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【掌編小説】逃がした魚の恩返し

魚を釣る。

それは俺の至福の時間だ。
日常は忙しく、イヤなことも多いが、川に糸を垂らしているときだけは何もかも忘れられる。

俺は今日も、大きな川で釣り糸を垂れていた。
周りには、小学生や年寄り、親子連れと何人もの人がいる。
みんな楽しそうに笑ったり、水面を見つめたりと、自由気ままだ。

俺はタバコに火をつけ、いつになく当たりの来ない水面を眺めていた。

「今日はダメかなぁ」

もう3時間も粘っている。
粘っているが、何を考えるわけでもない時間だ。
魚の顔を見ることができなくても、気にはならない。
ただ、気になることがあるとするなら、空のクーラーボックスを持ち帰り、中を覗いたときの妻の顔だ。

まるで「あなたの趣味なんてこんなものよね」と馬鹿にされているような気がする。
会社でも無能よばわりされ、家にいても似たようなもの。

俺は肺に溜まった煙を吐き出すと、自嘲気味に笑った。
その時、手に感触が伝わってきた。
水面には、糸の周りに小さな水の輪が広がっている。

「おっ! とうとう来たか!」

俺は魚を逃がさないように、ゆっくりとリールを巻きつけて行く。
手ごたえはさらに大きくなり、本日初の獲物に心を躍らせた。

「さて、どんなもんだろうなっと!」

竿を上げて行くと、魚が躍り出る。

だが、それは思った以上に小さかった。
土の上で跳ねる魚を掴んだ俺は、じっとそいつの顔を見た。

「小さいなぁ。幼魚か?
こんなに小さいんじゃ、食べるところがないな。
ほら、母ちゃんのところに帰りな。
次は、大きくなって戻って来いよ」

そう言った俺は、川の中に魚を戻してやった。

その後も釣り糸は川の流れに身を任せるように泳いだが、結局一匹も釣ることができなかった。
俺は妻の馬鹿にしたような顔を思い浮かべ、苦笑いを浮かべると帰路についた。

その翌日のことだ。
いつものように仕事を終え、疲れた足を引きずりながら駅へと向かっていると、ひとりの女に声を掛けられた。

振り向くと、美人というには程遠い女が立っていた。

「え、な、なんですか?」

あまりの不細工さに、俺は眉をしかめた。
だが、こんな容姿でも人間として生きているのだ。

俺は無理矢理笑顔を作ると、見たくもない女の顔を見た。
すると女は、俺に視線をむけ、はっきりと言ったのだ。

「あなたの願いを叶えてあげます。
ただし、一つだけ」

なんだ?
新手の詐欺なのか?
だが、今時引っかかる奴はいないだろう。

「願いを叶えるって……そういうゲームでも流行ってるのかい?
俺は忙しいんだ。失礼するよ」

「どうして? 人間は願いを叶えて欲しいんでしょ?」

歩き出した俺は、再び足を止めた。
確かに叶えられるのなら、叶えて欲しい願いはある。
だが、そんなことができるはずはない。
それどころか、こんな話に乗ったために、おかしな事件に巻き込まれないとも限らない。

それにしても、どうして俺に声を掛けてきたのだろう?
それほど俺は、間抜け面を晒して歩いていたということか?

「おい、あんた。どうして俺の願いを叶えるなんて言うんだ?」

「はい。昨日、あなたが私を助けてくれたから。
助けてもらったら、恩返しをしなければなりません」

「俺があんたを助けただって?」

「はい、川で魚を逃がしたでしょう?」

「ああ、確かに……」

なるほど、どこかであの時の俺を見ていて、鶴の恩返しならぬ魚の恩返しを思いついたのか。とはいっても、そんなことができるはずもない。
つまり、俺を馬鹿にして笑いものにしようということか。

そこまで考えた俺は、馬鹿らしいと胸に呟くと、顔の前で手を振った。

「そんなものはいらないよ。
魚に恩返しされる筋合いもないしね。
それより、こんな時間だ。さっさと帰りなさい」

疲れているのに、バカげたことを言われ、俺は余計に疲れが重くのしかかってくるのを感じた。
女は「本当にいらないの?」と小首をかしげているが、本当に願いを叶えられるなら、いっそ、そのご面相をなおしてみたらどうなんだと思った。

さすがにそれを口にすることはできず、俺は女から目を離すと「声を掛けるなら、遊んでくれそうな相手を探すことだな」と言ってその場を後にした。

何とも変な女だ。
きっと頭がおかしいのだろう。

だが、それから数日後のことだ。
仕事も終わり、友人を誘ってバーに足を踏み入れた。
友人もまた、釣りが好きで会話は弾んでいった。
大分酒が体内をめぐりだした頃、友人はニヤニヤと口元を緩ませながら、話し出した。

「なぁ、鶴の恩返しって知ってるよな?」

「ああ、知ってるよ。
なんだよ、誰かに恩返しでも受けたのか?」

イケメンな友人だけに、どこかの美女と一夜を過ごした自慢でもする気かと、俺は冷たい言葉と共にグラスを口につけた。

「ああ、その通りさ。
まさか、魚に恩返しされるとは思ってなかったけどな」

「え? 魚に?」

その瞬間、脳裏に浮かんできたのはあの女の顔だ。
俺が逃がした魚だと言い、お礼をしなくてはと繰り返していた。
頭のおかしい女――。

「この前さ、釣れた魚が小さくてリリースしたんだ。
そうしたら、その魚が俺の前に現れて、願いを叶えるって言いだしてさ」

「それって……」

「なんだ、知ってるのか?
ということは、お前も願いを叶えてもらったのか?」

「え……いや。俺は、なにも……」

「馬鹿だなぁ。願いを叶えてくれるっていうんだから、試しに願いを言ってみればよかったのに」

「お前は願ってみたのか?」

「ああ、借金が完済出来て、宝くじが当たると嬉しいねってな」

「まさか……」

俺はごくりと喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
いくら何でも、そんな願いが叶うはずはない。
だが、友人の満足そうな顔は、願いが叶ったと喜んでいるように見える。

「どう、やって……」

「俺の親戚が急逝したんだよ。子どももいない独り者でさ。その遺産が転がり込んできた。
とはいっても、借金分しか入ってこなかったから、完済したら手元には残らないけどな」

「それでも願いが叶ったってことか……たまたま……そ、そうだよ。それはたまたまだろう」

「そうかもな」

友人は、勝ち誇ったように口元を歪ませ、チラリと俺を見た。

「でもな、宝くじも当たってたんだぜ。
これがたまたまでもなんでも、俺は構わないよ。
願いが叶ったんだからさ」

そう言った友人は「残念だったな」と言って、笑いながら俺の背を叩いた。

こんな馬鹿なことがあるかよ。
魚の恩返しなんて、ありえないだろうが。
だが、友人はあの女から幸運を貰ったってことか?

あの、魚女から――。

後悔が押し寄せてきた。
どうしてあの時、願いを口にしなかったのか。
願いたいことはたくさんあったのに。
一番の願いは――若くて可愛い嫁が欲しい。
文句ばかりの今を変えたかった。

友人と別れた俺は電車に揺られながら考えていた。

もう一度。もう一度、あの魚女に会いたい。
どこに行ったら会えるのか。
どうしたら、会うことができるのか?

電車がホームに滑り込み、見慣れた改札から出る。
大きすぎる落胆に、足はさらに重くなっている。
ずるずると引きずるように歩き、橋の上に立った時、俺は欄干に肘をつき、月の揺れる川面に目を落とした。

キラキラと揺れる水面。
決してキレイとは言えない水は、月明かりでも暗く流れている。
俺はため息をつき、大きなチャンスを失ったことにうなだれていた。
その時、水面に光るそれが目についた。

「え……魚?」

汚れた川に魚がいるのか?

次の瞬間、魚は顔を上げ俺を見た。

「あの時の魚! まて、待ってくれ!」

俺は走り出していた。
川へ向かって、転びそうになりながらも、必死に走っていた。
やっと川べりにたどり着いた時、俺は大きな声で叫んだ。

「待ってくれ! 俺の願いを叶えてくれ!」

だが、川を泳ぐ魚は振り返ることもない。

「待ってくれ! 頼む、待ってくれー!」

追いすがりたくても、川に入れば溺れてしまう。
酔った頭が諦めろと囁いていた。
それは己の愚かさを笑っているように響いている。
俺はがっくりと膝を折ると、草むらに両手をつき、泳ぎ去っていく魚を見つめていた。

その背中は、やたらと大きく見えた。


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