「ほんとの空」と鬼婆の伝説に出会う山 ──安達太良山を歩いて
「ここが、智恵子が言ってた“ほんとの空”かぁ…」
そう呟いたのは夫。
私たちは今、福島県中部にそびえる
霊峰・安達太良山(あだたらやま)に立っている。
高村光太郎の詩集『智恵子抄』に登場する妻・智恵子が
「東京には空が無い」
と嘆き、「ほんとの空」があると語ったその場所。
実はここが、彼女の故郷であり
──心の拠りどころでもあったのだそう。
神と鬼が棲む山、安達太良
標高1700メートルに満たないこの山は、決して高くはない
けれど、四季折々に表情を変える美しい姿が魅力。
古くは「安達太郎」という山の神の名に由来し、
信仰の対象として大切にされてきたそうです。
「でもさ、神様だけじゃなくて“鬼”も住んでたって
話があるんだよね」
夫がスマホを見ながら教えてくれたのが、
「安達ヶ原の鬼婆(おにばば)」の伝承。
その昔この地に暮らしていた老婆が、病に苦しむ
娘を救うため、旅人の肝を求めて殺生を
繰り返していたという話。
けれどある日、殺めた女性が実の娘だと知り、
絶望して命を絶ったというなんとも哀しい物語です。
鬼婆の住処とされる「黒塚」には、今も石碑が立ち、案内板には
『鬼婆が棲んだ岩屋』の文字が。
「こわいけど…どこか人間らしくて切ないね」
思わずそう呟いてしまいました。
登山道には、鳥のさえずりと小川のせせらぎ。

私たちが訪れたのは5月初旬、山開き間近のあだたら高原。
新緑の中を歩く登山道は清々しく、鳥のさえずりや
小川のせせらぎが、まるで自然のBGMのように響きます。
途中、すれ違った登山客が地元のガイドさんに
「この山って妖怪が出るって本当ですか?」
と尋ねている場面も。
霧の日に登山者を迷わせる“化けもの”の噂は、今も
この山に息づいているという。
「こういう伝説が、山の魅力を深くしてるよね」
そう話しながら、ふたりで小休憩。
持ってきたおにぎりを頬張ると、空気の清らかさで
味まで違って感じるのが不思議だ。
神と鬼の里で、湯に癒される

下山後は岳温泉へ。
やや白濁した湯には鉄分が含まれ、ほのかな金属の香りが鼻腔をくすぐる。
疲れた足を浸した瞬間
「ああ…生き返る〜」
と夫。
わかる、それ。
宿の女将さんがふと話してくれたのが印象的だった。
「この辺りってね、昔から神さまと鬼が一緒に暮らしてた場所なんですよ」
それって、善と悪、光と影が共存するってことなのかも。
自然も、人も、そんなに単純じゃない。
そうした深みが、この山全体に静かに漂っているように感じがした。
あとがき:「ほんとの空」を見た日

詩人が愛した「ほんとの空」。
その青さと広がり、そして足元に眠る伝説の重み。
安達太良山は、自然と文化、歴史がひとつに溶け合う
特別な場所でした。
あなたもぜひ、智恵子が見た景色と、鬼婆の伝説に
出会いに行ってみてください。
きっと、心に残る“物語”が見つかるはずです。
「次はどこ行こうか?今度は、海の伝説とかもいいね」
そんな会話をしながら、帰りの車窓に流れる
ほんとの空を、私たちは静かに見つめていました。
