役職なんて、ただの記号「社長」と呼ばれることに抱いていた違和感の正体
私が創業してから今まで、一貫してスタッフたちに「社長」と呼ばせていない。もちろん名刺には書いてあるし、外部とのやり取りで使わざるを得ない場面もある。ただ、社内においては名前で「鍵谷さん」と呼んでもらっている。これは私の中で、ずっと譲れない感覚だった。
なぜか?
それは、役職という肩書きが、人の目や行動を曇らせると感じていたからだ。
「社長」と呼ばれることの功罪
世の中には、役職で人を判断する風潮がある。社長と呼べば敬意を表しているように見えるし、呼ばれる側もなんだか誇らしくなってしまう。でも、私はそこに違和感を持っていた。
ただ、相手がリスペクトされるに値する人格を持っていれば、自然と「社長」という呼び名がしっくりくることもある。
だが問題は、呼び名ではなく、その呼び名が与える“錯覚”にある。
「自分は偉い」と錯覚しないために
私自身、会社を成長させ、多くのスタッフと共にここまで来た。ただ、それが偉いわけではない。たまたま会社を立ち上げたのが、私であっただけのこと。社長と呼ばれて、どこかで“持ち上げられている”ように感じるのが嫌だった。
自分の立場を、周囲が無意識に「すごい人」として扱い始める。それに酔ってしまったら最後。もう、自分の本質や現実が見えなくなる。
私は、自分を常にフラットに保ちたかった。偉くなったわけじゃない。ただ、役割が違うだけだと。
役職に囚われると、判断が歪む
役職に囚われた人は、「課長だから」「部長だから」「社長だから」と、言動に責任ではなく“権威”を持ち込むようになる。
これは非常に危険だ。
人は立場に酔いやすい。しかもその酔いは、本人が最も気づきにくい。気づいた頃には、周囲の信頼を失っているかもしれない。だから私は、名前で呼ばれたいと思った。
あなたは、役職で動いていませんか?
このnoteを読んでくださっているあなたにも問いかけたい。
あなたは「役職の自分」で物事を考えていませんか?
・上司だから偉い
・社長だから判断が正しい
・部下だから従うべき
そう思い込んでしまうと、見える世界が狭くなる。役職なんて、記号にすぎない。必要なのは“その人がどう在るか”だと、私は思う。
結局、「人としてどう在るか」がすべて
肩書きが取れても、信頼される人間でありたい。むしろ、肩書きが無くなったときこそ、その人の本質が見える。
私が「社長」と呼ばれることを避けるのは、その肩書きに寄りかからず、人としてのあり方を磨き続けたいからだ。そして、スタッフたちにもそう在ってほしいと願っている。
役職に縛られず、常にフラットな関係性で、お互いにリスペクトを持って接する。その文化こそが、Real Styleの根っこであり、私が一番大切にしていることだ。
まとめ
名前で呼ぶというのは、フラットな関係の象徴だ。
社長であれ、パートさんであれ、リーダーであれ、「人としてどう在るか」にこそ意味がある。私たちは、その本質を見失わないようにしたい。
あなたは今、どの肩書きで動いていますか?
そして、その肩書きがなくなったとき、どんな自分が残るでしょうか?
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