ラジオの向こうが泣くから、ここでは笑う
午後十一時五十五分。
地方局の七階。誰もいない廊下の突き当たりに、小さなプレートが光っている。
第一スタジオ。
引き戸を開けると、独特の機械油の匂いと、ひやりとした空気が雨音を迎えた。
「おはようございまーす」
夜なのに、口から出てくるのは「おはようございます」だ。
この言葉を、何度口にしてきただろう。
十年分の生放送と同じだけ、スタジオの空気に溶けている。
「おう、おはよう、雨音」
ガラスの向こう、サブブースでヘッドホンを首にかけた男が手を挙げた。
ディレクターの高梨だ。
肩をぐるぐる回している。徹夜明けの熊のような顔だった。
「今日が最後かと思うと、緊張するねえ」
「いや、毎週『今日も最終回です』って顔してましたよ、高梨さん」
「うるさい。生放送前にディレクターをいじるパーソナリティは売れないぞ」
「十年目にそれ言われるの、なかなか刺さるんですけど」
軽口を叩きながら、雨音はブースの椅子に腰を下ろした。
目の前には、一本のコンデンサーマイク。
その向こうに高梨。そして、そのさらに奥に、小さな背中が見える。
「あ、あの……今夜から入るADの、七瀬千夏です。よろしくお願いします」
千夏が頭を下げた。
ヘッドホンのコードが、びよんと弧を描く。
「よろしくね、千夏ちゃん。寝てない?」
「緊張で、ちょっとだけしか」
「じゃあ、本番中に寝なきゃ大丈夫。寝たらオンエアで名前呼ぶから」
「こ、怖いこと言わないでください」
笑い声が、狭いスタジオを柔らかく揺らした。
時計を見る。
二十三時五十七分。
「午前二時のポスト」は、日付が変わると同時に始まり、午前二時に終わる。
十年前、初めてこの椅子に座った夜のことを、雨音はまだ覚えている。
放送が終わったあと、泣きながら帰った。
話せなかったことが、多すぎた。
最初に届いたお便りは、母親の介護に疲れた人からだった。
何度も読み返して、何度も言葉を飲み込んで。
結局オンエアでは、当たり障りのないことしか返せなかった。
そのあと、誰もいない駅のホームでひとり、マフラーを濡らした。
そして、その夜に決めたのだ。
電波の向こうで泣いている誰かの代わりに、ここでは笑う。
このブースでは、泣かない。
「雨音」
高梨の声が、トークバック越しに聞こえた。
「いつも通りでいいからな。最終回だからって、特別なことしようと思うなよ」
「はーい。いつも通り十年目のテンションでいきまーす」
「それが一番怖いんだよ」
雨音は笑いながら、マイクを見つめた。
あと数分で、「午前二時のポスト」最後の放送が始まる。
――泣かない。
胸の奥で、いつもの言葉を繰り返す。
電波の向こうが泣くから、ここでは笑う。
最後まで、それだけは守ろう。
ジングルが流れた。
局名のコールとともに、時計が日付をまたぐ。
「日付が変わりまして、おはようございます。この時間は『午前二時のポスト』。パーソナリティの雨音です」
いつも通りの声が出た。
十年で少し低くなった気もする。
でも、深夜ラジオにはちょうどいい、少し眠たそうな声だと最近よく言われる。
「とうとうこの日が来てしまいました。十年続いた『午前二時のポスト』、今夜が最終回です」
少しだけ間を置く。
ガラスの向こうで、高梨が小さくうなずいた。
「今、運転中のあなたも、布団の中でイヤホンのあなたも、テスト勉強中のあなたも。『いや、いきなり最終回って言われても困るんですけど』ってね。あの、私も困ってます」
サブブースで千夏が笑う。
「『終わるときって、どうやって終わるんですか?』って、よく聞かれてきたんですけど。今日わかりました。局の偉い人に『来月の改編で終わります』って紙を渡されて終わります」
高梨が肩を震わせている。
「ただ、ひとつだけ。最初の放送から変わってないことがあります」
雨音は、ひと息置いた。
「この番組、十年間ずっと、『電波の向こうで泣いてる人のために、ここでは笑う』っていうつもりでやってきました」
まだ大丈夫。
声は笑っている。
「なので今夜も、できるだけ泣かずにいこうと思います。電波の向こうで泣いてる人がいたら、それはそれで。こっちは笑いながら、二時まで見張ってます」
自分で言って、少し笑う。
「というわけで、最終回のテーマはこちら」
台本をめくる音を、あえてマイクに乗せる。
「『一番泣いた夜、一番笑った一言』」
短いジングルが鳴った。
その間に、高梨の声が飛んでくる。
「いい入りだ。泣きそうになったら俺のほっぺた思い出せ」
「それはそれで悲しいんですけど」
雨音は最初のお便りに手を伸ばした。
最初の一通は、ハンドルネーム「湯気うどん」からだった。
『高校三年生の冬。第一志望の大学に落ちました。合格発表の掲示板の前で、友達の番号はあったのに、自分の番号がありませんでした。
帰り道、泣きすぎて、コンビニで立ち読みしていたマンガの内容を何ひとつ覚えていません』
「それはマンガにも失礼」
雨音はすかさずツッコんだ。
『でも、その日の深夜、たまたまつけたラジオで「午前二時のポスト」を知りました。
雨音さんが、「落ちた大学には、そもそもあなたの席が用意されてなかったんですよ」って言ってくれました』
「あ、言った気がする」
『あのとき、「あ、この人、適当なこと言うな」と思って笑いました。その笑いが、泣き疲れた胸に、ちょっとだけ風を通してくれました。
結局、私は第二志望の大学に進みました。
今では「あの掲示板に番号がなくてよかった」とさえ思っています。
あの夜、笑わせてくれてありがとうございました』
「こちらこそ、そんな適当なことを、よく覚えていてくださいました」
雨音は笑った。
「湯気うどん。あなたの涙は、第二志望のキャンパスにちゃんと席を用意してくれてたみたいです。落ちた大学にはなかったけどね」
少し間を置く。
「人生の受付窓口って、一個だけじゃないのかもしれません」
雨音は、マイクの前で小さく一礼した。
そのあとも、お便りは続いた。
仕事でミスをして、上司の前で大泣きしたあと、トイレの個室で番組を聞いて笑った人。
彼氏に振られて、ベランダで泣きながら聞いていた人。
病院のナースステーションで、夜勤の合間に片耳だけイヤホンをつけていた看護師。
それぞれの夜に、番組のいつもの笑いが混ざっていく。
雨音は言葉を選びながら、最後には必ず少しだけ笑える場所へ話を着地させた。
「ではここで一曲。番組開始当初から、何度もお届けしてきた曲です」
イントロが流れる。
雨音はマイクから少し離れ、ヘッドホンを片方だけ外した。
「千夏ちゃん」
「は、はい」
「緊張してる?」
「めちゃくちゃしてます。手がずっと汗で」
「私も十年前、冷や汗で原稿ベタベタでしたよ」
「本当ですか」
「本当。ディレクターに『原稿がシミだらけで読めない』って怒られました」
高梨がガラスの向こうで手を振った。
「そうだった、そうだった」
「千夏ちゃん、ラジオ好きなんだよね」
「はい。この番組を聞いて、ラジオ局で働きたいと思って……」
千夏の声が、ほんの少し震れた。
「す、すみません。なんか、ちょっと」
「いいよ。ディレクターより先に泣いたら勝ちだから」
「俺を巻き込むな」
三人で笑った。
時計は午前一時を指していた。
「ではここで、毎週この時間のお楽しみ。ハガキ職人コーナーに参りましょう」
ジングルが鳴る。
雨音は手元の束から、見慣れた名前を探した。
「今夜も届いております。『流星群』からのネタメール」
その名前を口にした瞬間、高梨が千夏に何かを耳打ちした。
流星群。
番組が始まったころから、ほぼ毎週のように便りを送ってくる常連だ。
眠気と闘うトラック運転手になりきった長文。
コンビニのレジから見える深夜の人間模様。
しょうもない一発ネタ。
ゲストが来られなくなった夜、流星群のメールだけで一コーナー乗り切ったこともある。
「今夜の流星群からのお便り、こちら」
珍しく、手書きだった。
『雨音さん、スタッフのみなさん、こんばんは。流星群です。
最終回だというのに、オチのない話でごめんなさい』
「最終回だから、逆に期待しちゃうけどね」
『十年前、たまたま夜中に目が覚めてラジオをつけたら、この番組が流れていました。
パーソナリティの人がやたらテンパっていて、噛みまくっていて、「あ、これは応援しないとすぐ終わるな」と思って、お便りを送り始めました』
「やめろ、その記憶は消したい」
サブブースから笑い声が聞こえる。
『ネタメールを書いているときだけ、自分の涙はどこかに置いておけました。
仕事がうまくいかない日も、病院のベッドの上でも、「これを読んだ雨音さんがどうツッコむかな」と考えていました』
雨音の目が、一瞬止まった。
『十年間、ありがとうございました。
この番組がなかったら、たぶん僕の夜は、もっと長くて暗かったと思います』
そこで文章は切れていた。
流星群なら、ここからくだらないオチが来る。
雨音は続きを待つように、紙をめくった。
そこには、一行だけ書かれていた。
『今夜、初めて、スタジオの外で聞いています』
雨音は顔を上げた。
ガラスのさらに向こう。
廊下に、小さな人影が立っている。
帽子を目深にかぶった、やせた男性。
胸元に、来館者用のネームホルダーが光っていた。
高梨が小さくうなずく。
雨音は紙に目を戻した。
『十年間、電波の向こうに手紙を投げ続けてきたので、今夜だけは受信側に立ってみたいと思いました。
いつも通り、笑い飛ばしてください。
泣くのは、電波のこちら側でやっておきます』
雨音は一度、息を吸った。
「……流星群」
マイクには乗らない声で、その名を呼ぶ。
十年間。
顔も知らずに、その名前だけを何度口にしてきただろう。
雨音はマイクに向き直った。
「流星群。十年分のネタを送ってくれて、ありがとう。最初のころの意味わかんない長文メールも、ちゃんと覚えてますからね」
ガラスの外で、帽子のつばがわずかに揺れた。
「病院のベッドからまでメールを書いてたっていうのは、今初めて知りましたけど。そんなときまで『雨音が噛んでるのを肴にする』っていう利用方法が正しいのかどうかは、ちょっと局で検討します」
サブブースから笑いが起きた。
「今夜、初めて受信側に立ってるって書いてましたけど」
雨音は、ガラスの向こうを見た。
「あなた、最初からずっと発信側だったと思います」
少しだけ声が震えた。
「だから今夜も、笑って聞いててください」
ジングルが流れ出す。
雨音はマイクのスイッチを切った。
高梨がサブブースから出てくる。
「お前、今、危なかったな」
「泣いてません」
「目がうるうるしてたぞ」
「コンタクトが乾いただけです」
「その嘘、十年聞いた」
高梨は笑った。
雨音は、廊下に立っている男をもう一度見た。
「あの人、本当に流星群さん?」
「そう」
「病院って」
高梨は少しだけ黙った。
「詳しいことは、本人から聞け」
それだけ言って、サブブースへ戻っていった。
雨音はマイクに指先を触れた。
その向こうに、十年分の夜が詰まっている気がした。
午前一時三十五分。
残り二十五分。
「ここまで、たくさんの『一番泣いた夜』のお便り、ありがとうございました」
雨音は紙束をそっと撫でた。
「ここからは、ちょっとだけわがままを言わせてください」
高梨が目を上げる。
「さっき紹介した『流星群』。十年間、この番組にネタメールを送り続けてくれたハガキ職人さんです」
雨音はガラスの外を見た。
「今夜、その流星群が、初めてスタジオの外で聞いてくれています」
帽子の男が、わずかに身体をこわばらせた。
「本当は最終回だからって、特別なことはしたくなかったんです。いつも通り笑って、いつも通り終わりたかった」
雨音は一度、唇をなめた。
「でも、今日はちょっとだけルールを変えます」
高梨が眉を上げる。
「『泣かない』じゃなくて、『笑ってれば、ちょっとくらい泣いてもいい』」
サブブースで高梨が吹き出した。
「ずいぶん都合のいいルールだな」
「十年目ですから。改編です」
千夏が口元を押さえて笑っている。
「というわけで。ハンドルネーム『流星群』さん」
雨音は扉を見た。
「よかったら、こっちに来ませんか」
廊下側の扉が、ぎこちなく開いた。
細い身体に、大きめのパーカー。
帽子のつばをつまみながら、男が入ってくる。
「あ、あの。流星群です」
思っていたより若い声だった。
「はじめまして、ですね」
「はい。十年間、一方的に喋りかけてました」
「こちらも十年間、一方的に喋りかけてました」
二人で笑った。
千夏がマイクスタンドを運んでくる。
「さっき、病院のベッドから送ってたって書いてましたけど」
雨音が尋ねる。
「はい」
「今は?」
「今は退院してます。通院はしてますけど」
「じゃあ、今日は」
「どうしても最後をここで聞きたくて」
雨音は少しだけ眉をしかめた。
「そういうこと言われると困るんですよ」
「なんでですか」
「泣きそうになるから」
「泣かないって言ってたじゃないですか」
「だからさっき規約改定したでしょう」
流星群が笑った。
雨音も笑った。
「十年前、最初に送ってくれたメール、覚えてます?」
「ええと……『深夜にラジオをつけたら、パーソナリティが噛みすぎてて目が覚めました』」
「そう、それ。傷ついたんだから、あれ」
ガラスの向こうで、高梨と千夏が笑っている。
「でもね」
雨音は、マイクの前の紙を見た。
「あの一通で、『この番組、もう少し続けてもいいのかもしれない』って思ったんです」
流星群の笑顔が止まった。
「誰かがちゃんと聞いてる。ちゃんとツッコんでくれる人がいる。それが分かったから、怖くても喋れた」
雨音は顔を上げた。
「その誰かが、あなたでした」
流星群は目を伏せた。
少しの沈黙。
ラジオでは、沈黙だって放送になる。
「……俺もです」
やがて、流星群が言った。
「病院で一人で寝てる夜って、静かなんですよ。点滴の機械くらいしか音がしなくて」
雨音は黙って聞いた。
「この番組だけ、ずっと人間の声がしてたんです」
流星群は少し笑った。
「ここが笑っててくれたから、こっちは安心して泣けました」
雨音は、何か言おうとしてやめた。
代わりに、笑った。
「それ、早く言ってくださいよ」
「言ったら雨音さん、泣くでしょう」
「泣きません」
ガラスの向こうで、高梨が大きく首を振った。
「説得力ないって言われてますよ」
スタジオに笑いが起きた。
千夏が時計を指さす。
残り七分。
雨音はマイクの前で息を吸った。
「流星群」
「はい」
「十年間、ありがとう」
声が少しだけ崩れた。
「俺のほうこそ。ありがとうございました」
流星群が鼻をすすった。
「この番組がなかったら、たぶん途中で夜に負けてました」
「そういうこと言うから」
雨音は笑いながら目元を拭った。
「せっかく十年間守ったのに」
高梨の声がトークバック越しに聞こえる。
「一回くらい破ってもバチ当たらないさ」
「そうですかね」
「十年だぞ。時効だ」
雨音は笑った。
そして、マイクの向こうにいる誰かを思った。
母親の介護に疲れた夜、手紙を書いてくれた人。
大学に落ちた湯気うどん。
夜勤の途中で片耳イヤホンをつけていた看護師。
ラジオを聞いて、ここで働こうと思った千夏。
そして、まだ名前も知らない、たくさんの夜。
「電波の向こうのみなさん」
雨音は涙を拭くのをやめた。
「十年間、『電波の向こうが泣くから、ここでは笑う』って言ってきました」
最後のジングルが、ゆっくりと立ち上がる。
「でも今夜だけは、ちょっと失敗しました」
流星群が隣で笑っている。
高梨も、千夏も笑っている。
「まあ、最後くらい、いいですよね」
雨音も笑った。
「十年間、『午前二時のポスト』にお付き合いいただき、本当にありがとうございました」
ほんの少し、息を置く。
「これからも、あなたの夜が長すぎるとき、どこかから人間の声が聞こえてきますように」
赤いオンエアランプが消えた。
スタジオに静寂が戻る。
「おつかれ」
高梨が椅子から立ち上がった。
「……おつかれさまでした」
千夏が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げる。
「ラジオって、いいですね」
「急にどうした」
「だって、顔がこんなにひどくても、声だけちゃんとしてれば伝わるんですもんね」
高梨が言った。
「声もひどかったよ」
全員が笑った。
雨音は、最後にマイクをそっと撫でた。
十年間、この前では泣かないと決めていた。
最後の夜だけ、少し失敗した。
「行きますか」
高梨が言った。
「何をですか」
「打ち上げ。十年分のラストオーダー、取りに行かないと」
外はまだ夜だった。
けれど、スタジオを出る足取りは思っていたより軽い。
電波の向こうが泣くから、ここでは笑う。
その約束をほんの少し破った夜のことを、雨音はきっと何度も思い出す。
そしてそのたびに、少しくらいなら笑える気がした。
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