【ショートショート】麦茶
子供の頃の冷蔵庫には、キンキンに冷えた麦茶が入っていた。やかんでわかした麦茶だ。
それは祖母が沸かしていた。
暑い台所で沸騰するやかんは、怒ったように湯気を立てていた。それを洗い桶にはった水の中につける。いつの間にかぬるくなり、冷蔵庫で飲まれるのを待っていた。
それは当然の光景で、あるのが当たり前だった。
大人になり私は家を出た。
一人暮らしというのは快適で、好きなように時間を過ごせる。食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。こんなことなら、大学時代も一人暮らしを選べばよかった。そんな思いを浮かべながら、煩い蝉の声を聞きつつ、私は麦茶を飲んでいた。
だが、一人暮らしの弊害はあるものだ。
冷蔵庫を開けても、麦茶がない。仕方なく、じりじりとやける太陽に脅かされながら、コンビニまで歩くわけだ。脳裏に浮かぶのは、夏になると冷蔵庫に入っていた麦茶。
「あの麦茶が飲みたい」
そう思った私は、お盆休暇を使って実家に帰ることにした。電車を乗り継ぎ、バスを使い、遠くに見える山に郷愁を感じながら、やっとたどり着いた実家。
「遠かったなぁ」
家中の窓が開け放たれ、風鈴がちりんと涼やかな音を流す。風が通り抜け、まるで別世界だ。
「お帰りなさい。外は暑かったでしょ」
居間から顔を出す母は、以前より皺が深い。
――いつの間に、こんなに年取ったんだろう?
母が祖母と重なった。
その時、気にもならなかった蝉の声が聞こえてきた。
――煩いな。
汗が流れる。
顎の汗を手の甲で拭い、切望していた麦茶を思い出した。
「そうだ、麦茶」
踊る心は冷蔵庫へと視線を向けさせる。そこには剥がれることができなくなったシールの残骸。
「あはは、まだそのままなんだぁ」
シールをなでながら、祖母の声が聞こえたような気がした。
「そんなところに貼っちゃいかんて。まったくこの子はぁ」
そう言いながら、麦茶をコップに注いでくれた。
笑みを浮かべながら、鼻歌交じりに冷蔵庫を開ける。あるべき麦茶を飲むために。
だが。
「あれ? 麦茶がない。おばーちゃん! おばーちゃーん!
麦茶がないよー」
母はどこに行ったのか姿はなく、いるはずの祖母もやってこない。
「なんで?」
またしても蝉の声が響き、脳を刺激してきた。
「そうか、おばあちゃんは、死んじゃったんだっけ……」
あれほど飲みたかった麦茶は、もう飲むことができない。
「しょうがない、これでいいか」
手にしたのは、ペットボトルの麦茶だ。一人暮らしの冷蔵庫に、あまり必要とされない麦茶。その味はーー。
「美味しくないな……」
蝉が「もう飲めないよ」と、あざ笑うように鳴き叫んでいる。
※かめママブログ書庫入り口👇
※小説入り口👇
