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【長編小説】オーバーライド 第 11 話


《中野 佐代子》


 室内は温かく、ダルマストーブの上では、やかんが湯気を立てている。
 テーブルには二つの湯飲みが置かれ、テレビからは、AIを絶賛する言葉ばかりが流れ聞こえていた。
 佐代子は湯飲みを両手ではさみ、幸せそうな笑みを浮かべると、翔に話しかけた。

「お茶がおいしいねぇ」

 もちろん、ロボットである翔がお茶をすすることはない。それでも佐代子は嬉しいのだろう。
 佐代子が話しかけると、微かに翔の顔に変化があるような気がした。それが佐代子の勝手な思い込みであったとしても、それで彼女は満足だった。

「本当はね、娘夫婦と一緒に暮らしたかったのよ。
そうすれば孫と一緒にいられるしね。
でもねぇ……嗣久さんがねぇ……。
ああ、娘婿なんだけどね、ちょっと変わってる人なのよ。
私には理解が出来ないの。
衣料品会社の社長さんだって言うけど、お金があってもあんなに無口で、居丈高じゃ息が詰まる。
だから、一人で暮らすことを選んだんだけど……。
でも、今はひとりじゃないものね。
政府は本当に、いいものをプレゼントしてくれたと思うわ」

 その時、黒い電話がけたたましい音を立てた。佐代子が若い頃に購入したその電話は、今では骨とう品店にしか並んでいないようなダイヤル式だ。その音は大きく、空気を切り裂き鳴り響く。

「あー、びっくりした。電話なんてめったに鳴らないのにねぇ」

『よっこらしょ』と立ち上がる。その動きは、非常にゆっくりで、体をいたわっていることが分かる。

「はいはい、ちょっと待ってくださいな。
今出ますからね」

 相手に届くはずもないというのに、独り言のようにこぼした佐代子は、受話器をとり、穏やかに答えた。

「はい、お待たせしました。中野です」

 すると電話の向こうからは、ヒステリックな娘の叫びが聞こえてきた。

「もしもし、お母さん!」

「あら、沙織じゃないの。珍しい。どうかしたの?」

「どうしよう……どうしよう……」

 焦りと悲しみとが入り乱れ、ただ事ではないものを感じる。その途端、心臓が大きな音を立て始める。

 結婚して以来、娘がこんなに取り乱すことは一度もなかった。ところが今は、パニックになり壊れてしまいそうに感じられる。

「沙織、何があったの? どうしたのかちゃんと教えてちょうだい」

「どうしよう、どうしたらいいのか分からない」

「何が分からないの? 一体何があったっていうの?!」

 泣いているのか、沙織の鼻をすする音が聞こえてくる。今すぐにでも、抱きしめてあげたい。佐代子は震える手で、沙織を抱きしめるように受話器を握りしめた。すると、沙織の息をのむ音が聞こえてくる。

「お、お母さん……律が……律が事故に遭って……ものすごい出血で、緊急手術になっちゃった。
どうしよう、律にもしものことがあったら、どうしたらいいのか分からないよ」

 電話越しに聞こえる娘の泣き声は、まるで幼子のように佐代子の耳に木霊してくる。そんな娘を助けたくて、今すぐにでもかけつけてあげたいと思う。だが、車があるわけでもない。タクシーをと思うが、それすらも年金暮らしの佐代子には出せる額ではない。

「それで、どんな状態なの? 手術は終わったの?」

「終わったけど……できることはしたって、先生は言うの。
こんなこと、嗣久さんが知ったら怒られる。子どもの面倒も見ることもできないのかって言われちゃう」

「今はそんなことを心配している場合じゃないでしょ。
……そっちに行ってあげたいけど、お母さんには足がないから」

 とはいうものの、娘の心情を無視することなんてできるはずがない。頭に浮かぶのは財布にある数枚の千円札。それを使ってしまえば、今月はもう生きることが出来なくなる。

 だが……。

 幼子のように泣く娘。心臓が早鐘のように鳴り響き、震える指が佐代子を突き動かした。

「分かったわ。そこはどこの病院なの?
今からお母さんもそっちに行くから」

 その瞬間、電話の向こうに静寂が訪れた。あれほど慌てふためいていたのが嘘のように。一瞬にして現実が蘇ってきたようだ。

「え……だって、お母さん。来れないでしょ……。
お金、ないんでしょ?」

「そんなこと言ってられないわよ。
沙織がそんなに不安になってるのに、放っておけるわけないじゃないの。
お金なんて、何とかなるわよ」

「……ごめん、お母さん。あんまり不安だったものだから、電話しちゃったの。
大丈夫よ、大丈夫。きっと、大丈夫だから。
また、何か変化があったら電話するね。
ごめんね、お母さん」

「沙織?」

「ごめん」

 一言を残した沙織は電話を切った。受話器から聞こえるのは、冷たく響くビジートーン。佐代子は、ゆっくりと受話器を置くと、大きなため息をついた。

「遠慮しなくてもいいのに……。
違うわね、あたしが行っても何の役にも立たないんだから。
それにしても、AIがそばにいたはずなのに、なんで律は事故に遭ったのかしら。
AIは助けてくれなかったのかしらね。
翔、AIはなんで助けてくれなかったの?
それとも助けようとしたけど、できなかったってことかしらね」

 翔が佐代子を見た。その目は何を見ているのか分からない。

「ねぇ、翔。お前は、あたしが事故に遭いそうになったら、どうする? 助けてくれる?」

 微かな機械音が翔の体内から響く。そして翔の口から出た音声。

「ボクハ ニンゲンノ ヤクニタツタメニ ツクラレマシタ」

「そうよね、だから人間を助けるためにいるのよね。
それなのに、どうしてかしら……」

 佐代子はそう言うとちゃぶ台の前へと戻り、耳にも入らないテレビに顔を向けた。だがその時、翔はもう一つの答えを告げていた。

「AIハ ニンゲンヲ カンシシ ジョウホウヲアツメルタメニ ツクラレマシタ」

 その音はテレビにかき消され、佐代子の鼓膜を震わせることはなかった。


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