由比宿 ~ 興津宿
吉原宿 ~ 蒲原宿 ~ 由比宿 の続きです。
由比宿に入ったあたりで雨が酷くなり、「今日はここまでか?」と思いながら、由比で昼ご飯を食べている間に天気が回復してきて、「あれ?次の宿場までいけんじゃね?」
で、次の興津宿への歩を進めた次第。
開花亭さんを出て、旧東海道(県道370号線)に戻りつつ、

関東地方ではあまり見かけない、蘇民将来のおまじないを飾っている家をみかける。富士川を渡ったあたりから見かけはじめていたので、もしかすると境界は富士川なのかもね。蘇民将来の縁起物は地方によって形が色々と違う。蘇民将来の疫病除けの話は昔から知っていたんだけど、初めて実物を見たのは、確か、三重県の伊勢の漁村町。
海が近い漁村の町では大抵、細ーい路地が海と垂直方向に続いている。出雲の稲佐の浜近くにもあったなぁ…こんな路地。結構好きなんだよね。
旧東海道に戻って西へ。

もうすでに由比宿自体は出ている感じ?
文政元年(1818年)創業のかまぼこ屋さん。なんと200年越えか!凄いね。。。
右の写真は、黄色いところの路地を左に曲がると、国道一号を潜って、由比の漁港に行ける。桜エビの直売所とかあって、週末はすごく混雑している。
国道一号沿いの”浜のかきあげや”さんも昔行ったことがあって、桜エビが美味だった。車で行くと入りやすいよ。

桜エビに歓迎されて、由比駅を左に見ながら通過。由比駅は由比宿の西のはずれにある。電車で来ると、広重美術館とかは結構遠いのでご注意。
薩埵峠へ
更に進んでいく。

上の右の写真で軽自動車が登って行っている道が旧東海道&薩埵峠の入り口。ちょっとわかりにくい。左の太い道は自動車専用道路で、戸惑った。交通誘導員のおじさんがいたので、聞いて確認。どうもありがとう。

ここから上り坂。登って登って…
あら、こんなところに宗像神社があるのね。残念だけど、あまり時間がないので今回はパス。


ちょっと道が高いところを通っているのは、津波の被害が多かったから。なるほど。蒲原から由比にかけて、すぐ海で標高が低いからさもありなん。

ちょっと変わった時計があったりする。

ん?また秋葉山?このあたりもまだ三尺坊のテリトリー?

この辺、信楽焼の狸さんがいらっしゃる家が多い。
江戸時代の旅人も、このかわいらしいお姿を見てほっこりしていたのか…と思いきや。
このぶら歩きを敢行した週の、”チコちゃんに叱られる”で、タイミングよくこの話題が取り上げられていた。こういう偶然、私はよくあるんだよね…どうやら世の中のダイナミクスと私の行動はシンクロしているらしい(相変わらずモデリングは盛り上がらないけどねw)…、で、この置物が流行ったのは、なんと!昭和、それも戦後以降だとのこと。この像自体、できたのは20世紀に入ってからだし、この愛らしいちょっとおまぬけな造形になったのも昭和の時代。理由は昭和天皇がタヌキを好きだったから、だってさ。
ちなみにこの「信楽たぬきの八相縁起”の右横のカエル様の陶器もよく見かけるよね。こっちは昭和50年以降(私もう小学生じゃん!)に、昭和天皇の皇后の香淳皇后さまがカエルが好きだという事で流行ったんだとか。。。
いやぁ、ぱっと見日本の伝統?的な物事はよく見かけるけど、案外、実は、つい最近始まっただけだった、ってこと、よくあるんで、気をつけないとね。

多分、由比PA付近。だんだん峠道っぽくなってきた。
そして青空すら見えてきた。さっきの雨模様は何だったんだ?
まぁ、私、一応晴れ男系なので。
そして、なんと!あらかじめ準備して、頼りにしていた地図が無いことに気づく。あ~、脇にはさんで歩いているうちにずり落ちたか…
一瞬戻って探そうかとも思ったが、いつまた雨が降ってくるかわからないので、涙ながらに振り切る。
もし、由比駅を過ぎたあたりでクリアフォルダーに入った10枚近くの地図を見つけた方がいらっしゃったら、別にいいんで、捨てていただいて構いません。基本使い捨てなので。

八阪神社と、鞍佐里神社の参道があったが、階段上るの辛いわぁ…という事で今回は断念。鞍佐里神社という変わった名前だなぁ…と思って、今調べると、なんと!日本武尊の”野火の難”の伝承地!あー行けばよかった。次に由比に桜エビを食べに来るときに行ってみることにする。行けた暁には、この記事を更新するね。
んでもって、記事書いてて気が付いたんだけど、ふつう”やさか神社”は”八坂神社”と書くけど、この神社は”八阪”。なぜ?と思ってこちらも調べてみると、地名の「八阪」にちなむ神社名なんだとさ。へー。
ちなみに、鞍佐里は、”くらさり”と読むらしい。こちらも付近の地名らしいよ。
ちょっと進むと、

また鞍佐里神社の参道が。一応御由緒書きはあったんだけど、全く読めなかった。せっかく日本武尊の野火の難にちなむなら、清水町さん新しくした方が良いかと。

わざわざ、お休みどころ系が用意されているとは。
薩埵峠は難敵なのか?

鹿の角?!古いポスト!いいねぇ。。。

こちらで明治天皇が小休止したらしい。明治元年は、徳川幕府が滅んで天皇東遷した時ですかね。
薩埵峠は、枇杷を栽培しているところが多い。この枇杷の由来は九州なのね。へー。
登り坂がどんどん急になっていく(涙)。

しばらく上がっていくと一里塚跡。江戸から40番目の一里塚だって。
そして一里塚の左横には、歴史案内板。
ほぅ、今度は足利尊氏と足利直義の兄弟喧嘩の合戦上ですか。いやぁ…、三嶋から西は、万葉の歌人から、古代の武人、平安末期からの武士たちと有名人の史跡オンパレードだね。
それにしても、足利尊氏は「弟が幸せになるなら自分は何もいらん」的な願文を神社に奉納していたのに、なんで敵対しちゃったかね。。。
今度は江戸末期の山岡鉄舟ですか。

え?”薩埵峠の東登り口”?
マジか、まだ上り口なのね。
登って登って、
おー、ミカン畑でよく見かける奴。

乗ってみてぇ…

駿河湾?の景色を堪能しながら登っていく。晴れてきたぜ!ラッキー!
そういえば、四国で四万十川筋から大歩危小歩危に抜ける400番台国道って、こんな酷道だったなぁ…車一台ぐらいの道幅で、両側にガードレールもないS字カーブが続く恐ろしい道だった。ここより酷いかもね。ありがたいことに対向車が一台もいなかったので良かったけどね。あ、奈良の大仏の左横から、柳生の庄を通って三重に抜けていく道も酷かったぁ…あの時は日もとっぷり暮れて大変だったよ。こちらもありがたいことに対向車はなかったけど、多分地元の方だと思うけど、二台ほど後ろからやってきて追い抜いて行った。すげースピードだった。命知らずー。
更に登っていくと、

左手に国道一号と東名高速が見下ろせる見晴らしの良い場所に差し掛かる。どちらも何回も車で走っているけれど、陸側にこんな峠道があるなんてのは全く知らなかったよ。

由比から4.6㎞ぐらいらしい。興津宿までは、4.3㎞ぐらいか。案外近いね。この辺りが、薩埵峠の最高到達地点あたり。

足利兄弟だけでなく、今川氏真がらみの戦いもあったようだ。
多分、東西に移動するにはこの峠しかなかったんだろうけど、昔の武者は、重い鎧と武具で、舗装もされていない山道を移動してたもんだね。
先に布陣した側が多分勝つね。
え?どうせしばらく待ってれば兵糧が尽きて下に下ってくるから下で富士してればいいじゃない、だって?
いやいやぁ、下ってきた勢いでぶつかられたら下にいた側が負けるから、かなり離れたところに陣を敷かなければならないはず。まぁ、現代戦も含め、戦ってのはやらない方がまし。でも戦争が無くならないという人間族の愚かさよ。
え?「これは戦争ではなく軍事作戦でござる」だと?それ、屁理屈だから。

ここまでは反対側から自動車で来れるらしい。あ、今登ってきた道も車で来れないこともないね。自転車の人達は多分余裕だと思うので、是非どうぞ。
興津宿へ
ここからは一気に降る。どうやら見晴らし場の奥にも道があって、そちらを行くと景色の良い海岸線の道に出たらしい。しかし地図を無くしてしまったので、この時点では分からず、写真の右手にあった舗装された道を行った。海岸線が中道、今回選んだ道を上道というらしい。機会があれば(ないかな)、中道も歩いてみたいものだ。
上道は舗装された道。

おっきなカブトムシが二匹壁に泊まっている建物や、由緒は全くない日本武尊の史跡(野火の難か?)があったり、リフトとかロープウェイ的な設備があったりと…ずんずん降る。

漸く、薩埵峠が終わる。


本来の旧東海道はそっちかもなんだけど、東名高速の陸橋は潜らずに、右手の道を進む。

そして興津川を渡る。



ここが身延路への分岐点(だと思ってた)。

記事を書いている時点で翻って思うに、どうやら、旧東海道は先程の東名高速の陸橋を潜っていくべきだったようで、実際に歩いた道は、旧東海道で、もっと南で分岐する身延道を歩いていたようだ。まぁいいか。

東名高速にぶち当たったところに桜の解説が。
この辺りの桜はアメリカのワシントンの桜と同期生なんだってさ。へー。

このたぬきさん、右上が欠けちゃっている。そのせいか、ちょっと困った顔しているように見える。

何のマークだろう?
と、十二祖神社の前にさしかかる。

変わった名前の神社だなと思い、御由緒を見ると、天神七代(天祖)、地神五代(皇祖)を祀った神社なんだって。こういう形式で祀っている神社には初めて会った。
地神五代は記紀で同じなんだけど、天神七代は、記紀で神様、現れた順番が違うので、ここに書かれたのはどのバージョン?が気になって、手元の日本書紀(講談社学術文庫版)と古事記(岩波文庫版)で調べてみた。さすがに覚えてないもので。
え?「そんな本なんで持ってるの?」ですか?え?逆にみんな持ってないの?と返すことにする(笑)。
しかし、この石碑に書かれた順番とぴったり合う記述が見つけられなかった。
ちなみに古事記の場合、
天之御中主神
高皇産霊神
神産霊神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
に続いて、
国之常立神
豊雲野神
宇比地邇神
妹須比智邇神
角杙神
妹角杙神
意富斗能地神
妹大斗乃辨神
於母陀流神
妹阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神
妹伊邪那美神
と続く。日本書紀の場合、”一書に曰く”と沢山並列で紹介されていたりするが、これぐらいにしておこう。
う~む。この七代はどこから来たのかね。
さらには、なぜ、こういう形式で、この辺りの土地の皆さんがお祀りしようとしたのか、その理由がとても気になる。

踏切を渡ってさらに南へ進む。

へ~。キッコーマン…と思って眺めていたが、よくよく見ると、”亀甲藤”でした。

あれまた身延路の道標?と思って歩いてたんだけど、要するに途中から身延路に入ってそこを歩いてきて、ようやく旧東海道に戻ったってことらしい。
ゴール!
雨が降り出さないうちにゴール。

興津宿の地名の由来が、九州の「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。。。なんと!
由比の方に宗像神社があったけど、薩埵峠の向こうだから違うね。今回のぶら歩きでは遭遇していないけど、近くにあるに違いない。中道のほうか?
興津宮だから、御祭神は、田心姫神(たごりひめのかみ)。本家の宗像神社では、沖津宮(沖ノ島)と漢字が異なる。
加えておくと、江の島には、奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめ)という名前で同じ女神様が祀られている。
さらに付け加えておくと、宗像神社は、三人姉妹の女神様が祀られている。興津(沖津、奥津)に祀られた田心姫が長女、次女が、湍津姫神(たぎつひめ)で(中津宮:大島)、三女が、市杵島姫神(いちきしまひめ:本土)。
あら?調べてみたら、江の島は、次女三女が入れ替わっているように見える。
奥津宮
多紀理比賣命(田心姫神)
中津宮
市寸島比賣命(湍津姫神)
辺津宮
田寸津比賣命(市杵島姫神)
さらに、ちなみになんだけど、安芸の宮島の厳島神社の御祭神は、完全に宗像神社と一致しているんだってさ。

この公園にはもう一枚看板がある。
知ってた?”全米桜の女王”って方がいらっしゃること!

昔は興津町という町名で、清水市と合併して、今は清水市ってことなんですね、このあたり。平成の時代、市町村はどんどん合併したわけだけど、順序は逆かもしれないが、それのせいで、過疎化、少子化が加速しているような気がする。
地名については…まぁ、所説あるってことね。

実際に歩いた行程は以下の通り。
距離 8.1㎞
標高
最大 100m
最小 8m
累積標高
登り 173m
降り 184m
う~む。。。かなり登ったような気がするけど、最大標高はたったの100mですかぁ…
これからチャレンジする箱根越え(800m越え)は、やはり大変そうだ。
最後に
ということで、一泊二日で、
と歩いた次第。いかがだったでしょうか。
本当は江尻宿まで制覇したかったんだけどね。
それはまた別のお話という事で。
