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ASD特性があった祖父のこと

「あのね、じいが亡くなったの」

5月の2週目、ゴールデンウィークがあけてすぐのこと。実家の母から電話があった。「結婚祝いを送りたいから、口座番号を教えて」とラインで言われた、その40分後だった。てっきり「無事振り込んだよ」という報告か、「ATMでの操作がうまくいかない」みたいな話かと思っていたのに。想定していた事務連絡のはるか斜め上から、それは突然やってきた。

「えっ、」

言葉が詰まり、母になんて返していいかわからなくなる。いっぽうで、私は内心その事実を冷静に受け止めていた。そろそろかもしれないとは思っていたのだ。祖父は92歳。低体温症になってしまった関係で介護施設から病院に移っていて、私はゴールデンウィークの帰省時に一度お見舞いに行っていた。夫と撮ったフォトウエディングの写真を見せると、「〇〇ちゃん、アイドルみたいだね」と笑っていた祖父。そのとき、なんとなくもうこれが最後かもしれない、という直感があった。

不思議なもので、祖父の死を告げられた瞬間や、お通夜や葬儀の場、火葬場では感傷に浸ることもなかったのに、生活を営んでいる東京の住居で洗濯物を干しているときに、「あれっ、じいってこの世にもういないんだ」と変に実感が湧く。

じい。私の祖父。

彼は家族の中で唯一、私と同じASDの特性を持った人物でもある。

***

記憶の中にある祖父との一番古い思い出は、幼稚園での一場面だ。
忙しい父母に代わって私を幼稚園まで迎えに来た祖父が、「〇〇ちゃん、迎えに来たよ!」と言うなり私を持ち上げて、ぐるぐる回して遊んでくれる場面。まるで祖父自身が遊具にでもなったかのような勢いで、全力で回してくれるものだから、私はジェットコースターに乗った人のようにキャーキャー騒ぎまくっていた。すると、それを聞きつけた周りの子たちが、ぼくも、わたしも、と同じことを祖父にねだるのだ。そんな様子を見て、祖父は

「じいも幼稚園の先生になっちゃった」

とひょうきんな顔で笑うのだった。

祖父は冗談好きで、おちゃめな性格だった。子どものようにふざけることが多かった。

ブラックジョークもなんのその、で、自分が何かミスをすれば「ボケてるからしょうがない」と言い、耳が遠くなって話がうまく聞こえなくなってからは「年寄りだからな!」と言い。

比較的根暗が多い我が家族の中で、ただひとりのエンターティナーだったかもしれない。いつもなんらかのユーモアを持って人に接していた、というのが孫である私から見た彼の姿だ。

だけれどその反面、祖父は、度を超えた几帳面で、自分のルーティーンにないことを受け入れられない人でもあった。

例えば、ご飯。きっちり6時半ごろに食べないと気が済まない。家族で外食に行くときも、帰りが遅くなり、お風呂や歯磨きのルーティーンが崩れるとやたらとそわそわしたり、機嫌が悪くなったりしていた。それは緊急事態の際も大きく変わらず、祖母が交通事故に遭って大手術をすることになったときも、ひとりだけ祖母の心配ではなく自分のご飯の心配をして、母が大激怒したことがあった。

例えば、テーブルクロス。うちの家族がご飯を食べるダイニングテーブルのテーブルクロスが少しずらしてしまうだけで、私と妹はよく祖父から怒られていた。

例えば、畳。うちの実家は古い畳の上に、敷くだけタイプの畳を敷いて過ごしていたのだが、これも少しずらしてしまうだけで、よく祖父から怒られたものだ。

他にも、年齢の割に世間知らずだったり、場にそぐわない行動をしてしまうこともあった。

お墓参りで、墓前で手を合わせるときに、なぜか神社ではないのに柏手を叩いてしまったり。葬儀の場で、焼香のタイミングがわからなかったり。

その度に祖父は、家族から盛大にツッコまれていた。

私はというと、そういった祖父の様子を見る度に、けっこうハラハラしていた。発達障害の特性持ち、かつ、一般常識に疎い私からすると、どうも彼のことは他人事とは思えなかったのだ。他人事とは思えない、どころか、むしろ同属性の彼と自分を重ねていたと思う。同族ゆえ彼を恥ずかしく思うこともあれば、彼にひどく共感することもあった。

ルーティーンが崩されると、パニックになってしまうこと。
人と会話しているときに、どのタイミングで自分が返事をしたり相槌をうったり、こちらから話を切り出したりすればいいのかよくわからないこと。
たまに、度を超えて不謹慎なことを言って、周りをドン引きさせてしまうこと。
その人の背景や暗黙の了解といったものが、いまいちわからないこと。

どれもこれも、身に覚えがあることだ。共感性羞恥で焼かれそうだった。
でも、いつだって祖父は私とは違って、明るく、ひょうきんで、ムードメーカーで、自分に対する自己嫌悪なんてこれっぽっちもなさそうだった。

私なんて、「発達障害」という概念がない時代に生まれた彼にとって、「発達障害」を持って生まれたことはどれだけ辛かっただろう、と勝手に境遇を想像して勝手に同情するなどしていたくらいなのに。

そういうじめじめしたところは、彼には1ミリもなかった。

だからなのだろうか。
ときに人に盛大にツッコまれ、ときに特性ゆえ人とぶつかることがあっても、ふざけて冗談を言ってひょうきんでムードメーカーだった彼だからなのだろうか。

祖父の葬儀では、ほぼ来た人全員が泣いていた。祖父の棺に完全に蓋をしてしまう前に、ひとりひとり祖父に言葉をかける時間があったのだが、ほぼ全員が泣きながらおのおののエピソードを語っていた。

とっても失礼ながら、私は驚いた。

えっ、じいって、こんなに惜しまれるような人だったの。

特性ゆえに、人と喧嘩したり人に煙たがられたり、うまくいかないことのほうが多かったんじゃないの。

だって、私は実際にその現場を見てきた。彼は明るくい続けたけれど、家族の中でも親戚の中でも、彼の立ち振る舞いは決してうまいわけではなかった。

でも、彼は確かに人から愛されていたのだ。

参列者の一人、祖父の甥の奥さんが、一番泣いていた。

「遠くから嫁いできて知り合いもいなくて淋しかったけれど、おじさんが季節の節目ごとに尋ねてきてくれたことが嬉しかった」

と言いながら、何度の何度もハンカチで涙をぬぐっていた。

世間一般からすれば、ありふれたよくあるささいなエピソードにもかかわらず、その積み重ねが何十年も経って、彼女を泣かせるほどの記憶になっていた。祖父が彼女を、何度も励ましていたことがそこからはうかがえた。

人と違う特性を持とうが持たまいが、変わり者だろうが、一般常識に疎かろうが、祖父は人から愛されて人生を終え、長い命を全うしたのだ。

同じくASDの特性を持って生まれ、社会で上手くやれるか、とか、人とスムーズに会話できるか、とか、仕事で使えない奴と思われたらどうしよう、とか、ちゃんと空気を読めてるかな、とか、そういったことを心配して常に人生の評価軸に置いていた私からすると、それは何にも代えがたく尊いことのように思えた。

祖父の葬儀で見たのは、彼が社会にどれだけ適応していたかという物差しではない。ただ、「祖父がいてくれてよかった」、それだけの事実で涙を流す人たちの姿だった。

祖父と私は同じ人間ではない。だけれども、自分と同じハンデを持つ人間がひとつの人生を生き抜いた姿を見て、私は私を認めやすくなった気がする。

今年も、また夏が来る。
その度に思い出すのは、祖父がどれだけスムーズにこの世に適応できていたかどうかではない。

畑仕事で焼けた手のひらと、差し出された手作りのとうもろこしと、不器用だけれど明るく優しいまなざしと、「〇〇ちゃん」と私を呼ぶ懐かしい声だけである。


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