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ああ、これは呪いだったのね

【あらすじ】
 大学生の野口絃(いと)は、同郷の友人と下劣な恋愛の話を報告し合う「定例報告会」に参加していた。
 その安居酒屋の喫煙所で、太陽のように美しい男・松田新(あらた)と出会う。鯖のライターをきっかけに始まった、名前も知らない二人の会話。その中で、絃は新の違和感に気付く。
 ーー彼は太陽ではなく、月なのではないか。
 どこか影を引きずっているような新が気になり、二人は約束を交わす。
「一週間後、この店の前で」
 連絡先も名前も知らない、アナログすぎる約束。彼が本当に現れる確証はない。それでも、カレンダーに頼らずとも心に刻まれてしまった約束の時間が近づく。期待しないと自分に言い聞かせながら、絃は再びあの小汚い居酒屋に向かう。



『アロマンティック』


プロローグ

 
 太陽の影に気付いた一年前の夏。私はそれを、放っておけなかった。

 太陽は自ら光を放つ恒星という天体であるが、月はその能力を持たない。太陽の光を反射して柔らかく輝き、私達の目に届いているのだ。光っているように見えた月の裏側は静寂と闇に包まれており、このような惑星は光と影の二面性を併せ持っている。

 そうであるならば、太陽のように見えた彼も、実のところはただの美しい月だったのかもしれない。

第一章 定例報告会 


 私は同郷の友人と月に一回程の頻度で「定例報告会」というものを開く。

 名前だけ聞けば大層なものに思えるが、その実態は大抵恋愛の話に終始していて、各々が近況を報告し、それに遠慮のない批評をぶつけ合い、必要とあらば今後の作戦まで練るという、ある種の共同戦線のようなものだった。

 大学生というのは結局のところ、中学や高校の頃の友人に回帰していくもので、どれだけ新しい環境に身を置いたとしても、無意識のうちに自分の輪郭を知っている人間の元へと戻ってきてしまう。ひよこが最初に見た動く物体を母親だと認識してしまうように、絶大的な安心感を置いてしまうこの場所では、普段なら言葉にすることをためらうような下劣な言葉も、抵抗なく口に出すことが出来る。一応公共の場ではあるから、直接的な表現は避けて遠回しな表現や隠語を駆使しながら、事の流れを明確に伝える。この時にこそ、その人が持ちうる全ての語彙力が試されると、私は常々思う。

 一方で、私の通う綺麗な大学の綺麗なキャンパスでは、こんな話は成立しない。

 私にとって、大学の友人は少しクリーンすぎるのだ。

 トイレに嘔吐禁止令と世界一周旅行の紙が貼られた小汚い安居酒屋で、他の客が言い争うのを眺めながら、素手でポテトフライをつまむのではなく、シャレついたカフェの革製のソファに座って、ローテーブルに身を屈めながら、ミニチュアのようなスプーンを使ってエスプレッソを器用に啜る。

 これが至極退屈な訳ではなく、その人達を汚すほど私はまだ腐っていないのだと思いたい。

 逆に、大学の友人からは綺麗な恋物語を摂取したい。

 私もいつか、綺麗な恋が出来るように。


 汚い私達が向かう居酒屋は決まっている。

 安い、早い、下世話な話が出来る。この三つが揃った店。

 そこでいつものように定例会が始まった。

 金欠な私達の救世主であるこの店には、下品な飲み方をする人間で溢れている。下品な言葉と下品なコール。しかし、この乱れた雰囲気が我々にとっては丁度よく、多少の汚い発言もこの空間が許してくれるのだった。

 前回の話を振り返り、そして現状を報告する。

 三、四人もいれば大抵誰か一人くらいは爆弾を抱えているものだ。義務教育から解放された大学生は、若さという理由だけを握りしめ、夜の世界を暴れ回り、醜く、汚らわしく酔いしれ、そして人を傷つけ、慰め合っていく。きっといつか、この歴史を黒く塗りつぶすか、武勇伝とするか、その二択なのだろう。

 もっとも、たとえそれが無かったとしても、私達は話に汚れた花を咲かせ、幾らでも夜を延ばすことが出来た。
 
 女子という生き物は、そういう風に出来ている。話題が尽きることなく、最終的には近くの公園かあるいは誰かの家に向かい、とうとう話し疲れて眠りに就く。

 結論や正解は出なくていい。ただ言葉にして、自分が出来ない代わりに笑って、怒ってもらって、それを消化したいだけなのだ。

 会の序盤に友人の一人が近くの卓を横目に見ていた。

「あそこの席、合コンかな」

 全員がその卓に視線を向ける。

「いいなー、やってみたい」

「見て。あの真ん中にいる男、イケメンじゃね?」

「え、どれどれ」

「はいはい、まあ、分からなくはない」

「ガールズたち、絶対あのイケメン狙いでしょ」

「あれは多分、陰キャ陽キャ関係なく話しかけてくるタイプの陽キャだな」

「うわ、無差別テロリストだ」

 女達の軽口は止まることを知らない。

 基本的には一切周囲に目を向けず、ラッパーのごとく話し続ける彼女達でさえ気付いたのだ。私もあの卓の存在には気付いていた。

 その中心にいる男性には、違和感という名のオーラがあった。男というより漢のような、がっしりとした体格。けれど、むさ苦しさよりも先に、洗剤のコマーシャルのような爽やかさを感じさせる。黒髪の隙間から覗くきりっとした眉毛に、綺麗な二重。

 彼には、どこかしらの俳優かアイドルだと言われてもおかしくないくらいに、均整のとれた美しさがあった。

 彼のいる卓と私達のいる卓の間にはパーテーションがあって、それが一生交わることのない境界線が引かれているようだった。彼と話せなくても、ただ同じ机を囲めるだけで、それはもう女性にとってはご褒美なのだろうと思う。

 しかし私の持論では、イケメンの話は大抵つまらない。

 イケメンは話さなくてもモテてきたからだ。お調子者の陰に隠れて教室の片隅でじっと獲物を狙い、そして気付けば一番綺麗なものだけを掻っ攫っていく。努力しなくても選ばれてきた人間は、話術の訓練をしてきていないので、困ったら顔を見せておけばいいと思っている。

 持論というよりも、選ばれない側の偏見だということは分かっているが、この境界線の外にいる私は、そう思わずにはいられなかった。

 私は顔だけで人を好きになれるほど、もう子供ではない。かといって、中身で人を好きになれるほど、大人でもない。いっそのこと、誰かを好きになること自体を諦めてしまいたいのだが、そうすると誰一人愛せない化物が誕生してしまう。

 以前、無性愛というセクシャルについて検索したことがある。その特徴ともいえる項目に、私はチェックを付けられなかった。私は、人を愛せない私を愛せない。だから、自分を愛するために、私はそっとサイトを閉じ、検索アプリごと上にスワイプした。

 諦めて認めてしまえば楽になれるのかもしれないが、きっと自分の根底にある孤独は埋まらないのだと思う。なぜなら、孤独は誰かに埋めてもらうものではなく、誰かを愛することでしか埋まらないのだから。

 そんなことを考えながらも会は進行してゆく。彼氏が出来たり、別れたり、好き同士なのに付き合えなかったり、バイト先の誰かが不倫をしていたり、碌な話でないほどお酒は進むものだ。

 そして何より、お酒が進むと煙草も進む。しかし、こういったチェーン店は全席禁煙で、喫煙所が別で設けられていることが多い。というより、外に追いやられている、と言った方が正しいのかもしれない。実際、その安さからか子供連れの姿も見かけるこの店にはかなりお世話になっているので、席で吸えないことも甘んじて受け入れている。

 私は煙草を手に取り、外にある喫煙所へ向かった。少しよろめきそうな体を、残された少しの理性で真っ直ぐに戻す。

 店の扉を開けると、店内の熱気から解放され、外が涼しく感じられた。もう夏が終わり始めているようで、少し寂しくなった。

 暑い季節は嫌いだが、その暑さが寂しさを誤魔化してくれているようで、どうしても嫌いになりきれない。冬になると、人が温かい記憶を残したがるのは、きっと寒さが人を孤独にするからだ。色恋沙汰が美しく映えるのは、いつも寒い季節だったような気がする。

 今年の冬が少しでも暖かくありますように、と願いながら、外の気温が酔いを覚ましていくのを感じていた。

 この店の喫煙所は外に灰皿が置いてあるだけの簡素なものだが、今日は珍しくその横に先客がいた。知らない人と煙草を吸う時間は少し気まずいので、あまり公共の喫煙所は使いたくないのだが、お酒が入るともうどうしようもない。

 なるべく相手の顔は見ないようにして灰皿の横に立つ。

 そこで私は、なんとなく察してしまった。
 
 もしや、と思いながら眼球だけをぐいっと横にずらして、そのまま下から上に相手の体を登っていかせる。

 すると、それはやはり、あの合コンの席にいた男だった。

 さて、イケメンに対してかなり反抗的な持論を展開していた私であったが、その前で平然としていられるほどイケメンというものには慣れていない。

 こんな東京の隅にイケメンなど存在するはずがないからだ。動揺を抑えながらも煙草を口にくわえ、ライターをつけようとする。

 しかし、どういうことだろう。なかなかライターに火が付かない。

 店内の騒音がここで役に立たず、カチ、カチ、という乾いた音だけがやけに響く。お気に入りだったのに、とうとうここで寿命が来たらしい。よりにもよって、このタイミング。

 恥ずかしさを押し殺しながら手こずっていると、私の前に一本の手が伸びてきた。

「火、使います?」

 綺麗な顔がこちらを向いていた。

 柔らかく微笑む顔と目が合い、その優しさに胸を押されて息が出来なくなる。やはりこの人は、困っている人を見過ごせない太陽属性の人間なのだろう。教室にいたらきっと誰しも一度は彼を好きになっていたんだろうな、と
勝手に想像する。

「あ、すみません…。ありがとうございます」

 手の震えを抑えるので必死だった。ジッポライターなぞ使ったことがないので受け取るか困っていると、彼はそれを貸すのではなく火の灯る自分の手元を私の顔に寄せた。

「…ありがとうございます。助かりました」

「いえいえ」

 ああ、恥ずかしい。人から貰った火で吸う煙草は、いつもより重く肺に圧し掛かる。

 携帯を見る余裕もなく、ただ二人で目の前の暗い路地に向かって煙を吐いていると、隣にいる綺麗な人が今、汚い煙を吸っていることに気付いて、なんだか切なくなった。

 なんというか、上品な浴衣が着崩れてしまっているようで、そしてその浴衣をもう正すことは出来ないのだと悟らせるような絶望感。

 彼に、セブンスターは似合わない。

「ライター、それ何ですか?」

 終わったはずの二人の会話がまた動き始めた。

「え?ライター?」

「はい。それ、気になっちゃって」

「あ、これ?鯖です」

「サバ?なにそれ」

 少し笑いながら彼が手を差し出してきたので、私はそれに応じてライターを手渡した。

 その時、自然に彼と、手が触れた。

 ――危ない。

 私はこの人に対して常に防衛態勢を取るべきだ。

 聡明で少し臆病な女性であればきっと理解できるはずなのだが、気を許していない男性には、いつもより少しだけ素っ気ない態度をとってしまうことがある。いつも明るく振る舞う人ほどその境界線は明白で、ふとした瞬間にそれが不自然に冷たく見えることがある。男性にあまり慣れていないということなのかもしれないが、きっとそれは相手に勘違いされたくないという傲慢な選別によるものではなく、むしろ同性から向けられる嫌悪の目線を何よりも恐れているからなのだと思う。

 しかし、今の私はこんなに聡明ではなく、ただ油断をするときっとこの人に転がり落ちてしまうという単純な危険を感じたのだ。

「ほんとに鯖だ」

 まるでおもちゃを手にした子供のように、ライターを見つめて無邪気に笑っている。

「お寿司のライターがあって、鯖にしたんです。結構お気に入りだったのに」

「鯖が一番好きなんですか。渋いですね、お姉さん」

 私のライターは、鯖のお寿司がプリントされているドンキで買った安物だ。こんなものより、彼の持っているジッポライターの方が何倍も渋いはずである。

 いや、そんなことはどうでもよくて、彼は私を“お姉さん”と呼んだのだ。普段そんな呼ばれ方をされることなんてないので、無駄に目が泳いでしまった。きっと私より年上なはずなのに。いや、年上だからなのかもしれない。年上は年下のように、年下は年上のように扱うのが良いと聞く。現に少し気分が良い。

 余裕のある話し方をする人で、距離の取り方が柔らかく、そしてそれが少しだけ悔しかった。

「いつも好きだってこと忘れちゃうんです。それくらい好きかな」

「あはは、面白いこと言いますね」

 彼は煙を吐きながら、ゆっくりと微笑んだ。目尻に出来た皺が、わずかに警戒心をほどいてゆく。

「好きな食べ物を聞かれて、すぐに出てこないことがあります」

「あー、あるあるですね」

「でも、忘れたってことは、好きじゃなかったってことじゃなくて、好きがずっとあるってことだと思うんですよ」

「…なるほど」

「普通に、忘れちゃった自分に甘いだけなのかもしれないですけど」

 彼は頷いて、煙を空に逃がした。

「俺も、好きなもの聞かれた時は、大体寿司とかラーメンって言ってたけど、普通に生きてて好きだなーって思うのは…、天津飯かな」

「…天津飯は、ちょっと怖いかな」

「え、怖い?」

「好きな食べ物で天津飯って言われると、なんかこだわり強そうだし、町中華連れてかれそうだし」

「マジか」

 迫害を受け、店から半ば追い出された喫煙者達は、名前を知らずとも会話が出来る。

 しかし、煙草に関する話は大抵くだらない。始めたきっかけも銘柄の偏見も、そして喫煙所での会話も。これがまた、私にとっては可笑しくて愛おしいのだ。

 なぜ煙草を吸うのかと聞かれると、少し困ってしまう。特に理由もないのだけれど、ちょっとだけ臭いことを言うのなら、ただ私達は誰にも気付かれないようにため息をつきたい。

 そのために、この煙で誤魔化しているのかもしれない。

「お兄さんは合コンですか?」

「いや、まあそんな感じなのかな。サークルの友達というか、後輩というか。お姉さんも大学生?」

「はい、二年生です」

「あれ、一個下なんだ」

「なので、お姉さんじゃないですね」

「ごめんごめん。でもお姉さんに見えたから」

 互いに酔っているはずなのに、どこか会話の熱が冷めている。外に出て体温が急に下がったせいなのか、それとも単純に初対面だからなのか。

 中途半端に会話をしてしまった折、何か話していないとなんだか気まずい。どうしようもないので、少しの沈黙を破って話し出した。

「楽しいですか、合コン。私やったことなくて」

「んー、分かんない。外にいるってことは、楽しくないのかもね」

「外に出たって楽しくはなりませんよ」

「いや、そうなんだけどさ。でも、鯖のライター持ってる子がいたからね。楽しくなったよ。ありがと」

「なら良かったのかな。火、付かないけど」

 一旦煙を吐きだして、違和感に気づく。

 楽しくない、と彼は言った。それがやけに引っ掛かって、私は少し試すように言う。

「でも、戻って楽しくなくなるなら、逃げ出しちゃえばいいのに」

 分かっていた。この人は必ず席に戻ること、逃げ出すようなことはきっと出来ない人だということが。

 何も知らない人だけど、何となく察しがついた。分かっていたのに意地悪なことを言ってしまった。

 彼がきっと、ここにため息をつきに来ていると思ったから。

 明るい場所にいるのにどこか影を引きずっているようで、光の中に闇を感じさせるような彼のことが少しだけ気になって、砂時計のようなこの煙草の火が、落ちなければいいのにと思った。

「良いこと言うね。でも、楽しくないってのは、ちょっと言い過ぎたのかな」

 私はやっぱり、と思って軽く笑う。

 太陽から漏れた諦めの言葉。私も、合コンにいる人間をも否定しない、否定できない彼を哀れに思った。女の子になんてきっと困らないはずなのに、こんな場所に来ている彼が不思議で堪らなかった。

「みんながせっかく誘ってくれたからね」

 きっと彼は優しすぎるのかもしれない。波を立てるより、調和を選ぶ方の人間。そのルックスなのだから、もっと傲慢に生きたらいいのに。

 私はこの時、もう二度と会うことはない人なのだから、放っておけばよかった。

 しかし、もう会わないのだから、何を言ってもいいと思ってしまった。

「私も、ちょっと話しただけですけど、楽しかったです」

 彼が灰を落として、こちらを向く。

「でも私は、席に戻っても楽しいままですよ。友達と今から下品な話をするので。下品な話って好きですか?楽しいですよ、すごく。私今からしましょうか?あなたが席に戻っても楽しいままでいられるように」

 急き立てるように私は言った。

 優しい彼はきっとどこかで人間関係をサービスだと思っている。サービス業なのだ、と諦めている。

 美しく生まれたことによる不自由という弊害。我慢できない程では無いのだろうけれど、靴の中に小石が入っているような、服のタグが首に当たっているような、そんな日々を送っているのかもしれない。

 顎を少し上げて彼の顔を見ると、彼は少し驚いたような顔をして笑っていた。

「あはは、やっぱり鯖を選ぶ子は違うね。それって励ましてくれてるの?」

「いや、そんなんじゃないです。ただ下品な話が好きなだけですよ」

「なーんだ。でも、ありがとね。下品な話は嫌いではないけど、君の下品な話は聞きたくないかな」

 出過ぎた真似をしてしまった、と少し後悔した。

「そっか、そうですよね。初めて会った人のそんな話なんて聞きたくないか」

「いや、君のを聞いたらさ、悲しくなっちゃいそうだと思って」

「え?」

 彼は、自分で吐いた煙を見上げながら言った。

「んー、なんだろう。君は面白い子だから、もっと知ってみたくなった、のかな」
 
 私の鼓動は、彼の耳に届いているのだろうか。

 少なくとも、彼の心臓の音はこちらまで響いてきていないので、軽く言ったつもりなのだろう。

 そして彼は、気付いたように笑う。

「あ、でも矛盾してるか」
 
 煙草の火は、すぐ指先に届きそうなところまで迫っていた。外は涼しいはずだったのに顔だけが妙に熱を帯びている。

 口車に乗せられてはいけないことくらい分かっていたのに、それでも太陽のような彼に隠れたその影の部分を見てみたくなってしまった。

「やっぱりイケメンは怖いな。簡単にそういうこと言う」

「お、嬉しいこと言ってくれるね」

 軽く弾んだその声が、やけに近く感じる。外まで漏れていた店内の騒音も気付けば遠くにいた気がする。

 変に汗をかいた。煙草を灰皿に押し付けて店内に逃げ帰ろうとしたが、火が消えるのと同時にこの時間も終わってしまう気がして、ほんの少しだけ名残惜しい。

 私を知りたいと言ったこの人を、私だって知りたかった。でも、初対面の人に連絡先を聞いてしまうほど私は寂しい人間ではなく、そして強い私ではなかった。

「あのさ、俺って楽しくなさそうだった?」

 彼の言葉が、店に戻ろうとする私の肩をたたく。

「んー、なんというか、女の子に囲まれて楽しそうだなーって思ってたのに、案外そうでもなさそうでしたね」

 本音に少し意地悪を混ぜて返すと、彼は短く笑った。

「そっか」

「あ、火ありがとうございました」

 もう切り上げなければ、と思ったのに、すぐ彼が言った。

「じゃあさ、今度、俺に楽しい話聞かせてくれないかな」

 今度、とは具体的な日にちを指しているのか、はたまた社交辞令のような永遠に訪れることのない日を指しているのだろうか。

 この判断を委ねられてしまったようで、私は答えに詰まってしまった。しかし、直球で連絡先を聞くという近道を使わなかった天津飯好きの彼は、おそらく前者のことを指していると、賭けてみることにした。

「…じゃあ」

「うん」

「来週の同じ時間って空いてますか?」

「来週?多分、空いてるけど」

「その今度は、その日にしましょう。この店の前で待ってて下さい」

「おっけ。分かった」

「じゃあ、また来週」

 去ろうとする私の背中に彼が声をかける。

「君が来なくても、俺はちゃんとここで待ってるから」

 

 名前も知らない私達は、連絡先を交換しなかった。

 また会える自信があったのかと聞かれるとそうでもない。ただ、この世界で出会った彼を、この世界の中だけで知りたかった。

 私の知っているあなたは、私の目の前にいるあなただけでいい。そう思った。

 次に会えたらまず、名前を聞こう。連絡先を聞いて名前を知るのではなく、彼の声で名前を知りたい。

 ねえ、あなたはどんな話をするのかな。どんなことが楽しくて、どんなことがつまらないと言うのかな。全部、次に会えた時に答えてもらおう。

 「君が来なくても」とあなたは言ったけど、私があなたを忘れる訳はないよ。この一週間であなたの声や形は残像のように揺らいでゆくけれど、カレンダーに入れなくてもきっと覚えておける。

 だって、あなたのどこか悲しそうなその笑顔が、今も頭に焼き付いて離れないから。

 もしあなたがここに来なくても、私はそれを嬉しいと思える。私が必要ないくらいあなたが楽しい日々を送れている証拠だから。

 ただ、私が少し悲しくなるだけ、なんだけどね。

 

 席に戻っても、私はまだ余韻に浸っていた。大好きな友人の話も入ってこないほどに、胸が高鳴っていたのだ。

 踏み入れられるはずのない彼の世界の登場人物になれた気がして、元の世界に戻るまでに少し時間がかかった。「長かったね?どうしたの?」と聞かれても、喫煙所であったことは話さなかった。友達には何でも話していたのに、今は私だけのものにしたかった。

「あー、これは次回にとっておくね」

 彼がいる席は見ずに、私は店を出た。



第二章 ブランコ


 そして、今度と言っていたその日が訪れた。

 私は正直、期待していなかった。こんなアナログな待ち合わせなんて初めてだったし、彼が来なかった時に無駄に落ち込むのが嫌だったので、期待しないようにしていた、と言った方が正しいのかもしれない。

 しかし、なんとなくあの店に足を運ぶと、私達は案外すんなりと再会することが出来た。

 
 少しの緊張感と高揚感を抑えながら店の前まで来ると、喫煙所の近くで文庫本に目を落としている眼鏡の男性がいた。数人が外で騒がしく煙草を吸っているのに、彼にはレンズ越しの活字しかまるで見えていないようだった。

 薄れていた彼の像が形を取り戻し、なんとなくこの人が彼なのだろうと分かる。準備していた「すみません」という言葉をかけると、彼は顔を上げてほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから恥ずかしそうに笑った。

「お、来てくれたんだ」

「そっちこそ」

 彼がさっと閉じたその本が、どんな本なのか気になった。

 しかし、そんなことよりも眼鏡姿の彼に目を奪われてしまった。
 
 横長の四角いフレームが整った顔立ちに静かな影を落としている。太陽にこんなものが似合うはずなんてないのに、その横顔にはどこか哀愁が漂い、そしてほんの少し退廃的な雰囲気を醸し出している。本を読む人と眼鏡をかけた人が好きな私にとって、その姿はあまりにも完成された最高のワンセットだった。

 そのまま美しく眼鏡を掛けていて欲しいという私の願いも虚しく、彼はゆっくりと眼鏡を外し、そしてそれを胸ポケットにしまった。

 店内に入ると、そこはいつも通りの下品な賑わい方を見せていた。外の静けさが嘘だったかのように、声と熱気が一気に押し寄せてくる。落ち着いて話せる店ではないことは分かっていたが、それでもここまでとは思わなかった。いつもの私達の素行をほんの少しだけ反省する。「とりあえず生2つ」という定型文を発してから、二人はカウンター席に着いた。

「本当に来てくれると思ってなかったよ」

「私も、本当にいると思ってなかったです」

「そうなの?でも、また会えちゃったね。よかった」

 眩しい笑顔に頭がぼーっとする。

 しかし、こんな運命的な出会いをも、冷めた目で見てしまうのが私という人間だ。期待して傷つくことを極度に恐れているが故に、初めから何にも期待しない、いや出来ない。

 だから私は、自分に役割を与えることにした。

 彼に楽しい話を聞かせに来た、読み聞かせ屋、漫談師、ショーマンなのだ、と自分に言い聞かせる。

 そう思っていれば、この時間と彼に、意味を待たせ過ぎなくて済む。

「気になってたんですよ。元気かなって」

「はは、ちゃんと元気だよ」

「あ、あと」

「なに?」

「私たち、名前を知りません」

「確かに、それでよく会えたね。俺が言うことじゃないけど、女の子なんだからもっと気を付けないと」

「ほんとに、あなたが言うことじゃないですよ」

 彼を見てから生ビールを持ち上げると、水滴がズボンに落ちた。

「あなた、じゃなくて」
 
 彼が何か言ったので、下に落とした目線を上に戻す。

「あなた、じゃなくて松田新です。新しいって書いて『あらた』って読みます。二十二歳、滋賀県出身です。はい、君の番」

 すらすらと言い放った彼は、やけに満足げだったので、それに付き合うことにした。

「君、じゃなくて野口絃です。糸偏に玄米の玄で『いと』って読みます。今年で二十一歳、東京都出身です」

 それを聞いて、彼はさらに満足げだった。

「絃ちゃん、か。いい名前だね」

「松田さんも、珍しい名前ですね」

 それから私達は、互いに危険ではないことを証明するかのように、最低限の情報を交換し合った。そして、会話は自然ともう少し内側の、個人的な話へと入り込んでいった。

「私は、松田さんのこと何も知らないですけど、でもその方がいいのかもしれません」

「ん、なんで?」

「自分のことを何も知らない人に、話を聞いてもらいたくなる時ってないですか?私はたまにあって、知り合いだとなんか重くなりすぎるというか。だから、たまに会うパートの主婦さんに人生相談とかするんですよ」

 彼は口に入っていた枝豆を飲み込んでから言う。

「じゃあ絃ちゃんは、俺にとってのパートの主婦さんになってくれるってこと?」

「そう、なりますね。逆に松田さんは、私にとってのパートの主婦さんでもあります」

「あはは、なんだそれ」

 関係値があまりにもないので、私には何でも話していいですよ、なんておこがまし過ぎて言えなかった。少し遠回りしないと、きっと彼は開かない。だから、互いの関係を定義して、ただただぽつりぽつりと話して、消化させてあげられたらと思った。

 すると、段々話していくにつれて、彼がこれまで隠してきたはずの、影の部分が少しずつ言葉の端から零れ出してきた。

 出身は関西だと言う彼の口から関西弁が出ることはない。「もう3年も東京にいるから」とは言っていたが、それだけではないのだろうと、なんとなく分かった。

「関西弁いいじゃないですか。好きな人多いと思いますけど」

「んー、それが困るんだよね」

 東京の人間にとって方言は物珍しく、そして大好物なのである。実際、地方から来た人に、「ちょっと方言で喋ってみてよ」と何度も言った覚えがある。

 だから彼は、物珍しさと親しみやすさを同時に帯びたそれを、わざと手放すことにしたのだろう。

 そしてもう一つ、彼はモテることに完全に飽きてしまっている。

 生まれながらの自然派ホスト。歩くだけでモテる。「顔がタイプ」と言われると少し悲しくなる。そんなことを口にすると「贅沢な悩みだ」と言われるので黙っている。

 初めて会った日に、彼をイケメンだと言ったが、嬉しいと言っておけばいいということを、彼は今までの人生で学んできてしまった。

 顔がいい人、能力が高い人になりたいというのは万人共通の願いではあるが、結局上り詰めるとそこには孤独が待っている。他人からのプレッシャーや期待は無駄に高いくせに、小さなミスも許されず軽く失望され、謙遜からか「君は同じ世界の人間ではないから」と冗談交じりに距離を置かれる。

 正直に言うと、贅沢だとは思う。顔を褒められて悲しくなるなんて、そんな悲しいことあるのだろうか。しかし、今の彼を見ていると、それよりも可哀想だという同情の気持ちが勝ってしまう。それと、モテ過ぎて困るという人がこの世界に実在したことに、どこか可笑しさを感じてしまっていた。

 彼が全てを言葉にせずとも、私は彼のことを大体理解することが出来た。私は友達から、「理解する能力は高いくせに、共感する能力を持ち合わせていない可哀そうな人間」と言われる。それは私も痛いほど自覚していて、全ての感情を言語化しないと気が済まず、そのせいもあってか、あまり恋愛に向いていない。

「ごめんね。こんな話、面白くないでしょ。普段はこんな話しないんだよ」

「面白いですよ。そんな漫画の主人公みたいな人、ほんとにいるんですね」

 申し訳なさそうに彼は言う。

「君は贅沢だって言わなかったから、ついね。半分冗談だから」

 本音の半分を冗談だということにして、角が立たないように丸く収めようとする彼を見た時、私の理解は間違っていなかったのだと思った。

「松田さん、『贅沢だね』っていうのは、『その顔を悪用しないなんて、贅沢だね』って意味だと思いますよ。皆、あなたの顔になれたら遊び放題だと思ってるんです。だから、その顔を持つべきはきっと松田さんしかいないんですよ。あなたが遊び始めたら被害者が大勢出ます」

「あはは、初めて言われたな」

 彼は目を細めてくしゃっと笑った。冗談として受け取っているようだったが、どこかでちゃんと、届いていてほしいと思った。

 ――どうか、言ったことも、言われたことも、冗談にしないでほしい。


 
 ちょうどよく酔いが回ってきたので、二人で喫煙所に向かった。

 少し懐かしさを覚えるこの場所で、「私は恋愛を必要としていないのかもしれない」と、彼に言った。

 言った、というより、零れてしまった。

「どうして?」

「恋人が欲しいというより、好きな人がいたらいいなって。だから、そうじゃないなら、別に一人でも十分、というか」

 男女になると、どうしても恋愛の可能性を考えてしまう。

 しかし、彼になら話してみてもいいと思えた。どうせ彼は私にそんな気なんてないだろうし、好かれ過ぎてしまう彼にとっては、むしろ好都合だと思ったから。

 そして私も、自分のことを知らない人に、ただ言葉をぶつけたかった。

 彼は、「そっか」とだけ言って、否定も肯定もしなかった。そして、「君はやっぱり面白い」と言って笑った。

 私を女ではなく、一人の人間として接してくれていることが嬉しかった。

 おそらく、彼もそれは同じだったのかもしれない。自分を完璧でかっこいい男ではなく、ただ少し楽しくなさそうな人として、変に期待されていないことが心地よかった。

 期待されないことに喜びを感じる二人は、ため息ではないただの汚い煙を、気持ちよく吐いた。

 そして、気が付けばかなりの時間が経っていた。喫煙所とカウンター席の行き来をしながらつい話し過ぎてしまったようだ。

 二人は会計を済まして店を出た。外にある喫煙所はさっきと同じ場所のはずなのに、少しだけ違う場所のように見えた。

「楽しい話をありがとう」

「これといって楽しい話をした覚えはないですけど、こちらこそ目の保養になりました」

 私はふざけたように顔の前で合掌し、軽く頭を下げる。

「絃ちゃんにそういうこと言われても嫌じゃないんだよなー。なんでだろ」

「褒めてないからだと思いますよ。馬鹿にしてるんで」

「ひどいねー」

 彼は口を大きくあけて笑った。

 その表情は、あの時に見た悲しい笑顔ではなかった。

 無防備なその笑い方に気付いて、少し喜ばしい気持ちになったのは、私が根っからのエンターテイナーだからなのか、それとも彼に対してほんの少しの母性が芽生えているからなのか、あるいは、恋が静かに発芽しようとしているからなのか。

 彼の笑い声を聞いていたら、そんなことはもうどうでもよくなっていた。

 恋の可能性を考える時間。それは私にとって、どうしようもなくむず痒い時間なのだ。

 諦めたかったはずなのに期待しようとしていることが怖い。本気で好きになってしまったら本気で傷ついてしまうから。

 恋に悩む人はちゃんと傷つくことを受け入れている人だ。痛みが返ってくる可能性を知りながら、それでも茨の中に手を伸ばせる人。

 それができない私は、一人でも大丈夫な強い人間ではなく、弱いから一人を選んでいる人間。

 この人になら傷つけられてもいいと、痛みをも愛せる覚悟が出来た時、私はようやく恋を始めることが出来るのだろう。


 二人は二軒目には行かず、なんとなく近くの公園にいた。

 そして、空っぽの公園にある二つのブランコにそれぞれ腰掛けた。小さい頃は順番待ちをしてまで乗りたかったブランコに、いとも簡単に乗れてしまったことが悲しかった。

 遊びに行くといえば、公園に行って鬼ごっこをしていた私達は、今や居酒屋でお酒を飲むことしか頭に浮かばない。

 昼ではなく夜。駄菓子ではなくおつまみ。自販機のジュースではなくハイボール。恐れているのは親ではなく、二日酔い。

 虚しくなったので、「鬼ごっこでもしますか?」と言ったら、「二人でする鬼ごっこはただの修行だよ」と言われたので諦めた。仕方なくブランコに揺られていると風が心地良く、今の楽しさと虚しさをまるごと抱えていくしかないのだと思った。

「俺って、人に嫌われるのが怖いのかな」

 全力でブランコを漕ぐ私の隣で、膝の関節だけを使って小さく揺れる彼が言った。

「俺、誘いは基本断らないし、断れない。だから誘ったりもしない。それで楽しいんだけどさ。だけど、たまに疲れる」

「誘ってますよ、今日」

「あ、そっか」

 ブランコの鎖越しに見る彼は、少し小さく見えた。

 この人が心から気を許すことの出来る人間はいないのだろうか。こんなぽっと出の私にこんな話をするくらいなのだから、よっぽど抱えているものが多いのかもしれない。

「ねえ、絃ちゃんはさ、疲れちゃうことってある?」

「疲れちゃうこと…」

 ブランコが、私を快活な気持ちにさせるので、暗い話題が頭を通過してしまいそうになる。

「あんまないかな。物理的に動かされると、今みたいに疲れますけど、精神的に疲れることはそんなにないですね」

「じゃあブランコ止めなさい」
 
 靴の底を地面に擦り付けて、体の揺れを小さくしてから、自分の人間関係について考える。

「嫌われるのが怖いっていうのは、あんまり考えない、ですかね」

「なんで?」

「だって、人の気持ちなんて、一晩中考えても結局その人にしか分からないじゃないですか。これは私の考える範囲じゃありませんよ」

 小さく「確かに」と呟いていたが、まだ納得している訳ではなさそうだった。

「でもじゃあ、どこまでが絃ちゃんの考える範囲なの?」

「んー」

 答えは単純だった。

「私がどう思ったか、だけですかね」
 
 地面につけた両足の間を見つめて言葉を選ぶ。

「こう言うと、嫌われるのが怖くなくなった自己中な奴って思われそうですけど、案外そうでもないと思ってて。考えに考え抜いた言葉と最善の行動を選んだ自信があるから、もうこの先どう思うかは、相手に任せようと思うんです。それで嫌われても、その人とは善さの価値観が違うんだから、もう仲良くなる必要はないなって」

「んー」

「まあでも、仲良くしないとか、そういう冷たいことを言いたいんじゃなくて、好きでいてくれる人を全力で大事にしたい、というか」

 あなたもそう気楽に考えたらいい、と言ったところで、きっと優しい彼には出来ないだろうから辞めておいた。今はただ、ちょっと話を聞いてくれる人がいれば、それでいいのだと思う。

「私はね、皆に合わせた自分を見て、好きだって言う人と、嫌いだって言う人が二人現れちゃった時、きっとどっちの人に対してもこう思うんです。それは私じゃないのに、って。だから、遠慮なんてしてたらもったいないじゃないですか」

 夜の公園はあまりに静かで、空間から言葉だけが浮いているように、鮮明に響く。

「初めからありのままの私でいれば、好きだって言われて単純に喜べるし、嫌いだって言われても、私の魅力に気付けなかったのね、で離れていけるんです。ちょっと噓ついてちょっと好かれるくらいなら、ありのままの私を見せて堂々と嫌われた方がましかなって」

 静かな沈黙が、彼の思考している時間を示していた。

「そういう風に考えたことなかったな」

「面白くないでしょ?こんな話」

「ううん、いいこと聞いたよ」

 周囲の人間が望む理想の自分を常に体現してきた彼は、感心したように微笑んでいた。

 私にだって人の目がどうしようもなく気になっていた時期がある。

 しかし、旅行先のカナダで一人の女性に出会って、私は変わった。

 スマホを片手に途方もなく道に迷っている私を助けてくれたその女性は、わざわざ私を目的地まで案内してくれ、その道中で色んなことを話した。

 「学校は楽しい?」と聞く彼女に「楽しいけど、疲れるの」と答えてから、日本特有の空気を読むという文化を教えた。すると、彼女は満面の笑みを浮かべながら私に言った。

「私達はそんなこと考えたことなかった。物事を深く考えなくていいの。みんな自分のことで精一杯なんだから、あなたも自分がやりたいことだけを考えて。そしたら、自然とあなたを助けてくれる人が集まるわ」

 私の拙いリスニング能力によると、おそらくこう言っていたのだと思う。そして、目的地に着いた時に、「でも、私は優しい日本人が大好きよ」と言って、彼女は去っていった。

 目的地に着いたのに、私はそこからなかなか動けず、ただ噛みしめるように、泣いていた。日本から離れたこの場所で、日本で生活する私を思う。

 ――私は誰の人生を生きているのだろう。

 彼女の言葉が、いつもの私を動かしてくれない。自分勝手という言葉を、かっこいいと思った。そして、こんなにも美しい人がこの世界に存在していることを知れて、ただ救われた。

 だから私は、私の人生を捨てないために、他人の人生を生きる私を捨てた。

 しかし、こんな考え方は日本で生活するにはあまりに乱暴すぎて、優しい彼には理解できないのだろうから言わなければよかった。けれど、助け方を知らない私は、下手に同情するより、ただ喋っていた方が幾分かましだと思った。

 カナダで出会ったあの彼女のように。

「町中華行きたい」

「ん?」

「町中華に行きたい。これが俺のありのままの気持ち。俺は今、猛烈に酢豚と天津飯が食べたい」

「ちょっとまって。違う方向に進んでるかも」

「たらふくビールが飲みたい。餃子セットも付けたい。ブランコじゃなくて、滑り台がいい。嫌われてもいいと思いたい」

 変に捉えられてしまっているようだったが、その最後には、彼の本音が少し混ざっていた。

「じゃあ、滑りますか」

 二人は身を屈めながら滑り台を滑ったが、酔っ払いにとってはそれだけでもきつい運動だったので少し後悔した。その後、近くの中華屋に入って酢豚を食べた。意外とお腹一杯だったので、天津飯も餃子も頼まなくて正解だった。

 ――いつも正解の答えを出すんじゃなくて、思ったことを口に出していいんだよって、あなたに伝わったかな。


 
「じゃあ、解散しますか」

「今日はありがとう」

「こちらこそ。美味しかったですね」

 彼が何か言いたそうにしていたので、私は周りの景色をキョロキョロ見ながら話し出すのを待ってみた。

「君は、やっぱり強い子だね」

 やはり、優しい彼には理解できなかったのかもしれない。

「いや、多分こうでもしないと、弱くて生きていけなかったのかも」

 私の話を聞いて、悩みがちっぽけに見えたというよりも、彼が何かを諦めてしまったのではないかと心配になった。

「松田さんはね、優しい人だから、もっと強気でもいいと思いますよ」

「そうなの?」

「でもちゃんと、好きだと思える人の前では、弱いところも見せてください」

 彼は真っ直ぐ私の目を見て言った。

「そうするよ」

 ――君の前では

 なぜだろう。

 そう、思っていて欲しかった。


 

第三章 「意外ですか?」


 私達の連絡手段はメールにした。

 ラインみたいに既読に怯えなくていいでしょ、という私の主張を、彼は面白がって採用してくれた。

 私は少しだけラインが苦手なのだ。

 一度見てしまったらすぐに返さなくてはいけない気がするし、当たり前だけど返したら返ってくるのが永遠に宿題を出されているみたいで、正直に言うと面倒くさい。

 その点、メールには既読もつかないし、返したいときに返せるのが良い。無駄にソワソワしなくていいし、気長に待っていられる。

 短文をコンスタントに送り合うこともないので、私達が交わすのは、次に会う約束と、たまにその日に起きた出来事を添える。

 布団にビールをこぼしたとか、おーいお茶についてる俳句って意外と感動するよねとか、ホラー映画って怖がらせることに重きを置きすぎて内容意味不明だから、見終わる頃には単純な怖さよりつまらなすぎて怖いが勝つよね、とか。

 内容はかなりしょうもない。

 このしょうもなさを競い合うメル友が、彼だった。

 私はこのメールという連絡手段に、文通のようなアナログさと趣深さを感じるのだ。

 手紙を開く感覚は、宝箱を開ける感覚に似ていている。件名を見つけて、指先でそっと開くあの一瞬。画面越しのはずなのに、そこには確かに誰かの体温のようなものが残っている気がする。

 大人になるということは、もう戻ることの出来ないあの頃の懐かしさに、どうしようもなく恋焦がれ続けるということなのかもしれない。

 放課後の匂いや、特に意味もない会話、何でもなかったはずの時間が、あとになってからやけに眩しく思える。あの時は気にも留めなかった一瞬一瞬が、今では触れようとしてもすり抜けていく。

 今が過去になり、やがて懐かしさになることを、今気付くことが出来ない。分かっているはずなのに、目の前の時間はあまりにも平凡で、特別なものとして掴むにはとても頼りない。

 だから私は、また同じように苦しむのだろう。あの時もっと、と思いながら、取り返しのつかない距離を遠くから見つめ続けるのだ。


 
 私は何通目かのメールで好きな言葉と嫌いな言葉を送った。

“好きな言葉は『卑猥』です。理由は一番卑猥な言葉だと思うからです。
嫌いな言葉は『ヤバい』です。理由は万能すぎてよくないと思うからです”

 私達のやり取りは一日に数ラリーほどで、それが私にとってはちょうどよかった。

 翌日、彼から返信が来ていた。

“好きな言葉は『おかわり無料』です。食いしん坊だから。
嫌いな言葉は『意外』です。意外ですか?”

 彼の嫌いな言葉には理由がなかった。

 理由はないけど嫌いなのかもしれないが、普段何気なく使っていた「意外」という言葉を嫌いだというので、発言には気を付けようと思った。軽く投げたつもりの言葉が、誰かのどこかをかすめてしまうことがあるのだと、思い知らされる。

 しかし、なぜ彼はこの言葉が嫌いなのだろう。あまり触れられたくないことを答えているような、それでいて触れてほしいような、そんな感覚。

 返信で理由を聞くことも考えたが、今はそっとしておこうと思った。次に会えた時にそれでも引っ掛っていたら、彼の中にあるその小さなパンドラの箱を開けてみようと思った。

 彼を知りすぎてしまうことが、まだ怖い。

 知るということは、近づくということだ。


 もう夏とは言えない季節になり、町は半袖と長袖で半々くらいになっていた。

 私は薄手のカーディガンを羽織り、彼の元へと向かう。

 二人が住んでいる場所のちょうど中間地点くらいにある繁華街で落ち合い、とりあえず行先も決めずに、歩きながら店を決めた。いつものあの店でも良かったのだが、毎回同じ場所では風情がないので、他の居酒屋にしてみた。

 とはいえ、この店も大して変わらない雑然とした雰囲気で、もう居酒屋に風情を求めるのはやめようと思った。

 一か月ぶりの彼の顔を見て、私は思う。

「本物だ」

「本物だ?」

「メールで話してると、なんか現実味なくて。本当に存在してたんだなって」

「なんだそれ」

 目の前にとりあえず置かれた塩だれキャベツを箸でつつきあう。そして、これまでのメールでのやり取りを振り返り、脱線に脱線を繰り返しながら、私はあの小さな箱を思い出す。

「意外って、なんで嫌いなんですか?」

「あー、そんな話したね。絃ちゃん、ひどいよ。卑猥って久しぶりに聞いた」

「あは、意外でした?」

 彼は一瞬、箸の動きを止めた。

「君らしいよ」

 私の「意外でした?」という言葉にも返答にラグがあったので、彼は本当にこの言葉が苦手なのかもしれない。肝をぎゅっと握られたような反応。

 彼自身もそのことに気付いてしまったようで、おもむろに口を開いた。

「意外ってさ、結局、思ってたのと違うってことでしょ?ほら、おーいお茶の俳句なんて期待して読むもんじゃないのに、意外と面白い、とか」

「まあ、そうですね」

「これはいい意味の意外なんだけど、俺にいつも向けられるのは、ちょっと違う気がしてて」

 グラスの縁を指でなぞりながら彼は話す。

「らしくない、って?」

「そう。お前らしくなくて意外だねって。そう言われてるみたいでさ」

 彼は軽く、ため息のように笑う。

「絃ちゃんはさ、意外と真面目とか、意外と優しいとか、いい意味の意外の方が多そうだね」

「それは、得してるのかな」

 メニュー表を開いたけれど、視覚情報は全く頭に届いていなかった。そのラミネートされた紙をパーテーションのようにして、ただ考えてしまった。

 意外、らしくない、と言われ続ける人生。自分を否定され、理想を押し付けられる人生。これが自分なのにと思い続ける人生。

 これらを想像して、苦しくなった。誰かの思い描いた輪郭に合わせて、少しずつ自分が削られていくような感覚。

 私は、誰かの「予想」の中で生きるのが怖いのかもしれない。

 彼にはいつも、諦めたような空元気さを感じる。完璧を目指そうとして届かなかった人の、自分という存在を隠すような明るさが、私は嫌いだった。暑さが寂しさを誤魔化すように、明るくあることで何かを誤魔化しているように見える。

 私は、彼が人の中心で無理に作った笑顔より、隅で静かに本を読むあの顔の方が好きだった。ページをめくる指先や、文字を追う視線には、嘘が混ざらない。誰にも見せる必要のない時間の中にだけ現れる、あの静かな輪郭の方が、ずっと彼らしいと思った。

 メニュー表のページを一枚めくる。それでもやっぱり、何も頭に入ってこなかった。

 すると、彼がポケットからセブンスターを取り出したので、それに釣られて私も鞄を開く。中にはラッキーストライクと文庫本。

「前に本読んでましたよね。何読むんですか?」

「何でも読むけど、サスペンスが多いかな」

「いいですね」

 足を組み替えて、呟く。

「私、本読む人が好きです」

 軽く聞こえるようにしたつもりだったけれど、言葉は思ったよりも重たくテーブルに落ちて、そして彼は微笑む。

「なら良かった」

 自分の持っていた本を机に置くと、彼も同じように本を取り出した。それを名刺交換のように差し出して、表紙と裏表紙を確認し、中をパラパラと眺めて、互いに「へー」とだけ言った。

 彼の本はかなり分厚く、しかも上下巻の上巻だった。私は下巻まで読み切る覚悟を決めて同じような分厚い上巻を買って読んでいたのだが、結局下巻を読み始めることはなかった。上巻が本棚の隅で、揃うことのない下巻をひとりぽつんと待っている。私と比べて彼はかなり本が好きなようで、それだけで少し違う人のように見えた。

「次会う時、おすすめの本持ってきませんか?お互いに」

「いいね。何にしようかな」

 次に会う理由が一つ増えた。あの時の「今度」のように疑うことはなかった。

「ところで」

 彼が本を閉じながら言う。

「なんで本読む人が好きなの?」

 私はゆっくり、考えながら答えた。決まった答えなんて用意していなかったはずなのに、口を開けばどこか決まった道を辿っていた気がする。

「前にね、同じ本を好きな人がいたんです」

 私が、”過去”というフォルダに無理矢理入れた思い出。

 不覚にも、彼はそれを今、こじ開けようとしている。悲しいことがあっても、それをいま楽しく思い出話に出来ていれば、それでもう乗り越えられていると思いたかった。

「我孫子武丸の『殺戮に至る病』。その人、私が本読んでるところにふらっと来て、何読んでるの?って聞いてきたんです。最初は、この人本読まなそうな人だなって思ってたんですけど」

 少し笑って、でも、と続ける。

「なんかね、本が必要ない人もいると思うんですけど、それでも私は、本が必要な人の方がなんだか信頼できる気がしてて」

「それはなんで?」

 なぜなのか、その浮遊した感覚に理由を探した。

「自分だけの世界に、小さなわだかまりというか、完璧には満足してないというか、そういうのがあるから、違う人生を読んでるのかなって」

 彼は黙って聞いていた。

「その人は、本がなくても楽しそうに見えたから。だからちょっと意地悪したくなって、おすすめの本を聞いたんです。そしたらそれが、私の一番好きな本だった」

 それだけのこと。

「ただそれだけ。それだけなんだけど、私は気付いたらその人のこと気になってて。まあ、それがきっかけだっただけなんですけどね。話していくうちに、ちゃんと面白い人だなって気付いて。でもなんか、いい出会いみたいに思えちゃって」

 記憶が綺麗なもののように展示される。

 けれど、これが私にとっていい思い出では無かったことを思い出して、少しだけ付け足した。

「でも次は、違う本を読む人を好きになりたいかな」

 面白く思い出話をしているはずなのに、少しの緊張感が漂っている。

「それは何で?」

 私は指でグラスの水滴を意味もなくなぞる。

「お互いの同じものが段々増えていくと、違うものが異物に見えてくるでしょ?初めから全部違えば、そんなこと思わなくて済むのかもなって」

 本当の理由はこうではなかった。

 ――彼のことが忘れられないから。

 喉に詰まって出てこないそれを、上手く消化したくて、違う理由を付けてしまった。

 思い出という箱に綺麗なリボンをかけて、それを次に向かうための踏み台にしたかったのだ。

 彼は少しだけ考えてから言う。

「でも、異物だらけの人を、最初から好きになるのかな?」

「難しいこと聞きますね」

 建付けの答えに理由なんてなかった。

「結局はさ、好きだっていう気持ちが解決してくるような気がするけどね。同じだから好きとか、違うから好きなんじゃなくて、好きだから同じところも違うところも面白いね、になるんじゃないかな」

 条件付きの愛とやらを彼が否定して、それが妙に腑に落ちた。

「恋は盲目っていうけどさ、見えてないんじゃなくて、見えてないふりしてるだけなのかもね」

「見えてないふり?」

「好きなところだけを選んで見てるんじゃない?まあ、知らんけど」

 彼はにこやかにハイボールを飲み干して、ふと真面目な顔になる。

「君はさ、違う本を読む人を好きになりたいって言ってたけど」

「…はい」

「俺は、別にそうじゃなくてもいいと思う」

 彼の顔は真剣で、私の思い出を笑うのではなく、ただ静かに寄り添ってくれている感じがした。笑えないのに無理矢理笑ったふりをしている自分を見透かされているようで恥ずかしい。

「君に声かけてきた人と、君が次に好きになる人は、違う人でしょ?」

 当たり前のことを、ゆっくり確かめるように言う。

「同じ恋をしても、同じ結末になるとは限らないよ」

 綺麗な言葉だった。

 その綺麗な言葉に少しだけ関西のイントネーションが混じっている。

 彼の言葉に関西弁が多ければ多いほど、彼の目尻にできる笑い皺が多ければ多いほど、彼が私に気を許してくれているのだと、そう思いたかった。

 しかし、思ってどうするのだろう。私は何がしたいのだろう。

 彼をどうして、彼にどうされたいのだろう。

 それがまだ、よく分からない。

 彼は次の一口を飲むでもなく、グラスの縁を指でなぞっていた。私も同じように、水滴をなぞる。少しだけ重なるその小さな一致に、意味を見出そうとしている自分に気づいて、指についた水滴を拭った。

 

 私達は中華系のファミリーレストランに移動した。私はここの北京ダックが大好きで、それを彼に食べてほしかった。

 向かい合わせのソファ席に座り、油でベタベタのメニュー表を開く。中華屋特有のべたつきを少し不快に思うが、これは中華を食べるための代償だと思えば目をつぶれる。彼はそんなことを一切気にする様子もなく、中華料理の写真を眺めながら小さく鼻歌を歌っていた。

「それ、聖子ちゃん?」

 彼は顔を上げて言った。

「え、知ってるの?結構好きなんだよね」

 知ってるも何も、それは私の好きな歌。
 松田聖子の「SWEET MEMORIES」。

「同じだ」

 彼は、私と同じ歌が好きな人だった。

 同じ歌、同じ本、そして同じ恋。

 デジャブだと思った。

 出会った時からずっと、彼には他の人とは違う何かがあると感じてしまっている。それが、少し嬉しくて、少しだけ嫌だった。偶然にしては出来過ぎている一致が、私を彼のもとへと向かわせているようで、その流れに身を任せるのが怖かったのだ。

 彼は、同じ恋をしても同じ結末にはならない、と言った。

 ――あなたの言葉と、あなたを、私は信じてもいいのだろうか。

 二人は北京ダックと回鍋肉、それから生ビールを注文した。配膳ロボットに小さく「ありがとう」と言う彼を愛おしく思った。出来立ての回鍋肉を口に運ぶと、じんわりと体温が上がる。私はカーディガンを脱ぎ、彼はシャツの袖をまくって、第二ボタンまで外した。綺麗できちんとした服を着る彼の隙が見えたようで、私はそこから目が離せなかった。彼は箸で北京ダックを包みながら、「これ、うまいね」と言った。その言い方があまりにも素直で、少しだけ笑ってしまう。

「でしょ」

 

 解散して家に帰る道中、ふとコンビニに寄った。

 飲料のショーケースに並んだおーいお茶。
 お弁当コーナーの酢豚。
 レジ後ろのセブンスター。

 あなたと出会ってしまってから、今まで通り過ぎていた景色に足を止めてしまうようになりました。

 あなたは私の人生に彩りを与えてくれたのでしょうか。

 それとも、呪いをかけたのでしょうか。
 
 ――私だけの時間にあなたがいるけれど、あなただけの時間に私もいるのかな。


 

第四章 スタンプカード


 数日後、私は友達のゆきちゃんと同じファミレスにいた。

 同じ中学の友達で、彼女もごく稀に定例会に参加している。黒くて長い髪に、白い肌。灰色のコートに黒のデニム。無彩色な彼女に刺した紅色の唇に自然と視線が向き、引き込まれてしまいそうになる。

 ゆきちゃんとは以前同じバイト先で働いていて、私は先に辞めてしまったけれどまだ職場の人と交流が続いており、その日は前のバイト先の飲み会に行き、その後二人でこのファミレスに入った。

 北京ダックを一緒に包みながら私が話し出す。

「あのさ、恋と風邪って似てない?」

 ゆきちゃんの眉がほんの少しだけ寄る。

「どこが?」

「体調悪い時にさ、病院に行くと、お医者さんに『それは風邪です』って言われるじゃん?でも行かなかったら、それに気付かないで、ただの体調不良で軽く済ませられるっていうか」

「あー、体温計見て一気にだるくなるみたいな?」

「そうそう。なんか、恋もそれと一緒だなって思って」

「恋?」

「私はさ、たとえば誰かのことが気になってるとして、これは恋だって認めた時に、やっと好きなんだって思えるのね。恋に落ちるとか言うけど、私にとってはそんな自然に起こるものじゃなくて、認識するというか、覚悟するものなんじゃないかなって」

 ゆきちゃんは、北京ダックを頬張りながら何も言わずに聞いていた。きっともう、私が何に悩んでいるのかが、彼女には分かっているようだった。

「まあでもさ」

 口に入れた北京ダックを飲み込んでから、ゆきちゃんはようやく口を開く。

「風邪って診断してくれるのはお医者さんだけど、恋は自分で判断しなきゃいけないよね」

 私は頭を抱える。

「あー、だから分かんないんだよね」

「あれれ?彼氏いらないって言ってませんでしたっけ?」

 ゆきちゃんは意地悪な顔をして、私の顔を覗き込む。

「そうなんだけど。そうだったんだけどさ」

「でも、珍しいじゃん。あんたが人を好きになったとか、あんま聞いたこと無かったんだけど」

「それはきっと、私が恋を診断する能力を持ち合わせてないからなんだよ」

 そう言ってから、自分が臆病で弱い人間だということを再認識した。

 ゆきちゃんには彼氏がいる。きっと楽しいことだけじゃなくて、傷つくこともあったはずなのに、それを乗り越えてきた彼女は私より何倍も強い人に見えた。

 そしてそんな彼女を少しだけ、羨ましいと思った。

「ゆきちゃんはさ、今の彼氏のこと、いつ好きだって思ったの?」

「段々かな」

 あっさり答える。

「相手の良いところが、スタンプカードみたいに溜まっていって、それが一杯になっちゃってどうしようもなくなったから、好きだって伝えたかな」

 どうしようもない、というのは選択ではなく結果だったのだろう。ゆきちゃんは少し恥ずかしそうに乙女の顔をした。

「溜まりに溜まったスタンプを、彼と交換したかったの」

 彼女の色が唇から頬に広がる。

 ゆきちゃんの可愛い女の子な一面を見て、私は息をついた。

「やっぱりゆきちゃん好きだな。友達として誇らしいよ」

「なにそれ」
 
 彼女が無邪気に笑う。

「告白を待ったり、告白させる女の子が多い中で、ゆきちゃんはちゃんと気持ち伝えてさ」

「だって、ずるいじゃん。相手が自分を好きだから好きなんじゃなくて、相手がどう思ってようと、私は彼が好きだったし」

 当たり前のことのように話す彼女が、あまりにもかっこよく、そして美しかった。

「あのさ」

 スープを飲む手を止めた。

「判断材料が欲しいんだよ。恋だって診断するための症状が欲しい」

 言葉が溢れて早口になる。

「会ってない時に相手のことを考えてたら?相手と好きなものが同じだったら?相手の仕草を愛おしいなーって思ったら?それはもう、好きだって言ってもいいの?」

 必死な顔をして話す私の顔を見て、ゆきちゃんはくすっと笑った。

「人間になりたての宇宙人みたいだね」

「そう。たまに右手と右足、同時に出して歩いちゃうし、ずっと好きが何なのか分からない」

「それは大変だ。もっと経験積まないとね」

 私は一度席を立って、スープバーまで歩いて行った。右手と右足を同時に出して歩くと、ゆきちゃんがスープを噴き出したので、新しいのを持ってきてあげた。

「ねえ」

 席に戻ると、ゆきちゃんは真剣な顔をしていた。

「好きかもって思うのは自分だから、私が医者にはなってあげられないんだけどさ」

「うん」

「絃の話を聞く限り、病名を診断するには十分すぎるくらいに、症状は揃っっちゃってると思うけどね」

 気付かない振りをしていることに、気付くべきなのだろうか。

 確かに、体温計で測らなくても熱があることくらい分かっている。しかし、これはロマンに酔っているだけなのか、恋をしているからなのかが、分からない。

 帰ったら“好き”という言葉の意味を辞書で引いてみよう。定義がないと、やはり私は判断が出来ない。

 きっと答えは出ないだろうけど。

 

 相談に乗ってもらったお礼にご飯を奢って、「先生、ありがとうございました」と言うと、ゆきちゃんは「いいんだよ」とばかりに軽く手を上げて、颯爽と去っていった。

 私はゆきちゃんを見送ってから、自転車に乗った。片耳にだけイヤホンを付けて、松田聖子の「SWEET MEMORIES」を流す。漕ぎだして赤信号で止まると、曲はもう終わっていて、次の曲が流れていることに気付いた。

 少し油断をすると、すぐに彼のことを考えてしまう。記憶の引き出しがあるのだとしたら、その一番上の段の、一番手前に、彼がいる。そのおかげか、暇な時間も頭の中は退屈ではなかった。

 でももう、楽になりたい。

 好きが分からなくて悩む時間が苦痛で仕方がない。彼に向けられる感情が、段々重く複雑なものになっていく。考える時間と答えまでの距離が比例せずに、遠ざかっているように感じられる。

 しかし私は、この痛みを解決する方法を思いついた。

 ――よし、決めた。

 信号が青に変わる。

 私は彼に伝えよう。

 あなたに片想いをしていると。

 その覚悟をして、今まさに好きを始めたことを。

 言葉にして、戻れない場所に行ってしまおう。

 

 しかし、好きなのだと覚悟をしても、その先にはまた別の、新しい痛みが待っている。

 拒まれるかもしれない。受け入れられても、別の形で傷つくかもしれない。

 でも大丈夫。私は、あなたになら傷ついてもいいと思える。

 ーーそう、きっとこれが恋なんだ。

 

 しかし私は、片想いというものは決して尊いものではないということを知っている。一歩前進できたと思ったのに、私は定例会の話を思い出した。

「何回も好きだって言ってくる人がいるんだけど、私はその気持ちには答えられなくて。でも彼はね、『君と付き合えなくてもいい。ただ一緒にいればそれでいい』って言うの」

 一人の友人がこう話すと、私達の意見は二つに分かれた。

 相手がいいと言うならいいのではという者と、強い言葉を使ってでも彼を突き放すべきだという者。

 私はどちらかというと後者だった。好きになってくれるかもしれないという希望を彼に抱かせ、自分に執着させるのは、軽い拷問なのではないのか、と思うのだ。

 しかし、友人もずっと前からそれには気付いていたようだった。

「誰かが自分を好きでいてくれることって、ちょっとひどいけど、でも正直気持ちいいじゃん?でも、それだけじゃ終わらなくて、気持ちに答えられないことが苦しいんだよ。彼が簡単には離れていってくれないことが苦しい。好きになってくれた人を好きになれなくて、そんな自分が嫌になる」

 友達も友達で、苦しんでいた。早く彼を開放させてあげたい、と。

 けれどその解放は、結局誰かを傷つける形でしか成り立たないのだと分かっているから、動けないでいる。

 恋焦がれる者、それを応援する者は、きっとそれを美しいものだと思うかもしれない。けれど実際、想われる側にとっては、おそらくそうでもないのだ。

 好きでもない人から好意を持たれることは、いわば事故に巻き込まれることに近い。その人について考えさせられ、答えを出す義務を負わされ、さらには相手の想いに応えられない罪悪感をも同時に背負わされる。相手が純粋に好意を伝えてくれるほど、「私はあなたのことなんて好きじゃありませんよ」と言って簡単に完結させられない。そんなふうに切り離せるほど、人の気持ちは潔くない。

 人を好きになれなかった自分、愛してくれる人がいたのにそれを受け止められなかった自分。その両方に、少しずつ失望するのだ。

 恋だの愛だの語り合っても、いざ本番となれば綺麗にはいかない。きっと綺麗な恋愛なんてなくて、誰かに話す時に綺麗な物語にしている気がする。

 私は知ってしまった。片想いの残酷さを。

 それは、ただ一方的に苦しいというだけじゃない。誰かを巻き込んでしまう苦しさだ。

 これが私に足踏みをさせる。好きだと言うことで、彼の時間に私を侵入させてしまう。彼に気持ちを伝えて関係が壊れることよりも、この義務を負わせてしまうことの方が、何倍も苦しい。


 数週間後、私はアルバイト先の飲み会にいた。

 職場の人間同士で飲みに行くと、大抵誰かの悪口や噂話で盛り上がる。〇〇さんはチクリ魔だとか、エリマネの奥さんはフィリピン人だとか。

 人の噂なんて心底興味がないので、私は正直この会が好きではない。それでも、誘いを断りすぎるのが段々と気まずくなってきたので、仕方なくまたこの会に参加していた。

 さも聞いているような顔をして、別のことを考える。

 きっとこの人達は、自分の話では興味を向けてもらえないから、こうも人の話をネタにするしかないのだろう。上から見下しているようで、実は下から見上げていることに気付いていない。こういう時には、否定も肯定もせず、さっさと抜け出すのが筋だ。

 一軒目が終わり、何人かはそのままカラオケに行くと言っていたが、私は一人で帰ることにした。さっきまであんなに騒がしかったのに、急に暗い道に放り出されたので、小さく灯る店の明かりを見て、少しの解放感と静かな孤独を感じていた。ふと携帯を見ると、彼からメールが来ている。中身を見ると、いつものしょうもない内容。

 酔いと寂しさに耐え切れず、文脈関係なしに彼にメールを送った。

“これから会えますか?飲み会が早く終わったので、二軒目に付き合ってほしいです”

 どうせすぐには返ってこないだろうし、ただ会いたかったことだけを伝えられれば、それでよかった。

 しかし、携帯が通知音と共に振動する。

“待ってて、すぐ行く”

 予想よりもずっと早い返信。近くのベンチに座って、彼を待った。

 すぐ来てくれる理由を都合よく考えそうになる。待っている間も彼のことで頭が一杯で、それを抑えるように片想いの残酷さについてぐるぐると考えた。

 きっと三十分ほど経ったのだろうけど、体感は五分程度で、恋って退屈にさせないから便利だなと、能天気に自分に言い聞かせた。

 そうでもしないと、倒れてしまいそうな私の手を引けなかった。

「おまたせ」

 声のする方を見ると、そこに彼が立っていた。急いできてくれたのか、髪が乱れている。すぐ立ち上がろうとして、少しふらついてしまった。

「酔ってる?」

「珍しいでしょ?すみません。こんな時間に」

「全然いいよ。お腹すいてたから、ちょうどよかった。そこら辺の店でいい?」

「はい、大丈夫です」

「…絃ちゃん、一回休憩する?」

 そう言われて、二人は駅前の小さな暗い路地にある灰皿に向かった。その道中に、彼は自販機で水を買って私に飲ませ、心配しつつそれをニコニコしながら見つめていた。彼は私の歩幅に合わせて歩き、時々こちらを見る。喫煙所に着いて、私が煙草をくわえると、彼が火をつけてくれた。

 ――あれ、なんでだろ。

 私はなぜか泣きそうだった。煙が目に染みる。

 彼の顔を見て、涙が溢れそうになったのは、きっと私の気持ちが心から溢れていたからなのだと思う。

「あのね、酔っぱらうと、どうしても会いたくなる人がいるんです」

 零れるように、もう話し始めていた。

「え?どんな人?」

「その人はね、私を迎えに来て持ち帰ってくれる人で、いつもと違う私を見せたい人で、きっとこの姿も面白いと思ってくれる人で」

 ふらつきながら話しているが、きっとここから先を口にしない方がことだけは分かった。

「うん、今すごい面白いよ」

 彼は酔っ払いの戯言だと思って微笑んでいる。それだけで良かったはずなのに、なんだか安心してしまった私は、大きく息を吸って吐く。そして、吐くと同時に、言った。

「でも、会いたくなる一番の理由は、こうでもないと好きだって伝えられないからなんです」

 私は、彼の顔を見れなかった。

 見ていいはずがないと思った。恋愛なんて必要ないと言ったのに、私は好かれ過ぎてしまう彼を好きになってしまったから。きっとあの義務を感じているのかもしれない。

 私は彼に、答えを求めてしまっている。

 酔うとあなたを思い出して、早くあなたとの関係に名前を付けたいと思った。その名前は何でもいい。私を好きでも嫌いでもいい。失恋という言葉にも「恋」という文字が付いているから、それだけでも十分だった。

「すみません。酔ってますね。忘れてください」

「ごめん」

 被せるように彼が言った。

 終わりだ。わざわざ関係を壊して、彼に罪悪感を植え付けた。

 裏切ってしまった私をどうか許してほしい。そして、もう二度と会うことなく、私を忘れていってほしい。こうなってしまった以上、もう会うことは出来ない。友達だったら別れなんてないのに、男女となるとどうしても会えない理由が生まれる。

 ――おすすめの本、まだ教えてもらってなかったな。

「ごめんね、絃ちゃん」

「謝らないでください…」

「絃ちゃん」

「何ですか」

「ねえ」

「…」

「好きだよ」

 簡単な四文字を、頭が処理できない。

 重くなった心臓が、急に軽く持ち上がるのを感じた。

「え?」

「俺が言いたかったけど、先に言わせちゃったな」

「酔ってますか?」

「全く」

「うそ」

「絃ちゃんはいま酔ってるから、お酒を理由に無かったことに出来るかもしれないけど、俺はいまシラフだから、それは使えない」

 待って。

「それがいいんだよ。無かったことにはしたくない」

 呼吸が浅い。きっと、アルコールと、彼のせい。

「ちゃんと信じられるでしょ」

 彼が私の顔の前まで来たのを最後にそっと目を瞑ると、彼から煙草の味
がした。

 ただがむしゃらに、吐息と、内から溢れるものを、絡ませ合う。

 私は人から、愛されている。そして私も人を、愛せている。

 ――信じてもいいよね?

 私は大丈夫だってこと。人間だってこと。それをあなたが証明してくれた。

「ねえ、松田さん」

「なに?」

「ライン、交換しませんか?」

「あはは、そうだったね」

 冬の夜は冷たくて、けれど、二人の手だけは温かかった。


第五章 匂い


 朝も昼も夜も凍えるほど寒い。炬燵と布団が私を掴んで離さない。

 しかし、今年の冬は、常にマフラーが巻かれているような、誰かに抱きしめられているような暖かさを感じる。

 それはきっと、私の隣に彼がいるからなのだろう。

 恋という新たな関係性。それはまるで、ゆりかごのように私を揺らして、優しく包み込んでくれた。

 二人はちゃんとラインを交換して、会う頻度も増えた。嫌いだったはずのラインも、愛し合っているということだけで少し嫌いではなくなった。通知の音に心が引っ張られるのも、既読の表示に心が躍ってしまうのも、全部が恋の一部のように思えた。

 彼がよく眼鏡をかけてくるようになって、いつも私はそれを褒めた。「絃ちゃんが眼鏡好きって言ってたから」と、彼が恥ずかしそうに言う。彼が眼鏡をかける時、その時間に私がいたと思うと、嬉しかった。

 私達は色んな場所に行って、色んなことをした。イルミネーションを見に行ったり、彼の家に置く炬燵を買いに行ったり、バレンタインチョコを一緒に作ったり、ついでに北京ダックまで作ろうとして、結局うまくいかなかったり。結局は誰が隣にいるかが重要で、おしゃれなレストランでも、汚い居酒屋でも、1LDKの部屋でも、彼が隣にいればどこでも良かった。

 ――そう思っていた。
 

 
 夜はやわらかく冷え、街灯が一つずつ灯り始めていた。コンビニの白い光だけが、やけに現実的で目に悪い。二人が揃えば、あの神聖なデートという時間が始まる。場所や時間はなんだっていい。並んでいるだけ、それだけで成立してしまう時間が、交際という契約によってのみ発生する特別なもののように感じられた。

 缶のプルタブを開ける音がして、それが合図みたいに、彼がぽつりと口を開いた。

「また家でいいの?」

「うん、全然」

「どっか行きたいとことかないの?」

「逆に、あります?」

「そう言われると、やな」

「私は、二人でいられたらそれで満足しちゃうんだよね」

「それは、反則だよ」

 彼は困ったように笑った。最近あまりにも家に集合することが増えたので、彼はそれを少し心配しているようだった。しかし私は、その方が好都合だったのだ。

 なぜなら、私は昼よりも夜を愛していたから。デートをしている時間よりも結局、彼の部屋で激しく体を重ねている時間の方が好きだった。明るい昼に恋人じみたことをなぞるよりも、暗い夜に二人だけでひっそりと性的に乱れていた方が、私は愛を感じられた。言葉は綺麗に作れても、体だけはどこか汚らわしく嘘をつかない気がした。

 だから私は、夜を選んでしまう。

 心の繋がりを体の繋がりで強く感じてしまうことが、私に少し靄をかけた。デートをしてもドキドキすることはない。友達と大して変わらないとさえ思う。恋人と友達の相違点があるとしたら、ただ互いに制限をかけられるということだけなのかもしれない。

 でも、恋人というのはこういうものなのかもしれない。ただ私の性欲が少し強いだけで、関係性の大部分が好きなのであれば、まるごと全部好きだということなのだ。

 ということにして、自分をなんとか落ち着けた。

 ――大丈夫。だって彼が好きなんだから。
 

「絃ちゃんはさ、今までどんな人と付き合ってきたの?」

 恋愛経験のない私にとっては、いつも回答に困ってしまうこの質問。回答を求められることなんてよくあることなので、私は答え方を知っている。

 正直に、ただ真っ直ぐに言えばいいだけだ。

「付き合ったりは初めてだよ」

「そうなの?」

「だからデートとかもよく分かんないの」

「そっか。元カレいそうなのに」

「やっぱりタイミングとかありますからね」

「タイミング?」

「んー、自分が好きでも相手はそうじゃなかったり、相手が好きになってくれても自分は好きじゃなかったり」

 嘘ではないのだろうけど、どこかでずっと他人のことを言っているようだった。

「両想いって、結構奇跡だと思うんですよね」

「そっか。でも、好きになった人はいたんだ」

「多分ね」

「多分?」

「好きだったかはずっと分かんない」

「そっか」

 あの人と離れてからもずっと、答えが分からない。好きだったと、胸を張れる自信がない。

「じゃあ、新さんはどんな子と付き合ってたの?」

 私の過去を展開される前に話題を押し返す。

「んー。振られちゃった、かな」

「振られることあるんだ。なんで?」

「その人はね、俺の中身を見てくれた人で、告白して付き合えたんだけど、結局振られちゃった」

「なんで、か聞いていいですか?」

「釣り合わないって言われた」

「釣り合わない?」

「その子泣いててさ、周りのそう言われたって」

「ひどいですね」

「俺が周りに何言っても、どんどん拗れていって。それも嫌で仕方なかったって」

「なんでだろ」

「ん?」

「なんで、別れなきゃいけないんだろうって。恋愛って、二人でするもので
しょ?」

 好きだからこそ別れを選ぶこともあるらしい。互いが悲劇のヒロインみたいに語られているのが少しだけ、よく分からなかった。

「まあ、私は恋愛経験がないから分かんないんだけど」

「俺がさ、好きな人を傷つけてると思ったんだよ」

 私の言葉に噛みつくように、責められたように言った。

「新さんとその子、二人だけの世界だったら良かったのにな」

 この時の私には、嫉妬なんて感情はなく、むしろ彼の中身を好きになったというその子と仲良くなれる気がした。けれど、どうしても自分と照らし合わせてしまって、ただ悲しかったのだ。

 正直私だって、彼の容姿や性格と釣り合っているとは思えない。でも人間なんて、皮を剝いだらみんな肉の塊でしかない。そうであるならば、肉の塊から彼を選び出せるくらい、彼の中身を愛していなければいけないのだと思う。そもそも釣り合うなんて概念自体、誰かが勝手に決めた尺度でしかなく、絶対的価値とは言えない。

 それでももし、そんなことを言われるような日が来たら、その子の代わりにも言ってやろう。

 それでも、彼は私を選んだのよ、と。

 そう言えるくらいの悪女になってやろう。

 しかし、私のその淡白な態度に、彼は違和感を覚えたのだろうか。

「そういうのじゃない人もいた?」

 私の方は見ていなかったが、その関心は私の首元を狙うようにこちらを向いていた。

「そういうのって?」

「付き合ってはないけど、会ってた人、みたいな。経験ない訳ではないんやろ?」

 何と答えるべきか迷ったが、正直に答えることにした。

「いたよ」
 
 嘘は嘘で隠していくしかない。そこにはまったら結局、泥沼で。

 彼を傷つけないために、嘘で守ろうとしたけれど、私からそれが漏れてしまった時、きっと今よりも彼を傷つけてしまうと思った。

 いや、でもこれはきっと、ずるい選択なのだろう。私が嘘をつきたくないから、その代わりに彼に傷ついてもらっているだけだ。

「その人のこと、好きになったりしなかった?」

「全然」と即答する。それを聞いた彼は少し安心したように肩の力を抜いて、さらに深く安心するために続けた。

「その人に会いたくなることはないの?」

「んー、ないけど…」

「けど、なに?」

「けど、元気でいてほしいかな」

 
 体だけの関係だったその人は、案外いい人だった。

 友達に誘われて行った飲み会で、私は京平と出会った。同い年で、無駄に高身長の大酒飲み。私の友達と仲が良いだけあって話が弾み、後日二人で飲みに行った。京平はかなりの酒豪で、相手の顔色が変わらないせいもあってか、私は完全にペースを間違え、気付いたら彼の部屋にいた。もう覚えていないのだが、私はベッドの上で「好きにはならないけど、また来てもいいかな?」と聞いたらしい。朝起きて、昨日の記憶を取り戻す作業に付き合ってもらっている時に、そのことを聞いた。

「…あの、ごめんね?ほんとに覚えてなくて」

 それでも彼は、にこやかに言った。

「絃がいいなら、また来なよ。好きにならない方が、ちょうどいいんでしょ?」

 それから私は、電車で四十分ほど離れた彼の家に、ふらっと通うようになった。

 好きでもない相手に抱かれて眠るのは、楽に人を好きになれた振りが出来て嬉しかった。彼が相手なら、気持ちは伴っていなくても、相手の全てを受け入れなくてもいい。それが私に合っている。期待しない、期待されない関係が心地よかった。

 「君に会うために頑張る」という京平からのラインを、「ヤるために頑張る」と受け取る。言葉と気持ちなんて私には必要なくて、ただその行為だけが必要だった。

 だから、私は京平のことをあまりよく知らない。ハンバーガーが好きなこと、最後に見た父の記憶が母親を殴っている姿だったこと、それから一家離散して一人暮らしをしていること、脳に機械が入っていておそらく長くは生きられないこと。それくらい。

 いや、これだけ知っていて「知らない」というのも少し違う気はするが、思い出そうとしないと出てこない時点で、大して気にも止めていないということなのだと思う。ただ事実として知っているだけで、それに感情が乗ることも、乗せようとすることもない。きっと、知らないというより知ろうとしていなかっただけなのだ。

 私達に未来なんてないのだから、知らないまま抱かれたかった。強いて言うなら、互いの性感帯だけ知っていれば、それで十分だった。

 友達にこの関係を説明すると、決まって「相手のこと好きなったりしないの?」と聞かれたが、そんなことある訳がなかった。だって、どんな言葉もどんな行動も、所詮は前戯でしかないのだから。

 しかし、体だけの関係を想像すると、互いに利用し利用されるような冷たい関係のように思われるが、実際はそうでもなかった。買い物に付き合ってもらったり、ゲームをしたり、ホラー映画を見たり、どうでもいいことをラインしたり、まるで普通の友達のように仲良くしていた。私はそれが少し不思議で、それでいて楽しかった。

「京平ってさ」

 ふと気になって、コントローラーを握りながら彼に聞いた。

「こんな関係なのに、私のこと無碍に扱わないよね」

「どゆこと?無碍にされたいの?」

 京平はコントローラーを動かしながら笑った。

「そうじゃなくて。普通はもっと冷たいもんだと思ってたからさ。無碍にしてくれてもいいのに、京平はしないなって」

「しないよ。されたくないでしょ、普通」

 そして、軽く付け足す。

「それに、俺は愛のあるセックスしかしたくないから」

「愛?ないでしょ、そんなの」

「おっけ、絶対負かす」

 彼との関係は、楽だった。

 それはきっと、常に終わりを考えていたからなのかもしれない。簡単に切れる関係だから、余計な気を回さなくて済んでいた。

 私は、恋愛における関係性を、ロケット鉛筆みたいだと思っている。

 今の人との関係を断つために、次の人と関係を持つ。あなたと関係を持たないために、違う人と関係を持つ。

 代わりなんていないはずなのに、違う人で埋めようとする。いや、絶対的に必要な誰かなんていないから、なのかもしれない。

 ある日、京平の部屋に入った瞬間、彼が言った。

「絃が来ると、部屋が一気に絃の匂いになるね」

「そう?」

「うん。いい匂い」

「あ、あれ知ってる?人が最後まで忘れられないのは、顔とか声じゃなくて、匂いなんだって」

「なんか聞いたことあるな」

 私は心の中で呟く。

 ――でも忘れてね。

 そして、私達は約束する。どちらかに恋人が出来た時、この関係を終わりにすると。

  

 新さんと付き合ってすぐの頃に、京平から連絡が来た。

“次、いつにする?”

 契約解除の時が来た。

“あのさ、わたし彼氏できた。だから、もう会えない”

 既読が付いて、それから返信が来るまでの時間をやけに長く感じた。

“そっか”

“今までありがとう。楽しかった”

“分かった。おめでと”

 彼はもともと、人を好きになることはあまりないと言っていた。だからこそ、お互いこの契約が終わることなんてきっと想像もしていなかった。

 それでも最後まで、彼はいい人だった。どんなに体を重ねても、彼に好きという感情を抱くことはなかったけれど、それでも、いい友達ではあった。それを失うのが、ほんの少しだけ寂しかった。

 名前と少しの悲しい過去しか知らない彼の顔や声は、もうほとんど思い出せない。

 けれど、街ですれ違った香りに、ふと彼を思い出して、振り返ってしまうことがある。

 ――ねえ。あの話は、本当だったみたいだよ。

 

「本当にもう会ってないですよ」

「大丈夫。心配してないよ」

 言葉と表情の乖離が激しい。余計なことを言ってしまった自覚はあった。

「ごめん。大丈夫じゃなさそうですけど」

 そう言って彼の袖を引き、そっと抱き寄せた。安心のさせ方が分からなかった。

 こんなこと言わなくてよかったのかもしれないけど、それでも少し強引に、彼じゃなくて今はあなたを見ているということを伝えたかった。

 恋人の過去をライバル視してしまうのは当たり前のことだ。私の場合は、京平と付き合ってすらいなかったのだが、相手の記憶の中だけにいるその人と戦い続けて、比較して、しかしいつまで経っても勝てたようには思えない。思い出の中にいる人間は、都合よく美化される。欠点も、言葉も、温度も、全部が整えられて、現実よりもずっと綺麗な形で残る。それでも相手の影に誰かを感じてしまう。

 きっとそれは、今のこの人を作った一片に、誰かがいるから。

 そしてその人もまた、自分のように相手に必要としていたから。

 私は新さんの過去に嫉妬することはなかった。そして、今彼の周りにいる女の子にも。束縛をしてしまうは、相手が離れていくことを前提にしている行為なのかもしれない。そうなのだとしたら、私は彼が離れていくことを、どこかで想像していないのだと思う。それは、信用しているからなのか。それとも、最初から、失うことに慣れているだけなのか。自分でも、まだよく分からない。


 

第六章 同じ本


 ぐだぐだと過ごしていた春休みが明けてしまった。久しぶりに大学に行くと、おしゃれな服を着て、やけに気合いの入った一年生らしき学生で溢れている。

 三年にもなると単位もだいたい取り切って、講義の数も少なくなる。講義と講義の空いた時間に、私はいつもの場所へ向かった。大学の最上階にある勉強スペース。友達と話したり食事をとるのに最適で、静かすぎる図書館よりも、少しだけ生活音のあるこの場所が好きだった。

 空いている席を見つけて、そこで新さんが好きだと言っていた作家の新作を開いて、頬杖をつく。彼が前におすすめしてくれた作家。正直私には難しくて、読み終わるといつも「どういうこと?」と彼に聞いた。それを彼がいつも説明して、私が理解して。ネットで調べればいいのだろうけど、それはしなかった。彼の本と彼はセットだったから。

「何読んでるの?」

 突然、声を掛けられた。

 その声で、分かってしまった。振り返る前から、この声の主が誰なのか分かってしまう。そういう人は、人生に何人もいない。

 ゆっくり振り返ると、やっぱり、そうだった。

 髪の毛が少し伸びたこと以外、何も変わっていない。

「…亮介?」

「久しぶり」

 彼は短く笑って、向かいの席に腰を下ろす。どうして当たり前のように、いつものように、私の目の前に座れるのだろう。

 同じ本を好きだった人。そして、好きだった、かもしれない人。
 


 亮介との出会いは、大学のある講義だった。

 見るからにチャラそうな男が隣に座ってきたことに、私は軽い嫌悪とほんの少しの恐怖を感じていた。こんな人とは出来るだけ関わらないのが筋である。

 講義が終わり、本を読みながら一人弁当を広げていると、誰かが話しかけてきた。

「何読んでるの?」

 さっきの男だ。なぜこんな人がわざわざ私に声をかけてくるのかが分からない。

「読みながら食べるって器用だね」
 
 卵焼きを口に入れながら、仕方なく本の表紙を見せると、彼は「へー」とだけ言った。なんだそれ。へらへらしながら「それ美味しい?」と聞いてくる。生理前なのか妙に腹が立った。浮ついた人間に付き合うほど私は暇ではないし、なんといってもただ舐められたくなかったのだ。

「本とか読まないでしょ」

「俺、結構読むよ」

「嘘だ」

「ほんとほんと」

「じゃあ、何が好きなの?」

「えーなんだろ。あ、『殺戮に至る病』って知ってる?」

「え?」

「知ってる?」

「うん」

「ほんと⁉あれ面白いよねー」

 彼は子供のように、目をキラキラさせて喜んでいた。

 しばらく彼を観察する。金髪混じりのパーマに、腰の下あたりで履いたズボン。肩幅以上に足を広げ、まるでエッフェル塔のように立っている。彼はあまりにも初めて会うタイプの人種なもので、この人はどういう人生の過ごし方をしてきたのか、まで考えてしまう。

 それから彼は、授業の度に必ず話しかけてきた。授業がない日でも、私を見かけたら声をかけ、バイクがどうたら、サッカーがどうたら、くだらない話をする。私が喫煙者だと知ってからは、「一緒に喫煙所行かない?」と誘ってくるようになり、特に断る理由もなかったので、何度か一緒についていった。友達がいない訳でもなさそうだし、風の噂で彼女がいるということも知っていた。

 私のことが好きなのか、ヤりたいだけなのか、はたまたそれ以外なのか、彼の行動原理がまるで分からなかった。それでも、彼と話すのを少し楽しみにしている自分がいて、そんな自分が手のひらで遊ばれているようで嫌だった。落ち着きなくふらふらしていて、ただひたすらに明るく、大胆な彼のことが私はきっと好きだった。いや、何よりもその顔が好みだった。

 そんな彼と喫煙所に行った日、彼氏のいない私に友達を紹介すると彼が言った。

「絃ちゃんにイケメン紹介するよ。俺の幼馴染」

 彼に彼女がいることは知っている。ただ、それを私に隠しているようだったので、少し試してみたくなった。

「ねえ、あなたのことは紹介してくれないの?」

 彼は困ったように笑って、私の顔を見ないままに言った。

「俺は紹介する価値のない人間だから」

「えー、つまんないの」

「可愛いのにもったいないよ」

「なんだそれ」

 私を自分のものにしようとしないくせに、ただ可愛いとだけ言って、私に声をかける。そんな無責任な彼を、私は嫌いになり切れなかった。

 寒さで凍える私を見て、彼は着ていたダウンを脱いで私に着せた。彼は私の手を握ることも、抱きしめることもしない。しかしその温もりはきっと、手を握られた時や、抱きしめられた時の瞬間的な温かさよりも、じっくりと私を温めた。

 学年が上がるともう会うことはない。だから私は最後に、彼を大学の喫煙所に呼んだ。

「会えなくなるのは寂しいね」

 どの口が言っているのだろう、と思いながら呆れたように笑う。

「そんなことないでしょ」

「え、冷たーい」

「いいじゃん。彼女いるんだし」

 彼はただ、黙っていた。後ろから刺されたように顔の動きが止まっている。

「なんか隠してるみたいだったから、今まで聞かなかったけど。彼女、いるんでしょ?」

「いるよ」

 なんだか気まずそうに笑っているのが癪に障る。嫉妬もないし、失望もない。好きだと思っていたけれど、勘違いだったのかもしれない。もうどうでもよかった。

「言わない方がいいと思って」

「早く言ってほしかったよ。距離感がずっと分かんなかったし」

 何か言いたげな彼との間に、白く靄のかかった時間が流れる。

「じゃあ、最後だし、昔のこと話していい?」

 とりあえず頷き、聞くことにした。

 彼の行動原理。これが私の一番知りたかったことで、そして今ようやく答え合わせができる。

「俺さ、初めて見た時に、絃ちゃんのことが気になっちゃって、誰かに話しかけたりとかしたことなかったんだけど、なんか話しかけててさ。毎週の授業も楽しみにしてて、絃ちゃんがいないと『なんだ、今日あいついねーじゃん』ってがっかりしててさ」

「…ほう」

「でも俺、浮気性だから、彼女いても三ヶ月続いたことなくて。でも今の彼女とはもう1年経ちそうでさ。だから、中途半端なことしてた」

「…なるほど」

 ずっと聞けなかった答えを知った。

 くだらなかった。

 くだらなすぎて、気付けばゲラゲラ笑っていた。それを見た彼も釣られて笑っていて、なんだかすごく、アホらしかった。でもただ、一目見て私を気に入ってくれたという事実が嬉しかった。私の努力が報われたと思えたから。

「面白いね。あと迷惑だね、すごく」

「ごめん、でも可愛いから」

「困るよ、だって同時に人を二人好きになっちゃいけないんだもん」

 好きな食べ物が何個かあって、その一位を決められないように、何人かの人を同時に好きになることはあるのだと思う。しかしそれを、世間と常識が許さない。一夫一妻制の日本に生まれたからには、一人が一人を愛さなければならない。彼は一年という期間に囚われている。ただ一緒にいた一年なんて、私には関係のないことだ。

「彼女は煙草吸うの?」

「いや、吸わないし、お酒も飲まない」

「私、煙草もお酒も好きだけど、どうかな?」

 私は冗談で言ったつもりだったのに、彼は頭を抱えて悩み始めた。

「ダメだよ」

 笑って彼の目を見つめた。悩んではいけないのだ、と。

「すぐ彼女を選ばないと」

 私が彼を揺さぶっても、確実に彼女を選んでほしかった。そうでもないと、私が揺らいでしまうから。

「じゃあさ」

 大きく煙を吸って、この二人の打開策を提示する。

「後悔したらいいと思うよ」

 もう、終わりにしよう。

「私を選ばなかったこと」

 

 それから約一年、彼をうまく忘れようとしていたのに、無理矢理リボンをかけて閉じ込めた思い出を、彼は簡単にハサミで切り裂くようにこじ開けた。

「元気、だった?」

「うん、まあ」

 心は健康なテンション感なのに、体はいつも不健康だった彼。今日はそのテンションすらも不健康そうだった。

「野菜食べてる?」

「あー、うん。たまにね」

 元気だったかどうかなんて、この際あまり関係ない気がした。

「そっか」

 そっちから話しかけてきたくせに何も言わないので、そっぽを向いた。前みたいにただ、くだらない話でもしてくれたらいいのに。

「あのさ」

「なに」

「俺、別れた」

「え?」

「彼女」

「…そう」
 
 一年という期間を選んだくせに、彼は簡単にその彼女を手放していた。

「でも、長く続いてたから別れられないって言ってたじゃん。良かったの?」

「うん」

「なんで?」

「んー、耐えられなかったから」

 何に、という言葉が出かけたが、辞めておいた。私が読んでいた本が目に入ったのだ。

 私はこれ以上、彼を知る必要はない。

 今の私には彼氏がいる。それなのに、それを彼に言えなかった。終わったはずの物語が実は未完で、続編が読めるかもしれないという予感みたいなものを感じてしまったのだ。

「…ごめん、邪魔したかな」

「いや、大丈夫だけど」

「ずっと会いたかった」

「あは、なんだそれ」

 ため息をつく。とても、迷惑。

「彼女がいたら会ってくれないと思って」

「それは…、そうだね」

「また見つけられて良かった。じゃあ、またね」

 その言葉が、ただの挨拶なのか、続きの予告なのか分からない。

 彼の背中を見送る。追いかけたい訳ではない。でも、完全に終わったとも思えない。私はその場に取り残され少しだけ呆然としてから、席を立った。

 ようやく息ができる気がした。
 


 昼過ぎに大学が終わった。講義中もずっと違うことを考えていた気がする。

 電車に乗ると席は空いていて、日の当たる温かい車内からは外がはっきりと見える。昼に乗る電車ほど、人間をほのぼのさせるものはない。どこか懐かし気に、ゆっくりと時間が過ぎ、電車が私を運んでくれる。電車に乗っている時間だけは、何もしなくていい権利を与えられているようで好きだった。顔に当たる風は体温より少し暖かくて心地よい。

 電車を降りて最寄りの駐輪場に向かうと、その横にある美容院から一人の女性が出てきた。肩くらいにある毛先を、恥ずかしそうに撫でながら微笑んでいる。きっとかなりの長さを切ったのだろう。その姿を見て、何だか微笑ましくなったのだが、でも同時に考えてしまった。

 新しい姿に感動して興奮し、やがてその長さにも慣れ、そして飽きてゆく。

 恋愛も同じだ。二人の関係に慣れる。飽きる。当たり前だと思う。特別が日常になる。彼と会う回数が増えてゆくにつれて、運命で結ばれていたはずだった彼は、普通の人だったということに気付かされてゆく。運命の赤い糸が時間と共に色褪せてゆく。

 ふと、分からなくなる。どうして今、この人と一緒にいるんだろう、と。

 いや、違う違う。好きだからだ。

 私は人を好きになれている。化け物でもないし、宇宙人でもない。ちゃんと人を愛せる人間なんだ。

 でも、好き、って何なのだろう。一緒にいる理由を、あとから「好き」で説明しているだけじゃないのか。離れないため、維持するための言葉として、都合よく使っているだけじゃないのか。

 それでも、それでも私は、好きだと、思っていたい。そうじゃないと、ここにいる理由が、なくなってしまう気がするから。

 でも、私はなぜ愛を信じられないのだろうか。始まる時に終わりを想像してしまうのは、なぜなのだろうか。

 原因の一つとして、最初に私の家庭環境が浮かんだ。

 私の家族は、絶望的に仲が悪いとは言えないが、愛はやがて消え失せるということを学ぶには十分すぎる環境だった。夫婦仲は悪く、会話はない。母は父に対して既に三回離婚を申し込んでいて、もう切れいている糸を何度も結びなおしている。

 父は私達のいない所で聞こえるようにため息をつく人だった。そして私達は、そのため息を意訳した。風呂場の使い方が悪かったんだな、お皿がそのままになっているのが嫌なんだな、とか。人のため息を自分で補完し始めたら終わりだと思う。

 結婚しても、ずっと恋人みたいな関係でいたいとは思わない。ただマイナスもプラスもなく、空気のような存在になれたらいいなと思う。いても違和感がなく、しかし生きるのには必要な存在。

 両親のような夫婦になりたくはないが、ならない自信はあまりない。恋愛と結婚が確定で絡んでくる時点で、上手くいくことは少ないのだと思う。

 なぜなら、一緒にいる理由を、好きだからという不安定で無常なものに頼っているのだから。


第七章 スノードロップ 


 その日から、ふとした瞬間に亮介のことを思い出すようになった。

 でもそれは、戻りたいとか浮ついたものではなくて、ただ途中で閉じてしまった物語の続きが読めるかもしれないという好奇心みたいなものだった。どうでもいいし、迷惑だし、彼と会わない理由はいくらでも挙げられるけれど、会いたくない理由は特に挙げられなかった。

 隣にいるのは、今の彼なのに。どうしてこうも簡単に、違う人のことを考えてしまうのだろう。彼の本棚を見て彼のことだけを考えられていたのに、今は他の誰かが混ざる。新さんの部屋にいるのに、どうしようもなく湧いてくる罪悪感のようなものに蝕まれて、私はなんとなく話してしまった。

「最近さ、大学で久しぶりに会った人がいて」

「うん」

「前に話した、あの、同じ本が好きだった人」

「……へえ」

 京平の話をした時と同じ顔だ。

「なんか言ってた?」

「なんか、別れたらしくて」

「…そっか」

「それだけ…」

 テレビの音が二人の沈黙を埋めている。

「その人のこと、まだ気になるの?」

「いや、そういうんじゃなくて。ただ、色々思い出しちゃって、モヤモヤしたというか」

「じゃあ、なんでその話するの?」

 話したのは自分なのに、消しゴムで消そうとして、それがボールペンで食い込むように刻み込んでしまっていたことに、今更気付く。

「……なんとなく」

「なんとなくで言われるの、結構きついよ」

「そう、だよね。ごめん」

「…あのさ」

 彼の視線の先には、何が映っているのだろう。私ではなく、その奥を見つめているという不吉な予感だけが背筋をなぞる。

「最近ちょっと冷めてきてない?」

「え、そんなことないよ。なんで?」

「ラインもそんなに返ってこなくなったし、会う回数も段々減ってきて、会ったとしても部屋にいるだけやし」

「それは…、最近忙しくて」

「こんなこと言いたくないけど、俺だけが好きな気がする」

「そんなことないよ!ちゃんと、私も好きだよ」

「ちゃんと?」

 あ、間違えた。
 
 ちゃんと、という言葉を使ってしまった時点で、自分の中にも疑いがあることを認めてしまったような気がする。嘘ではない。でも、全部でもない。

 重い沈黙のあと、彼は少しだけ視線を落として、それから小さく息を吐く。

「……変わったよね」

「え?」

「なんか前より、ちょっと冷たいっていうか」

「変わったんじゃないよ」

 私の嫌いな言葉を、もう一つ思い出した。

「私のこと、知らなかっただけだよ」

 変わったと言われると、今の私を否定されているような気がする。相手が勝手に思い描いていた「私」という理想像が崩れただけのことなのに、それを私のせいされている気がして嫌だった。

 しかし、新さんといるときの自分は、少しだけ可愛い。女の子らしく猫撫で声を出して、否定的なこともあまり言わないようにした。でも、亮介といる時の私は、何も変わらなかった気がする。皮肉を言っても、彼は大きく「ひどいじゃーん!」と言って笑い飛ばした。「可愛いのに生意気で、そんなところも可愛い」と。

 ありのままの自分で生きると決めていたのに、気付けば作り物の自分がいて、それを作ったのは私なのに、彼のせいにしてしまっている。

「そうなのかな」

 彼は小さく頷く。

「じゃあ俺が、勘違いしてただけなんやな」

「そういうことじゃなくて」

 中身が空っぽの、“そういうことじゃない“。

「……いや、ええよ」

 彼はすかしたように笑った。

「むしろ、納得した」

「何を?」

 彼の中で、もう答えが出てしまっているのが分かる。

「絃ちゃんはさ、ちゃんと一人で生きていける人やと思う」

「みんな基本、一人でしょ?」

「それってすごいことなんやけどさ」

「…うん」

「俺がいなくてもいい人、ってことでもあるやん」

「なにそれ。好きだから一緒にいるんだよ?」

 思わず強く声を荒げる。私は彼が好きなのに、彼はもう何を言っても聞いてくれないようだった。

「君はさ、俺の昔の恋愛の話、面白がって聞くよね」

「…え?」

「嫉妬とか、せえへんし」

 彼は私を「君」と言った。彼には私がもう、違う人に見えているのだろうか。

「それがさ、俺に興味ないみたいで」

「興味ないわけないでしょ?興味あるから聞くんだよ」

「普通は元カノの話とか嫌がるやろ」

「普通はそうなのかもしれないけど、今は私を選んでくれてるじゃん。それが嬉しいんだよ。色んな人を知ったうえで、それでも一緒にいてくれてるって思えるから」

 よく彼に聞こえるように、少しだけ息を吸う。

「私は、今の新さんが好きだよ」

 彼は小さく笑った。優しい顔だった。でも、その優しさはもう、こちらに向いていない気がした。安心とかそんなものではなく、悟りのような、諦めのようなもの。

 人って最後には諦めてしまうものだから。

「こうやって話したこと無かったな」

「…そうだね」

 そう言えばそうだ。足りない言葉を、体の重なりで埋めようとして、口づけのあとに二人を繋ぐ銀の糸を、運命の赤い糸だと思い込んでいた。

 私は彼の、何を知っているのだろうか。

「君は聞いたら何でも答えてくれるし、嘘もつかない。だけど、自分から話すことはないよね」

 心当たりがあって、何も言えない。辛かった思い出も、家族のことも、そして過去の恋愛も、自分から話したことはなかった。話したくなかった訳ではなく、自分で十分抱えきれていたのだ。

「辛いんだよ。聞く方が辛い。それが嫉妬になったりするから、聞かない方がいいとも思うけど、知りたくなっちゃうんだよ。君が言わないから」

 分からなかった。好きが伝わらないこと、何を言っていないからこの好きが彼に伝わらないのか、なぜ彼が苦しんでいるのか。

「ごめん。もうどうしたらええか、分からへん」

 私も分からないよ。だからもう、何も言えないよ。

「話してくれても、それは俺を信頼してるからやなくて、聞かれたから話してるだけなんやろ?」

「違うよ…。信頼してるからだよ」

 この世には、両想いなぞ存在しないのだ。

 片想いの矢印が互いを向き合っている、それだけだ。その矢印の形や重さは違うから、互いを向き合っているはずなのに段々と歪んでいく。なんと無情な世界なのだろう。

「俺には君が必要だけど、君は俺が必要な振りしてないかな」

「そんなことないって…」

「出会った時にさ、君は恋愛を必要としてないって言ってたよね?」

「それは昔の話で…」

「それがずっと引っ掛かってて。じゃあなんでこの子は俺と付き合ってるのかなって」

「今は必要なんだよ。恋愛と、あなたが」

「嘘でもいいと思った。俺を好きじゃなくても、一緒にいてくれたらいいなって。でも、君にずっと嘘をつかせ続けることになる。それはただのエゴやろ。もうさ、俺は君の好きを信じられないんや。でもこれは君のせいやない。俺が、おかしいんや」

 もう、何を言っても彼は私を信じてくれない。それが、私にできた亀裂に丁度追い打ちをかけるように矢を刺した。

「ごめん。今日バイトあるから、もう出るね」

「…いつもみたいに、なんだそれ、って笑ってほしかったんだ」

 この人は、誰と喋っているのだろう。もうずっと前から、会話が成り立っていなかったような気がする。

 玄関の扉を開ける音に混ぜて呟く。

「これが、私なんだよ…」

 それから私は、彼との関係回復に努めた。連絡を増やして、部屋以外の場所で会って、ちゃんと「好き」を言葉にした。しかし、一度絡まった糸を解こうとして余計絡まっていくように、私達の関係は時間すらも解決してくれなかった。それはきっと、続けるための努力になっていて、好きだから一緒にいる、という形からは少しずれていたのだろう。

 多分、絡まった糸は、あの時すでに、千切れていたのかもしれない。


 そして数週間後、彼から「話がある」と連絡がきた。私は終わりを予感して、忙しさを理由に先延ばしにしていたのだが、彼は結局、私の大学まで来た。

「ごめんね。来てもらっちゃって」

「ええよ。俺が来たかったんやから」

 そうだ。彼は私と話しに来た。終末を告げる死神を連れて。

「あ、新さん。これ」

 私は、鞄から綺麗に包装された箱を手渡した。

「なにこれ?」

「誕生日、もうすぐでしょ?」

「あ、そうだった」

「ふふ、忘れてたの?」

「ありがとう。開けてもいい?」

「もちろん」

 綺麗な包み紙を綺麗に剥がす。彼の口からその話が放たれるまで、少し時間を稼いで、出来ることならば話すことを忘れて帰ってほしかった。

「…香水?」

「そう。気に入るといいけど」

 彼は小さく匂いを嗅いで、

「うん、いい匂い」と、言った。

「煙草の匂いとか気になるかなって」

「確かにそうだね。これは何の匂い?」

「スノードロップっていう花の匂い」

「へー、聞いたことないな」

「私が好きな花なの。その花言葉がね、聖書が由来になってて、それがすごく素敵で好きなの」

「どんな話?」

「アダムとイブが楽園から追放されたあとの世界は雪に覆われていて、二人はその世界で絶望するんだけど、その時に天使がやってきて、雪をスノードロップの花に変えて見せたっていう話」

「うん、すごく素敵だね」

 スノードロップの花言葉は三つある。

 「希望」「慰め」と、あと何だったかな。

 壊れた関係にも、かすかに残る救いを、希望を、私は求めていた。私たち二人の間に降る雪が、白くて綺麗な花になればいいのに。

 そうして意味もない雑な会話をして、花が降るのを待った。

「あのさ、話なんだけどさ」

 大学の外では雨が降っている。傘、忘れちゃったな。

「俺たち、終わりにしよっか」

 勘違いであってほしかった。私の勘を、当てさせないでほしかった。

「やっぱり、もう駄目なのかな?」

「…そうだね」

「…そう、だよね」

 終わった二人はどんな会話をしたらいいのだろう。それぞれがバラバラに帰るしかないのだろうか。引き止めたいけれど、それが叶わないことくらいもう分かっていた。

 すると、彼は目に涙を溜めて言った。

「…俺はさ、強い絃ちゃんを好きになって。でも、それが段々辛くなって。これは絃ちゃんのせいじゃない。俺が弱かったんだ。自分をちゃんと持ってる絃ちゃんが、かっこよくて、綺麗で、大好きだった。俺の支えだったんだ。でも、絃ちゃんが魅力的なのは、俺に執着してないからなんだって、いつも遠くを見ているからなんだって、そう思った」

「ちょっと一旦待って」

「ごめん、ほんとに。好きだった」

 勝手に進んでいく彼をもう救いようがない。

「ひどいよ」

「ごめん」

「ひどい。ひどすぎる。別れるんだったら、好きだったところじゃなくて、嫌いだったところを言ってよ。ちゃんと、離れられないじゃん…」

 ひどいのは私の方だ。別れる時に誕生日プレゼントを渡して、それがよりにもよって香水で、その花の名前も教えて。

「私の大学で別れ話なんかして。大学来るたびに思い出しちゃうじゃん」

 ――あぁもう、さいあく。

 

 私は彼を愛せていたのだろうか。
 
 人を好きだったのか、人を好きになれる自分のことだけが好きだったのか、どっちだったのだろう。誰かを愛せない代わりに自分を愛そうと思うが、結局その自分を私ですら愛せなかったのだ。

 だから、愛そうとした。彼と私を。私が人を好きになれることを証明するために。


第八章 懺悔


 彼と別れて私は、亮介に会いに行った。

 この人なら好きになれるかもしれないという淡い期待を抱いて。

 しかし、やたらとホテルに入りたがる彼に、「付き合ってからそういうことがしたい」と言ったけれど、結局、「一回間違えよ」と言われ、半ば強引に押し倒されて、寝た。

 好きだったかもしれない彼との関係は、たった20分のセックスで終わった。

 行為自体が嫌だったわけではない。確証はないけれど、ちゃんと適正に手続きを踏んでいかなければ、恋愛の形が歪んでしまうと思ったのだ。行為自体は簡単だ。ただそれが持つ意味とやらが、関係を複雑にするのだ。

 そして、そのままカラオケに行って彼の歌を聞いていたら、彼のことを好きではなかったことに気付いた。気持ちよさそうにラブソングを歌う彼を見て、ラブソングに失礼だと思った。

 ずっと分からなかった。私は彼のことを好きなのか。でも、好きだと思いたかった。会いたいと何度も思った。顔を見れた時は嬉しかった。でも好きだったのは、彼の顔と、偶然の重なり。言動は全く好きになれない。ただその顔が付いているから許せていた。

 もう飽きた。見飽きた。かっこ悪い。ダサい。面白くない。

 この人が選ぶ彼女はどんな人なんだろうと思っていたけれど、きっと大したことはないのだと思う。だって、私が大した女じゃないから。

 彼は、いま私達が会っている時間を、「デート」と呼んだ。

 何なのだろうか、デートって。男女が会っていたら、デートなのか。私はそんな名前が付いているなんて知らなかった。そんな綺麗なものだと思っていなかったから。

 次の日、大学で彼が私の鞄に入れたまま忘れて帰ったリムレスの伊達眼鏡を返した。好きだった顔もかっこよく見えなかった。話もつまらないし、少し残った青髭が汚らしい。

 もうどうでもよくなった。「今度ゲーセン行こう」とか「今度料理作ってあげる」とか、どういう意味なのかも分からなかったし、彼がどういうつもりで私と会っているのかも分からなかった。

 彼の言葉に遠慮して、わざわざ会ってくれたからと体を預けても、結局その選択の責任を取るのは私だった。

 好きが分からない私は、簡単に誰とでも寝た。

 私は人間じゃない。好きを「始める」と言っている時点で。
 

 私は今、亮介と付き合っている。なんとなく。

 彼氏ではあるけれど、常に他の誰かを探している気がする。

 付き合うことのゴールって、結婚するか、別れるかの二択しかない。けれど、今の彼とはどちらも考えられない。というか、土俵にすら立っていない。

 結婚を考えられる人と出会うまでは、彼を小脇に抱えてただ私の承認欲求を満たしてもらおうと思う。

 

 ある日の夕方、大学から帰る道中にブランコのある公園を見つけた。

 ――ああ、これは呪いだったのね。
 
 松田新は、私に呪いをかけた。

 もうブランコにも乗れないし、天津飯も食べられない。通り過ぎていた景色に足を止めてしまう。また違う人を好きになってもこの呪いは終わらない。

 彼は証明してくれた。

 私が人を愛せないことを。

 

 しかし、私は少しの希望と少しの意地悪心から、こう思うのだ。

 呪いは返ってくる、と。

 生霊を飛ばすという呪いのような行為は、本人も無自覚なことが多い。だが、飛ばしている本人が体調不良になることがある。これは、生霊を飛ばす行為に気付かず魂を消費しているからだそうだ。そうだとすると、私に呪いをかけた彼にも呪いがかかっているのではないだろうか。彼のことを恨んでいるとか、不幸になってほしいとか、そんなことは全く思わない。どうか私をすっかり忘れていってほしい。

 いや、私のように苦しんでいてほしい。

 ごめんなさい。こんなことを考えてしまって。ずるい私を許してほしい。もう我が儘なんて言えないのは分かっているけれど、私だけ辛いのに耐えきれなくて、あなたも同じだったらいいのにと思ってしまう。好きをくれたあなたには元気でいてほしいけれど、あなたが好きをくれなくなったこと、私に気付かせてしまったことに耐えられない。

 あなたに呪われているのか、好きという感情に呪われているのか、もう分からない。

 

 あ、思い出した。スノードロップの三つ目の花言葉。

「あなたの死を望みます」


 その後開催された定例会で私は、彼と別れたこと、昔気になっていた人とホテルに行ってしまったことを話した。皆が興味津々なようでかなりお酒が進み、私が苦しんでいたことが碌な話ではなかったことに気付く。もう話のネタになれば、それでよかった。

 喫煙所に向かって久しぶりに紙タバコを吸おうとしたのだが、ライターを忘れてしまっていた。そうして私は気付く。

 もう火をつけてくれる人はいないのだと。

「どこ行ったかな、鯖のライター」

 
 太陽ではなく、月を見てあなたを思い出す。

 私は、あなたを見上げることしか出来ないし、あなたを照らす太陽は、私ではなかったみたいだよ。

 私に好きをくれてありがとう。あなたに好きを上げられなくてごめんね。


 ごめんなさい。これは私の懺悔だ。


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