【短篇小説】静かな朝
作者:篠宮あおい
目が覚めると、隣にぬくもりがない。
棚に目を向けると、そこには忘れられない写真がある。
写っているのは大事な人。
「あなた……」
小さな声でそっと呼んでみる。
指に光る指輪は、確かにここにあるのに。
カーテンを開け、日の光を部屋中に満たすと、カーディガンを羽織りリビングへと足を向ける。そこに夫の姿はない。あるのはかつての彼の残像。
「いるわけないか……」
かつては私が目覚めると、朝のコーヒーを淹れて笑顔を向けてくれた。そんな彼はもう、ここにはいない。いないと分かっているのに、どうしても朝になると探してしまう。
庭に目をやると、遠くにそびえる山が目に入る。夫はあの山が好きだった。
カレンダーに目を向ける。そこには赤い丸が付けられている。
「あなたの好きな花が咲いたわね」
庭に咲いた花を見て、そっとつぶやく。
台所に立ち、コーヒーを淹れ、二つのカップをテーブルに置く。
「あなた、コーヒーよ」
飲まれるはずのないコーヒーは、湯気を立てる。私はカップに口をつけ笑みを浮かべる。
「あなた……待っててね」
冷えたコーヒーをシンクに流すと、まるで涙のように流れていく。もう、何年もこうして同じ朝を過ごしてきた。
私は着替えをすませると、庭に出て花を摘む。今日は夫に会いに行く日だから。
夫が眠っているのは、遠くにそびえる山の中。そこまで歩くのは時間がかかる。でも、これは夫とのデートだと思う。会いたいから、どんなに時間がかかっても辛くはない。
思い出すのは夫との出会い。優しくて笑顔が素敵な人だった。
その幸せが壊れだしたのは、夫を街で見かけたときだ。
夫の隣には、子供を抱いた女が立っていた。知り合いなのかと声を掛けようとした時、夫が子供を抱き上げた。その手は、子供を愛していることを伝えていた。
目深に帽子をかぶり、2人の会話が聞こえるところまで近づくと、信じられない言葉が聞こえてきた。
「いつあの女と別れるの?」
あの女――。
一体何を言ってるのか分からなかった。
「俺も別れたいとは思ってるさ。でも、なかなかな」
そう言って笑う夫。その顔は、私には向けたことのない、幸せそうな笑顔だった。
「あの女には子供がいないんだからさぁ。
子供がいるからって、はっきり言えばいいじゃない」
不満顔の女は、頬を膨らませてそう言った。
「まぁ、待てよ。こういうのはタイミングがあるだろう?」
「そんなこと言って、本当は別れるつもりがないんじゃないの?」
「バカ言うなよ、おまえは俺の息子を生んでくれたんだ。
どっちが大事かなんて、言わなくても分かるだろう」
耳を疑った。私には、子供なんて面倒なだけだからと言っていたのに。子どもなんていなくても、夫婦だけで幸せに暮らしていけるからって、言っていたのに。
その日、夫が帰ってきて、問い詰めたい気持ちをじっとこらえた。
頭の中では、本当のことが知りたいと繰り返していたのに。もし、問い詰めたら夫は私から離れていきそうで。
だから、あれは他人の空似だと、自分に言い聞かせた。
こうして山を登るたび、あの日のことがよみがえる。
そう、あの日を境に、私から笑顔が消えた。
「どうしたんだ? 最近まったく笑わなくなったけど、何かあったのか?」
優しいあなたは、そう言って私の顔を覗き込んだ。
私は一生懸命笑顔を作ったけど、あなたはつまらなそうにしていたわね。
じっとりと汗が流れる。毎月上っているのに、やっぱり汗は嘘をつかない。
しばらく行くと、うっそうとした林がつづく。この先にあなたがいる。どうしてこんなところに眠らせているのか。それは、夫が寂しくないように。自分が好きな場所に葬られたら、きっと幸せだと思ったから。
誰にも分からない、小さな丸い石だけのお墓。それは私にしかわからない目印。
「あなた。今月もちゃんと来たわよ。
あなたが待っているのは私だものね。
あの、女なんかじゃないでしょ」
笑うことのできなかった私は、自然な笑顔を作れるようになった。
あなたが倒れたあの日から、やっと本当の笑顔を作れるようになったの。
私は丸い石の横に花を手向けた。
あなたの好きな花だから。
そして手を合わせる。
「あなた……どうして死んだと思う?
もう、わかっているでしょう?」
私は笑みを浮かべると、じっと夫に話しかけた。
「だって、あなたが悪いんだもの」
今日もとても気分がいい――。
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