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怒りの幕開け2025

年始から、理不尽・不愉快・無礼・不誠実・欺瞞・不信といった、あらゆる負の感情へと繋がるイベントが想定外に目白押しでけっこう参っている。

こうして熟語で並べてみるとなかなかの迫力である。個々の出来事はそりゃもちろん、人生を左右することは無い日常生活のストレスレベルなのだが、異なる角度で連日畳み掛けられるとそれはそれはもう。

沸き続ける「怒りの感情」に参っている。

ひとつひとつ省みても、全てにわたし自身の過失や不徳は無い、と言い切れる。すると、怒りに迷いがなくなる。

これはとても良くない傾向で、喧嘩両成敗じゃないが「わたしも悪いとこあったな」と思う余地が少しでもあれば救いがあるのだが、それが無いのだ。つまり妥協ができない。ただただ、相手への怒りのエネルギーだけでカロリーを消費している。

怒る権利があるのは確かに大義なのだが、その感情だけに支配されていると、意外なことに、今度は自分自身に対し疑いを持ってしまう。「自分に非はない」と言い切りながら矛盾が生じている。

これは自己嫌悪ではない、自己懐疑なのだ。

こんなに怒りを抱いているわたしの感覚がおかしいのではないか?
世の人々からすれば、ここまで怒るようなことではないのでは?

先述の通り、怒りそのものには迷いがない。そこではなく、自身の持つ価値観の根本に揺らぎが生じるのだ。怒りを感じている感覚そのものが、人とは違うのか?と。

わたしは何なんだろう。
怒りに身を任せ、他者をシャットアウトしたり頭に血を昇らせてたりしているわたしは何なんだろう。こんなことにエネルギーを使っていること自体がおかしいのではないか。

たとえば今回の例のひとつ。(まじでこの2週間、複数相手に怒っている)
不信感を抱いた相手に対し(詳細は避けるがサービスを提供する側)、電話口で自分の疑問や不満を伝える。とことん糾弾してやろうなんて気持ちはないが、こちらの正当性を盾にしているからこそ強気でいられることを自覚して、己を恥じる。
言いたいことは言うべきだと思っている。それでも、「正論おばさん」状態、強気で語る自分が恥ずかしい。こちらの優位性を感じているから、意地が悪い。
わたしもかつて、仕事柄クレームを受ける側だったから分かる。向こうがどんな気持ちなのか。今この瞬間、それをやる側になっている自分が嫌で嫌でたまらない。かつて受けた、あらゆるクレームを思い出す。また気が滅入る。


先程の電話相手にとって「鬱陶しいクレーマー」だったわたしが、数分後、たまたま会った知り合いに笑顔で挨拶をしている。何食わぬ顔で世間話をしている。

これは大人として当たり前の挙動なのだが、己の多面性に気分が悪くなる。さっきまでの黒さはどこだ、二重人格なのか。

そういう己の負の面と向き合わねばならないことがしんどい。怒りに任せている時と、気分よく過ごしている時のギャップに自分で疲れる、そして引く。どちらもわたし自身であるという事実が怖くなる。


自分が分からなくなってくる。
日々、他者に対し、慈しみや感謝を抱いている自分、歩み寄ろうと努めている自分。
対して、いちいち不平不満、怒りを抱いている自分。どこにわたしの本質があるのだろうか。


怒りとは何なのだろうと自問自答する中、交通事故遺族の方の言葉を思い出した。
池袋暴走事故で奥様と幼い娘さんを亡くされた、松永さんが裁判の渦中、被告に訴えたものだ。

「私にこの先何年も、人を恨み続ける道を歩ませないで欲しい。2人の愛してくれた、私らしい私でいさせて欲しいのです。」

愛に溢れ、生きる喜びを知っていた自分が、今は犯人に対する憎悪の中で生きている。そんな、憎しみに満ちた今の私を見たら、天国の2人は悲しむだろう、そんな自分自身が辛いのだ…という悲痛な思いに、胸が張り裂けそうな衝撃を受けた。

究極の憎しみというのは、人格を、心を破壊するのだな、と。
松永さんの場合そこには、筆舌に尽くし難い苦しみ悲しみが伴うわけで、わたしがこうして何かしら意見することも憚られるのだが…。

そんな中で自分を奮い立たせ、被告と戦い続けた姿勢。そして交通事故の無き世の中に向けて活動されているお姿を見ると、ここまで強くあれる人がいるのか、と涙が溢れてくる。


わたしの抱く怒りと、先述の方のような憎悪を重ねるなんてことは勿論あり得ないし、ここで触れること自体も非常に心苦しいのだが…。あくまで、「怒り」について考える例として挙げさせて頂いた。

この「怒り」に分類される感情…そこにはレベルや質の違いが恐ろしいほどある。それにどう向き合うかというのは、自分自分の在り方として重要である気がする。

自分が何に怒っているのか見極めなければ、自身への疑いになる。
それを相手にぶつけるにしてもぶつけないにしても、とにかく気分が悪い。
だから他者への憎悪は、己の人格をも破綻させることがある。

ただ、松永さんのように怒りのエネルギーから己の道を進み続ける人もいる。彼だって、言葉に出来ないような憎しみを抱いたはずだ。その憎悪を、憎悪のまま胸に埋め込むのではなく、戦おうと決めたのだ。そこにはどれだけの問いと迷いがあっただろう。

「自分らしい自分」であるため。また、自分はどうありたいか。「怒り」と向き合うことは己への気づきなのかもしれない。


繰り返しになるが、人の感情は複雑で、中でもネガティブな気持ちは、更に複合的で難しい。そこに至る文脈は千差万別、ひとつとして同じものはない。だからこそ、他人には理解出来ないし、残念なことにその「怒りの対象」になんて恐らくほぼ伝わらない。(最も伝えたい、というか「ぶつけたい」のに!)

対処の仕方も個人次第、これも答えがない。
単に溜飲を下げたい場合も、相手を打ちのめしたい場合もある。自分の正義を貫きたい時もあれば、向けられた悪意に、相当の悪意を返したいことだって…。

ただ、解決してもしなくても、傷つく人が少なくとも必ずひとりいるわけで、これは間違いなく自分自身なのだ。

わたしは、相手に対してシャッターを下ろしたり、仕方なく飲み込んだり、納得できない事や不服を訴えたりと、その相手や状況に応じて対応を変えていた。それがまぁ、多分一般的な対処だと思う。

他者への怒りというのは、自分自身への迷いや、不快、苦しみにも繋がることを痛感した年始。色々書いたけどこれも結局ストレス発散。怒りのエネルギーを、SNSで放出する現代人である。

因みに、数日かけてこの文面を書いている最中、更に泣きっ面に蜂みたいな出来事が起きてしまい、これはまぁ「不運」というのが妥当なのだが、とにもかくにも2025年どうなるんや、最悪な気分。というか、これがトドメの一発であって欲しい。頼むからこれ以上は勘弁してほしい。取り返しのつかない事が起きないことだけを祈る。まだ年明けて2週間ちょっとだというのに…。

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