「コーダ あいのうた」を観たかめちゃん 〜互いを理解しようと歩み寄る"愛のうた"〜【感想】
どうも、かめちゃんと申します🐢
差し迫るものがあるのにも関わらず、性懲りも無く映画を観た感想です。
そろそろこのnoteのアカウントもアイマス関係の色が薄いのではないかと誤解されそうですが、例の如く関係はありません。笑
今回観た映画は「コーダ あいのうた」という作品です。Xで一連の感想をあげている中でフォロワーさんから教えてもらった作品です。
第94回アカデミー賞の作品賞・脚色賞・助演男優賞の受賞歴もあるそう。
本当は他の作品を見ようとしていたのですが、リモコンの反応が悪くてこの作品に決まりました。これもまた運命ですね。笑
それではお手柔らかに。
よろしくお願いいたします!
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ストーリー
マサチューセッツ州のとある家。
漁師の家に生まれたルビー・ロッシは、高校に通う傍ら、父や兄と一緒に漁に出る生活。
ルビーがこうして船に乗るのは、家業だからというだけではありません。
彼女が「CODA」だからです。
Children of Deaf Adults
聴覚障害のある親を持つ、聞こえる子どものことを示す言葉です。
彼女の両親、兄には聴覚障害があります。彼女だけが聞こえるという家族。
彼女は一家にとって"通訳"でした。
それが当たり前で、だけど高校生の多感な時期である彼女には負担の大きなことでもありました。
そんな彼女は、密かに思いを寄せるマイルズに合わせる形で合唱部に入ることになります。
歌が好きだけど、音楽の勉強をしてきたわけではない彼女。
そして、かつて発音が変だと揶揄われた過去もあり、皆の前で歌うということに躊躇するのですが、とあるきっかけで彼女の歌に触れた顧問のV先生はその才能に気づき、名門音楽大学への進学を進めるのでした。
音大受験にあたっては、みっちりとしたレッスンは欠かせません。でも、ルビーの"通訳"としての役割は家族にとって欠かせないものでもありました。
家族を説得しようにも、ルビーの歌を家族は聞いたことがありません。
家業か夢か。ルビーにとって苦しい選択がそこに横たわっていました。
観てどうだったか
まず、主演のエミリア・ジョーンズの名演が光ります。手話は初めて取得するものだったようですが、歌声も含めて、多様なお芝居をされていたように思いますね。
それで言うと、家族の役は全員が本当に聴覚に障害を持つ役者さんだったようですね。生々しくもそこに生きる家族としての温度感があったのはそういうところもあるのかな。にしたって、特に父親役のキャラクター性は彼だからこそ出せた味のように感じましたね。
また、歌もテーマの一つなのですが、同じ歌詞でもシーンによって受け取り方が違うのだなというのが感じられるギミックも良かったです。どのシーンかはお楽しみに。
さて。本作で扱われている主たるテーマの1つは、世間一般において非常に繊細で、言葉を選ばずに言えば「扱い難い」ものであると思います。理解がないと思われる表現をしたら、すごく悪いことをしたような気がして。だから触れられない、みたいな感じかなと思います。
ただ、本作に登場するろう者の3人は、障がいがあるからと言って、決して弱々しい、無力な存在としては描かれていません。
性に快活で、家業を通して発信を行っていこうという人物像。
だから、僕はこの映画を観た時に
「可哀想だから、この人たちを悪く思ってはいけない」という感情は湧きませんでした。
むしろ夢を追いたい多感な時期のルビーを阻む親だなというようにすら感じるほど。
両親に悪気はないのですが、ルビーの存在は家族と聴者の間を繋ぐ架け橋でした。
アメリカの社会制度を詳しく知りませんが、作中で語られていたことから察するに、手話通訳が可能な人は決して多いとは言えなさそう。特に早朝から仕事が始まる漁生活に帯同できるような人がおいそれと出てくるとは思えません。
今や技術の進歩もあり、スマホなどを使ったメッセージでの意思疎通も以前よりはスムーズなのでしょうが、聴者の会話とは全く異なるでしょうし、手話でやりとりするのとも違うのだと思います。
そう、コミュニケーション。
ルビー、そして家族にとっての壁がコミュニケーションでした。
それは表面上には音が聞こえるかどうかという意味において、
そしてその深層には"わかりあえない"という心の隔たりとして。
手話について、日本においても日本語を手や指で表す「日本語対応手話」と、
日本語とは別の独立した自然言語としての「日本手話」というのがあるのだそう。
ルビーたちの英語圏でもそういうものがあるのだそうです。
ろう者の家族の中で育ったルビーの第一言語は英語ではなく、手話だったのだと推察されます。
そんな彼女が英語を学び、そして本作の中では歌という表現を得た。
表現を得ることは、コミュニケーションを広げます。見える世界を、繋がれる世界を格段に拡げます。
でも、フランス語を知らない人にその言葉で話しかけてもコミュニケーションにはならないように。歌が聞こえない人にその想いを届けるのは容易ではないのですね。
その葛藤が本作の壁の正体なのかもしれません。
その壁に向き合った時に、時間は動き出します。聴こえなかった音が聴こえるようになるわけではありません。でも、壁を乗り越えようとする、"わかろうとする"想いが時間を動かすのだと思いました。
本作ではそれが明確に2つのシーンから感じ得られるような気がしています。
1つはルビーの寝室で母と話すシーン。母の本音と想いが語られる中で、"わかりたい"という心が見えるシーンです。
もう1つは父との荷台のシーン。父がルビーと向き合います。その前の発表会のシーンでは、父が"わかろうと想う"キッカケを、視聴者にとある演出の形で表現されていましたね。
(この演出自体は聴者であるからこそのもので、安直に映るかもしれませんが)
僕はこの"わかろうとする"こと、その姿勢に本作の意義を感じます。
ろう者やCODAの苦悩を知ろう!という啓発動画ではないと思うし、障がいの有無で分け隔てられていることを示したいのでもないでしょう。
コミュニケーションの壁は、世の中にまだまだ横たわっています。同じ言語を使っているはずの僕と両親の間にさえあるのですから。
そう考えると、ルビーが家族の前で歌ってみせた最終盤のシーンは、彼女の"伝えようとすること"姿としても描かれているように思います。
だからこそ、この家族が向き合って出した結論と、ラストシーンの手話には大きな意味を持つものだったのだと感じました。
この映画を観ていて思い出したのは、数年前に観劇した朗読劇のことでした。
この朗読劇はブラインドサッカーという競技が扱われていて、目が見えなくなってしまった主人公の心模様が描かれていました。
んで、今回改めて見返してみたら、こんなことを書いていました。
だから、せめても考え続けようと思います。
障がいの有無だけじゃなく、色んな人に対して。
特別とか普通とか、そんなことはまだよくわからないけど、考え続けることはできるかなって。
んーなんか、結局何も言語化できなかったんですよね。お芝居の迫力に圧倒されて、その熱量に感激をしたんですけど、そのテーマから何も言語化できなかった気がしていました。
でも、結局障がいがあるからどうしようとかっていうことではなく、
だって今の自分は目も見えているし、耳も聴こえている。その幸せを噛み締めて!とかみたいなことを言いたいのではなくて、だからこそ今の自分なりにその壁に向き合うしかないのかなぁと思いました。
んー、結局同じ着地な気もする。笑
さいごに
なんとも自分の中で着地点を見失った気はしますが、無理やり終わらせます。笑
本作は冒頭に書いたように運命によって引き合わせてもらったという経緯がありました。
結果的に観てよかったなぁと想う部分が大きかったです。
昔は洋画があんまり好きじゃなかったんですが、多分それはカーチェイスとかバトルみたいな派手なドンチャンにそこまで興味を惹かれていないだけで、
ハートフルなものとか人間関係を描く作品にはちゃんと心動かされる経験を重ねて、良いなぁと感じている今日この頃です。
まだ今月始めたばかりの趣味ですが、また明日も映画を観たいなぁと思わされるような毎日で、いつかハズレを引くのが怖い気もしていますが笑
それはそれとしつつも、明日は流石に口頭試問の準備がありますので...
そろそろ自分のことにも向き合おうと思います。断腸の思いでここら辺りを、本noteのコーダ(結び)としておきます。
