う違う」
でも、鏡の中の自分は消えてくれない。
むしろ朝の自然光のせいで、昨日よりも輪郭が柔らかく見える。
大きな獣耳。細い肩。ケープから覗く腕。少し赤い目元。
泣き疲れたせいで、表情にはまだ少し弱々しさが残っている。
Kはぽつり。
「……かわいい」
数秒。
「…………」
顔が真っ赤になる。
「また言った!!」
Kは頭を抱えた。
「昨日から何回自分で言ってるの僕!」
鏡の前を離れる。数歩。止まる。また鏡を見る。
「……でも、かわいいんだよなぁ」
「だから言うなって!」
一人で自分にツッコむ。
そして。また別の記憶。風。バサッ。
「キャー!!」
Kはその場でしゃがみ込んだ。
「やぁぁぁ……!」
朝から突然の羞恥。
「あの声……!」
自分の声なのに。どう思い返しても高かった。
完全に反射だった。驚いた瞬間、考えるより先に出た。
「キャー!」
Kは耳まで赤くなった。
「ほんとに女の子みたいだった……」
そして。その直後。
「かわいー!」
Kは顔を覆う。
「聞こえてたんだよなぁ……」
あの声。絶対に聞き間違いではない。しかも一人ではなかった。
「かわいい」「コスプレかな」「耳かわいい」
何度も。いろんな場所で。Kはソファへ倒れ込んだ。
「無理……」
クッションへ顔を埋める。
「朝になっても恥ずかしい……」
少しして。
「……昨日より恥ずかしいかも」
安全な家。誰も見ていない。だからこそ。
全部を冷静に思い返せてしまう。それが最悪だった。
「僕、あの格好で結構な距離歩いたんだよね……」
頭の中で道順を思い返す。
サロン。交差点。住宅街。
明るい通り。人とすれ違った場所。風が吹いた場所。
そして家。
「……長っ」
Kは絶望した。
「なんであんな遠いサロン行ったの……」
泣きそうになる。
でも。昨日ほど涙は出なかった。
代わりに、じわじわとした羞恥がずっと続く。
じっとしていても。思い出す。歩いても。思い出す。
鏡を見ると。思い出す。ケープを見ると。もっと思い出す。
Kはついにケープの裾を見下ろした。
「……これ、本当に目立ったんだろうなぁ」
黒。シンプル。でも大きめ。
華奢なKが着ると、どうしても衣装っぽく見える。
しかも獣耳。髪。顔立ち。
「……そりゃコスプレって言われるか」
納得してしまう。
それがまた恥ずかしい。
「……かわいいって言われるのも」
少し間。
「……分かる、かも」
Kは自分で言って固まった。
「うわぁぁぁ……!」
クッションへ顔を埋める。
「認めちゃった!」
そのとき。スマートフォンが震えた。Kは嫌な予感しかしない顔で見る。
通知。
《ベルベット・ブルーム美容サロン》
「…………」
開きたくない。絶対に開きたくない。
でも。気になる。Kはしばらく画面を見つめたあと、恐る恐る開いた。
《昨日のご利用ありがとうございました》
「……うん」
次。
《回収衣類の状態更新》
Kの目が変わる。
「衣装!」
画面を急いで読む。
《黒外衣:洗浄・補修完了》
《白シャツ:洗浄・補修完了》
《ネクタイ:洗浄完了》
《黒ボトム:三重洗浄完了》
《白黒レッグウェア:二重洗浄完了》
《花飾り帽子:装飾保護洗浄完了》
そして。
少し間。
《黒色ショートインナー》
Kの顔が赤くなる。
「……また最後」
《五重洗浄完了》《ほつれ:修復》《薄化部:補強》
《微細孔:補修》《シミ状反応:除去》《繊維状態:回復》
Kは少しだけ安心した。
「……ちゃんと直ってる」
その直後。
《お気に入り衣類として保管中》
「そこいらない!!」
朝の部屋にKの声が響いた。
まだ続く。
《着用者の心理的結びつき:非常に強》
「やめて!」
さらに。
《推奨:返却前最終確認》
Kは画面へ近づく。
「返却前?」
つまり。返してもらえる?期待する。
その瞬間。
《返却手続きには再来店が必要です》
Kは完全に止まった。
「…………」
数秒。
「行かなきゃダメなの……?」
画面。《はい》
「通知が会話みたいになってる!」
さらに。
《来店時、衣類最終検査結果を利用者へ説明します》
Kの顔が青くなる。
「説明……?」
《黒色ショートインナーを含む全衣類》
「含まなくていい!」
《特に重点補修衣類について詳細説明があります》
Kはスマートフォンを伏せた。
「……無理」
数秒。また見る。
衣装は返してほしい。帽子も。外衣も。全部。
そして。あのお気に入りのインナーも。
Kはソファへ座った。
「……行くしかないんだよね」
小声。少し考える。
「でもこのケープでまた?」
スマートフォン。
《再来店用衣類は貸与可能です》
Kの目が少し明るくなる。
「ほんと?」
次。
《貸与候補》
表示された画像。
白い、簡素なワンピース風サロンウェア。
Kは固まる。
「…………」
また画像を見る。
「これ……」
どう見ても。かわいい。
しかも。今のKが着たら。たぶん。
相当かわいい。Kはスマートフォンをゆっくり伏せた。
「……やだ」
顔が赤い。
「また絶対かわいいって言われる……」
鏡を見る。ケープ姿の自分。朝の光。ふわふわの獣耳。
Kは少し黙る。
そして。
「……でも」
ほんの小さな声で。
「昨日よりはマシ、かな」
言った瞬間。
「いや、比較するな僕!」
Kはまた顔を覆った。
朝。風邪はほとんど治っている。
身体はさっぱり。髪も綺麗。獣耳もふわふわ。
でも。羞恥だけは。昨日より元気だった。
そしてKは、スマートフォンの画面に表示された最後の一文を、まだ見ていなかった。
《再来店時》
《黒色ショートインナー・補修前後比較画像を表示予定》
数分後。
それを見つけたKの叫び声が、家の中に響いた。
「比較画像まであるのぉぉぉ!?」
再来店
「……行きたくない」
翌日の午後。Kは自宅の玄関で、スマートフォンを握ったまま固まっていた。画面には、何度見ても同じ文章。
《回収衣類の返却手続きには再来店が必要です》
そして、その下。
《黒色ショートインナー・補修前後比較画像を表示予定》
「……なんで比較するの」
Kは小さく呟いた。
ただ返してくれればいい。
袋に入れて。はい、どうぞ。ありがとうございました。
それで終わりでいい。
なのに、なぜ自分のお気に入りのインナーについて、補修前と補修後をわざわざ並べて説明されなければならないのか。
「絶対いらないでしょ、それ……」
だが衣装は全部向こうにある。
大きな花飾りの帽子。黒い外衣。白シャツ。黒ネクタイ。黒ボトム。
白黒レッグウェア。黒い靴。
そして黒色ショートインナー。
あれがなければ、いつものKに戻れない。
Kは深くため息をついた。
「……取り返すだけ」
自分へ言い聞かせる。
「説明なんて聞かない。受け取って、帰る。それだけ」
問題は服だった。
昨日渡されたサロンケープのまま再び街へ出る勇気など、もう残っていない。そこでサロンが提示したのが。
《再来店用貸与ウェア》
白を基調にした、膝近くまであるゆったりとしたサロンウェアだった。
身体を十分に覆う、安全な衣類。
ただし。鏡の前で着てみたKは、数秒黙った。
「…………」
白い生地。ゆったりした袖。細い紫色の縁取り。
胸元には小さな花の刺繍。そして何より。小柄で華奢なK。ふわふわの獣耳。さらさらになった髪。その組み合わせは。
「……また女の子みたい」
Kは鏡から目を逸らした。
数秒後。また見る。
「……しかも、昨日よりそれっぽい」
頬が赤くなる。
「なんで貸衣装までこんなデザインなの……」
昨日。コスプレかな?かわいい!
耳かわいい!何度も言われた。
そして自分でも鏡を見て。かわいい。
そう言ってしまった。
「……今日は絶対、人に見られない道で行く」
Kは決意した。
もう一度、雨の街
雨は昨日より弱かった。Kはできる限り人通りの少ない道を選んだ。
白いサロンウェア。簡易的な黒い靴。獣耳。帽子はない。
「……帽子返してもらわないと本当に落ち着かない」
大きな花飾りの帽子は、単なる装飾ではない。
あれがあるだけで、Kは不思議と安心できる。
獣耳も少し隠れる。視線も顔から逸れる。
今は全部むき出し。獣耳は歩くたびに、ぴくぴく動く。
「あんまり動かないで……」
自分の耳へ小声で頼む。もちろん止まらない。少し先。人影。
Kは目を伏せる。すれ違う。何も言われない。
「……よし」
ほっとする。
次の角。別の人。すれ違う。
「かわいい服」
Kの耳がぴんと立つ。
「…………」
聞こえなかったことにする。
数歩。
「耳もかわいい」
Kは顔を真っ赤にした。
「……またぁ……」
早足。
「今日は衣装取りに行くだけだから……」
誰にも聞こえない言い訳。

サロン到着
《ベルベット・ブルーム美容サロン》
紫色の看板。昨日と何も変わらない。Kは入口の前で立ち止まった。
「……ここ」見るだけで、昨日の記憶が戻る。
臭気ランキング。22点。インナー。謎のシミ。ケープ。街。
「キャー!」Kは頭を抱えた。
「思い出すなぁ……!」
入口の表示が変わる。
《K様》
《再来店を確認》
「名前出さなくていい」
次。
《黒色ショートインナー返却手続きを開始します》
Kは周囲を見回す。
「外でそれ出すな!!」
慌てて店内へ入った。扉が閉まる。静寂。
「……もう」
受付端末が点灯。
《おかえりなさい》
Kは一瞬止まる。
「……ただいまじゃないから」
《昨日の衣類処理結果をご説明します》
「説明いらない。返して」
《説明後に返却判定を実施します》
Kの顔が曇る。
「……判定?」
嫌な予感。
補修前後比較
奥の壁。昨日と同じ巨大ディスプレイ。
暗転。
その中央に。
《黒色ショートインナー》
Kは目を閉じた。
「……やっぱりそこからなんだ」
画面が二分割される。
左。《補修前》
右。《補修後》
「でかい!!」
巨大画面いっぱいに表示された黒色ショートインナー。
もちろん衣類だけ。
それなのにKには十分すぎるほど恥ずかしい。
左側には赤い丸。黄色い矢印。白い点線。
補修前の問題箇所が全部マークされている。
《補修前・状態一覧》
《腰帯裏・糸端突出 3か所》
《縫製近傍・綻び 4か所》
《摩擦薄化領域 2か所》
《微細孔 1か所》
《毛羽立ち 複数》
「……もう覚えてるから」
Kはうつむいた。
《拡大表示》
「覚えてるって言ったよね!?」
画面左。微細孔。どん。拡大。
「うわぁぁ……」
Kは両手で顔を覆った。
《微細孔・直径 約2ミリ》
「寸法いらない!」
《原因推定:長期使用による繊維疲労》
「お気に入りだから使ってただけなの!」
次。
《薄化領域A》
布地が周囲より少し薄くなっている箇所。
《繊維密度:新品比 78%》
「数字で言わないで……」
《薄化領域B》
《新品比 81%》
「もうやだ……」
そして右側。補修後。ほつれなし。穴なし。
薄化部分も補強済み。綺麗。形状も整っている。
《補修後》
《繊維密度:回復》
《縫製状態:正常》
《伸縮性能:97%》
《外観:良好》
Kは指の隙間から見る。
「……綺麗になってる」
少しだけ嬉しい。
《着用継続可能》
「よかった……」
Kは本気でほっとした。
その瞬間。
《お気に入り情報を表示》
Kの顔が固まる。
「…………まだそれ残ってたの?」
お気に入り衣類という事実
画面中央に。
《Kの衣類選択傾向》
「やめて」
《黒色ショートインナー》
《選択頻度:非常に高い》
「やめてって」
《推定:最も頻繁に選択されるインナー》
「もう分かったから!」
さらに。
《体調不良時》
《長時間在宅時》
《睡眠時間が長い日》
《気温が低い日》
《安心感を求める状態》
《当該衣類を選択する傾向》
Kは固まった。
「……なんでそんなのまで……」
画面。
《着用者評価推定》
《肌当たり:好み》
《締め付け:好み》
《着用時安心感:高》
《慣れ:非常に高》
Kは完全に真っ赤だった。
「僕、一言もそんなレビューしてないから!」
《使用履歴から推定》
「勝手にレビュー作らないで!」
そして。
《参考エピソード》
「参考にしなくていい!!」
《体調不良初日》
《着替え時に当該衣類を選択》
《翌日》
《再び選択》
《以後、一週間継続》
Kは頭を抱えた。
「日記みたいにするのやめて!」
《推定コメント》
《“これが一番落ち着く”》
数秒。Kは完全に停止。
「…………」
実際。似たようなことを。家で。一人で。言った記憶があった。
「……なんで知ってるの」
《行動傾向からの推定です》
Kは両手で顔を覆った。
「当てないでよぉ……」
《推定一致反応を確認》
「確認するなぁ!!」
シミの最終報告
Kは疲れ切った顔で画面を見る。
「……もう終わり?」
《未分類シミ状反応・最終解析結果》
「まだそれあった……」
昨日。一番焦った表示。
《未分類のシミ状反応》
《候補4:不明》
思い出しただけで顔が熱くなる。
「……もう普通の汚れって分かったんでしょ」
《はい》
「なら終わりでいいじゃん」
《最終結果を表示します》
「いやぁ……」
画面。
《主要成分》
《皮脂由来脂質》
《角質由来たんぱく質》
《汗由来無機塩》
《柔軟剤残留物》
《微量の繊維染料変化》
Kは数秒見る。
「……つまり?」
《日常使用による複合的な繊維変色》
「普通じゃん!!」
Kは大声を上げた。
「昨日あんなに“不明”とか“未分類”とか言って僕を怖がらせて、結局普通の使用痕じゃん!」
《はい》
「はいじゃない!」
《人体由来異常成分:なし》
「最初にそれ言ってよ!」
《汚染性:なし》
「昨日言って!」
《衛生上の問題:なし》
「だから昨日!!」
の声だけが無人のサロンに響いた。装置は淡々。
《説明終了》
Kは肩で息をしていた。
「……疲れた」
全衣類結果
画面が変わる。
《返却前・全衣類状態》
Kが顔を上げる。
「……やっと!」
帽子。
《完全洗浄》
《装飾補修》
《状態:最良》
黒外衣。
《二重洗浄》
《消臭》
《繊維整形》
《状態:最良》
白シャツ。
《二重洗浄》
《袖口補修》
《襟形状回復》
《状態:最良》
黒ネクタイ。
《洗浄》
《繊維整形》
黒ボトム。
《三重洗浄》
《繊維内部消臭》
《縫製補修》
《状態:最良》
白黒レッグウェア。
《二重洗浄》
《伸縮性能回復》
黒色ショートインナー。一段大きく。
《五重洗浄》
「そこだけ字大きい……」
《内外両面完全洗浄》
《臭気指数:78→0》
「洗浄前いらない!」
《清浄度:22→100》
「点数も!」
《ほつれ:修復》
《微細孔:修復》
《薄化領域:補強》
《シミ状反応:除去》
《お気に入り衣類:使用継続可能》
Kは顔を覆った。
「最後の項目、本当に必要?」
《利用者満足度に関係します》
「そこだけ妙に気が利くんだ……」
でも。少し嬉しかった。本当に。あれを捨てなくて済む。
「……返して」
Kは手を伸ばした。
《返却判定へ移行》
「判定って何」
数秒。
《返却条件を確認します》
Kの嫌な予感が戻る。
「……条件?」
《衣類返却には利用者本人による最終確認が必要です》
「今確認したよ!」
《視覚確認ではなく実物確認です》
Kは眉をひそめる。
「……触って確認?」
《はい》
壁の一部が開く。台座。その上。透明なケース。中には。黒色ショートインナー。綺麗に畳まれている。Kの顔が瞬時に赤くなる。
「なんで最初にそれだけ出すの!?」
《重点補修対象のため》
「順番変えて!」
《変更不可》
Kはケースの前に立った。昨日あれほど大画面で解析され。
ランキング一位にされ。22点をつけられ。シミを議論され。
お気に入りだと暴露され。
そして今。実物が。展示品のように。目の前にある。
「……これ、僕のなんだよね」
《はい》
「当たり前だけど……」
ケースが開く。Kはゆっくり手に取った。柔らかい。
昨日より表面が整っている。
腰帯もしっかりしている。穴。ない。ほつれ。ない。
薄かった部分も。分からない。Kは少し目を見開いた。
「……すごい」
思わず。
「新品みたい」
《補修成功》
Kはインナーを両手で持ったまま、少し笑った。
「……よかった」
数秒。そして。自分が今。サロンの真ん中で。お気に入りのインナーを両手で持って眺めている。という状況に気づく。
「…………」頬。赤。耳。赤。
「……僕、何してるの」
慌てて畳む。
《利用者による外観確認:完了》
「はい、終わり!」
《次》
Kが固まる。
「……次?」
《香気確認》
「…………え?」
《洗浄後香気が利用者の好みに合致するか確認してください》
Kは数秒動かなかった。
「……それ、僕がやるの?」
《はい》
「今ここで?」
《はい》
Kは真っ赤になった。
「いや、普通の洗濯物ならやるけど!」
《当該衣類も洗濯物です》
「正論なのが腹立つ!」
しばらく葛藤。でも。
早く返してほしい。Kは恐る恐る衣類を少し近づける。
ほんの少し。石鹸。柔軟剤。清潔な布。
それだけ。
「……うん」
《評価を入力してください》
画面。
《非常に良い》
《良い》
《普通》
《好みではない》Kは少し迷う。
《非常に良い》押す。
その瞬間。
《お気に入り衣類》
《洗浄後香気評価:非常に良い》
Kが固まる。「記録するなぁぁぁ!」
返却
だが。ようやく。壁が大きく開いた。
そこには衣装一式。
帽子。黒外衣。白シャツ。ネクタイ。黒ボトム。レッグウェア。黒い靴。
全部。そしてKの手には、黒色ショートインナー。
「……帰ってきた」
Kは本気で安心した。花飾りの帽子を手に取る。
「帽子……」
つばを触る。花は綺麗。白いリボン。整っている。
「……よかった」
更衣室へ入る。しばらくして。扉が開く。
いつものK。花飾りの帽子。
黒い外衣。白シャツ。黒ネクタイ。
黒ボトム。白黒レッグウェア。黒い靴。鏡を見る。
「……僕だ」
その一言に。ものすごい安心感があった。
昨日。黒いケープ。
今日。白い貸衣装。
街中の視線。かわいい。かわいい。かわいい。全部。ようやく終わった。
Kは帽子のつばを少し直した。
「……やっぱりこれが落ち着く」
画面。
《利用者の心理的安定を確認》
Kが振り向く。
「最後まで解析するなぁ!」

《衣類返却完了》
Kは出口へ向かった。
あと少し。
この店から出れば。終わり。
そう思った瞬間。
《次回メンテナンス推奨》
Kは足を止める。
「……次回?」
《黒色ショートインナー》
《推奨再検査時期:30日後》
Kの顔が引きつる。
「行かない」
《微細補修箇所の経過観察を推奨》
「行かないから」
《お気に入り衣類を長期使用するために推奨》
Kは止まる。
「…………」お気に入り。長期使用。Kは画面を見る。
「……そう言われると」数秒。
「いやいやいや!」首を振る。
「行かない!」出口。扉が開く。
外。今日はもう雨が止んでいた。Kは一歩出る。黒い靴。コツ。その音。昨日の。ぺた。とは違う。Kは思わず笑った。
「……やっぱり、この音がいい」
外衣。帽子。縞模様。
いつもの姿。通り過ぎた人がちらりと見る。Kは一瞬身構える。そして。
「かわいい帽子」
小さな声。Kの足が止まる。頬が少し赤くなる。
でも。昨日ほどではなかった。帽子のつばを少し下げる。
「……ありがとう」
小さく。今度は逃げなかった。

そして歩き出す。
コツ。コツ。コツ。いつものKの足音。その背後。
ベルベット・ブルーム美容サロンの表示。
《返却完了》
数秒後。
《お気に入り衣類メンテナンス》
《次回推奨:30日後》
Kはもちろん。振り返らなかった。
END
※付記
今回は本編2年前のKを同シチュエーション+αで公開しました。Tさんとは未だ出会ってません。危なっかしさが所々に。
2026/9/10公開
2026/9/13更新 冒頭文の追加・画像更新
