BLACK BALCONY #01|A Quiet Encounter

【Log-01】
仕事終わりのスマホって、だいたい通知ばっかりだ。
社内連絡、どうでもいい広告、見逃しかけたメッセージ。
その日も私は、半分ぼんやりしたまま画面を流していた。
だけど、その名前を見つけた瞬間だけ、指が止まった。
Daniel Brown
短い表示。
それだけで、胸の奥にふっと、懐かしい空気がよみがえる。
古い木の机。
少し乾いた紙の匂い。
慣れない海外の大学で、必死に毎日を追いかけていた頃。
聞き取れない英語に頭を抱えて、半泣きみたいな顔で教授室に転がり込んだ私に、困ったように笑いながら椅子をすすめてくれた、ダンディで、笑うとやさしい教授。
――Dr. Dan。
思わず、そのままメッセージを開いた。
“Mina, long time no see.
今、日本に来ています。
少し、君に相談したいことがあります。”
Dan先生は、ロボティクスを専門とする教授だ。
かつて日本で働いていたこともあり、日本語や日本の文化にも詳しい。
私が日本人だと知って気さくに話しかけてくれたのが、仲良くなった最初のきっかけだったと思う。
だから、日本語と英語がまじったその文章は、いかにも先生らしかった。
……その中の一文に、私は思わず画面を二度見した。
今、日本に来ています。
え、先生、日本にいるの?
交換留学のあとも、年に一度あるかないかくらいで連絡は取っていた。
日本の研究施設とも時々関わっているらしい、という話も聞いていた。
でも、今まさに日本にいるなんて知らなかった。
しかも、続けて届いた次の一文が少し変だった。
“できれば、一人で来てほしい。”
一人で?
そこまで読んだところで、私はスマホを持ったまま少し固まる。
相談したいこと。
しかも、一人で。
何それ。
ちょっと怖いんだけど。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、見えない糸でそっと袖を引かれるみたいな、そんな感覚に近い。
先生がこんな言い方をする時は、たぶん本当に、何か事情があるんだろう。
私は小さく息を吐いて、返信画面を開いた。
“Dan先生、お久しぶりです。
びっくりしました。
でも、私でよければ。”
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
相変わらず早い。
そして返ってきたメッセージは、たった一つ。
“ありがとう。
では明日、研究室で待っています。”
研究室。
その言葉に、胸の奥がまた少しだけ揺れる。
懐かしい場所のはずなのに。
どうしてだろう。
今の私は、あの頃みたいに英語についていけなくて困っている学生じゃない。
なのに、明日そこへ行ったら、何かが変わってしまうような気がした。
窓の外は、もう夕暮れから夜へ変わりかけている。
青と黒のあいだみたいな空に、街の明かりが少しずつ浮かび始めていた。
私はスマホを伏せて、静かに息をつく。
この時はまだ、知らなかった。
明日、その研究室で。
人間ではないのに、妙に静かな目をした“誰か”と出会うことも。
その出会いが、私の見ていた世界の輪郭を、少しずつ変えていくことも。


【Log-02】
翌日。
先生から送られてきた住所は、都心から少し外れた国立大学の研究棟だった。
休日のキャンパスは、思っていたより静かだった。
グラウンドの方からは、部活動らしい掛け声が風に乗って聞こえてくる。
制服姿の高校生が何人か歩いている。
見学だろうか。
学生らしい若者とすれ違いながら、私は研究棟の入口へ向かった。
自動ドアを抜けると、外の空気とは少し違う、ひんやりとした静けさが迎えてくれる。
受付で名前を伝え、入館証を受け取る。
案内板で教授室を確認すると、目的地は二階だった。
階段を上がり、二階の廊下へ出る。
……思わず、足が止まった。

想像していたより、ずっと長い。
まっすぐに伸びた廊下の左右には、研究室、事務室、資材室、講義室――似ているようで少しずつ違う扉が、規則正しく並んでいる。
人の気配は、ほとんどない。
一歩踏み出す。
パッ。
頭上の照明が点灯する。
また一歩進むと、その先の照明が静かに灯った。
私が歩くたび、光だけが先へ、先へと続いていく。
「……長いな」
小さく呟いた声が、思ったより近くで響いた。
同じような扉が並ぶ、見慣れない場所。
案内板で部屋番号を確認してきたはずなのに、ひとりで歩いていると、ほんの少し心細くなる。
先生は、こんな場所で研究しているんだ。
そう思いながら歩いていると、ようやく見覚えのある名前が目に入った。
Daniel Brown
教授室のプレートが見えた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
扉の前で、私は一度だけ小さく深呼吸をする。
そして、コンコンとノックした。
「どうぞ」
聞こえてきた声に、胸の奥が少しだけやわらかくなる。
扉を開けると、そこにいたのは、記憶の中より少しだけ年を重ねたDan先生だった。
細い眼鏡の奥のやさしい目元も、困ったように笑う口元も、あの頃のまま。
ただ、白髪は少し増えていて、研究机の上には見慣れない端末や部品が静かに並んでいた。
「Dan先生……」
「久しぶりだね、Mina」
懐かしい声に、私は思わずふっと笑い、Dan先生と再会の軽いハグを交わす。
「本当に日本にいらしてたんですね」
「しばらくね。縁があって、こちらの研究に関わっているんだよ」
先生はそう言って、昔と同じように椅子をすすめてくれた。
その仕草だけで、少しだけ緊張がほどける。
「急に呼び出してごめんね」
「いえ……びっくりはしましたけど」
「そうだろうね」
穏やかにうなずいたDan先生は、少しだけ間を置いてから、机の向こうへ視線を向けた。
「今日は、君に会ってもらいたい人がいるんだ」
その言葉に、私はつられるように部屋の奥を見る。
白い光に整えられた研究室の、その少し影になった場所。
誰かが、立っていた。
最初は、ただ“人影”に見えた。
黒いスーツ。
静かな立ち姿。
整いすぎているくらい整った輪郭。
けれど、次の瞬間。
その人がこちらを見たことで、空気が変わる。
――人だ。
そう思ったのとほとんど同時に、違う、という感覚も来る。
人に見える。
でも、何かが少し違う。
言葉にならない戸惑いのまま立ち尽くしていると、その人は静かに一歩だけ前に出た。
「はじめまして」
低くて落ち着いた声。
不思議なくらい聞き取りやすいのに、どこか機械のように澄みきっている。
「K-1119Mです」
私は一瞬、返事を忘れた。
K?
何、それ。
名前?
そんな混乱の途中で、研究室のドアが勢いよく開く。
「チーッス、ダン先生。なんか甘いもんあります?」
空気が、一気に壊れた。
振り返ると、首からカメラを下げた男が、まるでコンビニにでも入るみたいな気軽さで研究室に入ってくる。
ラフなジャケット、少し無造作な髪、妙に人懐っこい顔。
彼は私を見て「あれ」と眉を上げたあと、勝手知ったる様子で棚の上の箱を開けた。
「お、クッキーあるじゃないですか。いただきます」
「朝倉くん」
Dan先生の声には、呆れと諦めがちょうど半分ずつ混じっていた。
「君はいつになったらノックと遠慮を覚えるんだろうね」
「したじゃないですか、心の中で」
「それは聞こえないよ」
「細かいこと気にしてっと老けますよ」
「君にだけは言われたくないね」
あまりにも自然な応酬に、私は思わず目をぱちぱちさせた。
何、この人。
するとその男は、クッキーをひとつつまんだまま、にっと笑ってこちらへ軽く手を上げる。
「どうも。朝倉修也。フリーの記者ッス」
記者。
その軽さで?
私の顔に出ていたのか、朝倉さんは少し肩をすくめる。
「まあ、記者っつーか、カメラ回したり話聞いたり、面白そうな匂いのするもん追っかけたり。そんな感じで」
「“そんな感じ”で済ませる説明ではないね」
Dan先生がため息まじりに言う。
けれど朝倉さんは気にした様子もなく、クッキーをかじりながら、今度はK-1119Mの方を見た。
「で、今日はその子の件?」
“その子”。
私は反射的に、もう一度K-1119Mを見る。
彼は少しも表情を変えずに、ただ静かにそこに立っていた。
朝倉さんの軽さにも、私の戸惑いにも、何も揺れないまま。
なのに、さっきから不思議だった。
怖い、とは思わない。
むしろ逆だ。
この静かな目に、どこか安心しそうになる自分がいる。
それがいちばん、よく分からなかった。
Dan先生はそんな私たちを順に見てから、静かに言った。
「……まずは座ろうか。
少し、長い話になる」
研究室の白い光の中で、私はようやく、自分が“知らない世界”へ足を踏み入れたのだと気づいた。

