見出し画像

夫が連れてきた仕事相手は、六年前に別れた元カレだった

夫の口から直人の名前が出たとき、私は味噌汁を飲んでいた。

三十一歳の秋だった。

結婚して四年目。

夫の祐介とは、特別仲が悪かったわけではない。

大きな喧嘩もしなかったし、休みが合えば一緒に買い物にも行った。月に一度くらいは外食もした。

ただ、夫婦というものは不思議で、四年も一緒にいると相手のいる生活が当たり前になる。

「今日さ、取引先に面白い人いて」

祐介は冷奴に醤油をかけながら言った。

「へえ」

私は適当に返事をした。

「仕事できるんだけど、全然偉そうじゃないんだよ。話しやすくてさ」

「よかったじゃん」

「直人さんっていうんだけど」

箸が止まった。

ほんの一瞬だった。

たぶん、祐介は気づいていない。

直人。

珍しい名前ではない。

それでも、胸の奥が小さくざわついた。

「名字は?」

何でもない顔で聞いた。

祐介が答えた名字は、私が知っているものと同じだった。

「何歳くらい?」

「俺と同じくらいじゃない? 三十三とか」

また同じだった。

嫌な偶然だった。

私は冷奴を口へ運んだ。

「どこの会社?」

聞くつもりはなかったのに、口から出た。

会社名を聞いた瞬間。

たぶん、そうだと思った。

直人は昔、そこへ転職したと聞いたことがあった。

最後に聞いたのは六年くらい前だったけれど。

「知ってる人?」

祐介が聞いた。

「ううん。聞いたことある会社だっただけ」

自然に言えた。

自分でも驚くくらい。

その夜、食器を洗いながら、私は何度もその名前を思い出した。

直人。

二十三歳から二十六歳まで付き合った人だった。

三年。

長かったと思う。

私にとっては、夫の次に長く一緒にいた男性だった。

別れた理由は、今思えばたいしたことではなかった。

直人が転職して忙しくなった。

会える日が減った。

私は寂しくなった。

直人は疲れていた。

電話で喧嘩することが増えて、ある日、本当に些細なことで言い合いになった。

そのまま一週間連絡しなかった。

そして会ったとき、

「もう無理なのかな」

と私が言った。

直人は否定しなかった。

それで終わった。

浮気されたわけでもない。

嫌いになったわけでもない。

だから余計に、何年かは思い出した。

そのあと祐介と出会った。

付き合って。

結婚した。

直人とは一度も会っていない。

連絡も取っていなかった。

それなのに。

その日から、祐介がときどき直人の話をするようになった。

「今日、直人さんと昼食った」

とか。

「直人さん、酒強いらしい」

とか。

「今度飲もうって話になって」

とか。

私はそのたび、

「へえ」

「仲良くなったね」

と返した。

変な気分だった。

私の知らない現在の直人を、夫の口から教えられる。

三十三歳になった直人。

仕事のできる直人。

酒の強い直人。

祐介が言うには、まだ独身らしかった。

その情報だけは、聞いたあとも妙に残った。

私は一度も検索しなかった。

SNSも見なかった。

連絡先はスマートフォンに残っていたけれど、開かなかった。

そこまでするほどのことじゃない。

昔の男だ。

今の私には夫がいる。

それで終わるはずだった。

再会したのは、それから三週間ほど経った金曜日だった。

午後九時三十二分。

祐介から電話が来た。

私はお風呂上がりで、髪を乾かしていた。

「もしもし」

『かなこ、ごめん』

声を聞いてすぐ、酔っているとわかった。

「飲んでるの?」

『うん。ちょっと飲みすぎた』

「ちょっとじゃないでしょ、その声」

祐介が笑った。

『迎え来れる?』

「どこ?」

店の名前を聞く。

車で十五分くらいだった。

面倒だと思った。

でもタクシーで帰ってこられて、翌日車を取りに行くほうが面倒だった。

「わかった。今から行く」

髪を乾かして、適当なニットを着た。

化粧はほとんど落ちていた。

眉だけ少し描き直した。

なぜ描き直したのか。

そのときは自分でも気づかないふりをした。

午後十時少し前。

居酒屋の前へ着いた。

祐介に、

《着いたよ》

と送った。

数分後。

店の引き戸が開いた。

男が二人出てきた。

一人は祐介。

もう一人が、祐介の腕を持っていた。

街灯の下へ出てきたところで顔が見えた。

呼吸が止まった。

直人だった。

六年ぶりだった。

写真で見ることすらなかったから、もっと別人になっていると思っていた。

少し痩せていた。

髪も短くなっていた。

黒いコート。

白いシャツ。

昔より大人の男性に見えた。

でも。

目が合った瞬間。

わかった。

直人も、わかったと思う。

ほんの一秒くらい。

お互い動かなかった。

「かなこー」

祐介の声で現実へ戻った。

「遅い」

「ごめんごめん」

祐介が笑いながら私のほうへ来る。

直人も一緒に歩いてくる。

近づくほど、心臓が速くなった。

逃げる理由なんてない。

それなのに、逃げたかった。

「紹介するわ」

祐介が言った。

「前に話した直人さん」

直人が私を見る。

昔、三年間付き合った男だった。

私の部屋に歯ブラシを置いていた。

私の母とも会った。

旅行もした。

喧嘩もした。

私が泣くと、困ったように頭を撫でる人だった。

そんな男が。

今は夫の隣に立っている。

直人は何も知らない人のような顔で、小さく頭を下げた。

「初めまして」

その言葉が。

思っていた以上に胸へ刺さった。

私も頭を下げた。

「……初めまして」

声が少し遅れた。

祐介は気づかない。

「妻のかなこです。いつも主人がお世話になってます」

自分で言って。

変な感じがした。

妻のかなこ。

間違っていない。

私は祐介の妻だった。

「こちらこそ。ご主人にはいつもお世話になってます」

直人も敬語だった。

知らない人みたいだった。

いや。

今の私たちは。

本当に知らない人なのかもしれない。

六年という時間がある。

その間の直人を私は知らない。

直人も、結婚してからの私を知らない。

それなのに。

昔のことだけは。

二人とも知っている。

「直人さん駅?」

祐介が聞いた。

「はい。そこから電車で」

「じゃあ送りますよ。な、かなこ」

断れるわけがなかった。

「……うん」

直人が、

「いや、大丈夫ですよ」

と言った。

私はその言葉に少しだけ救われた。

でも祐介は、

「いいっていいって」

と直人の背中を押した。

祐介が助手席。

直人が後部座席。

私は運転した。

車内には、祐介がコンビニで買ったミントガムの匂いが残っていた。

「今日楽しかったわ」

祐介が言う。

「俺も久々に飲みました」

直人の声。

後ろから聞こえる。

懐かしい。

それだけで身体の奥が落ち着かなくなった。

赤信号。

私はルームミラーを見た。

直人と目が合った。

すぐに逸らした。

「そういや直人さん、結婚しないんすか?」

祐介が聞いた。

私は前を見たまま、ハンドルを握り直した。

「今のところ予定ないですね」

「もったいないなあ」

「そうですか?」

「かなこの友達紹介しますよ」

「ちょっと、勝手なこと言わないでよ」

私が笑う。

祐介も笑う。

直人も。

「ぜひお願いします」

冗談の声だった。

私も笑った。

その会話が妙に苦しかった。

駅に着いた。

直人がドアを開ける。

「ありがとうございました」

「いえ」

私は前を向いたまま答えた。

「また来週お願いします」

祐介が言う。

「こちらこそ」

ドアを閉める直前。

直人が私を見た。

何か言うのかと思った。

でも。

「おやすみなさい」

それだけだった。

「おやすみなさい」

私は答えた。

家へ帰ると、祐介はほとんどそのまま寝た。

「水飲んで」

「うん」

「ちゃんと着替えて」

「はいはい」

世話をして。

布団を掛けた。

いつもの夫だった。

私は洗面所へ行った。

鏡の中の自分を見る。

化粧はほとんどしていない。

髪も適当。

どうして眉だけ描き直したんだろう。

考えたくなかった。

メイク落としを手に取った。

そのとき。

スマートフォンが震えた。

午後十一時四十八分。

表示された名前を見た。

直人。

六年以上。

一度も動かなかったトーク画面。

《びっくりした》

私は鏡の前でしばらく画面を見た。

それから。

《私も》

と返した。

すぐ既読。

《旦那さんだったんだね》

《うん》

《世間狭いな》

《ほんとに》

そこで終わると思った。

少しして。

《言わなかったんだ》

私はその文章を二度読んだ。

《何を?》

《俺と付き合ってたこと》

私は寝室のほうを見た。

祐介は寝ている。

《言う必要ないでしょ。昔のことだし》

送った。

直人から。

《そうだね》

それだけだった。

なのに。

私はスマートフォンを置けなかった。

翌朝。

祐介は二日酔いで、味噌汁を飲んでいた。

「昨日ありがとう」

「もう飲みすぎないでよ」

「直人さん送ってくれて助かったわ」

私は冷蔵庫から卵を出した。

「うん」

「いい人だったろ?」

フライパンを温めながら。

私は答えた。

「うん。感じよかった」

自分の口から出た言葉が可笑しかった。

感じのいい人。

初対面の男性への感想。

祐介は、

「だろ?」

と満足そうに笑った。

私は卵を割った。

それから二週間ほど。

直人から連絡はなかった。

私からもしなかった。

それでよかった。

むしろ。

それが普通だった。

なのに。

ある日。

祐介が夕食中に言った。

「今度、直人さんうち呼んでいい?」

「え?」

思ったより大きな声が出た。

「何、その反応」

「いや……急だなと思って」

「この前送ってもらったお礼もあるし。家で飲もうかなって」

私は箸を置いた。

「外で飲めばいいじゃん」

「家のほうが楽じゃん。かなこの料理うまいし」

「私が作る前提なの?」

「お願いします」

祐介が両手を合わせる。

断る理由が見つからなかった。

嫌だと言えば。

どうして、と聞かれる。

だから。

「何食べたいか聞いといて」

と答えた。

直人が家へ来たのは。

翌週の土曜日だった。

午後六時。

インターホンが鳴った。

祐介はまだシャワーを浴びていた。

「かなこ、出てー」

「はいはい」

玄関へ行く。

モニター。

直人。

心臓が。

また嫌な鳴り方をした。

ドアを開ける。

「こんばんは」

「……こんばんは」

二人きりなのに。

敬語。

直人の手にはビールと、小さな洋菓子店の紙袋。

「これ」

「ありがとう」

受け取る。

紙袋が触れる。

その瞬間。

指先が少しだけ触れた。

二人とも。

同時に手を引いた。

「上がって」

「お邪魔します」

直人が靴を脱ぐ。

私は先に歩いた。

背中に視線を感じる気がして。

落ち着かなかった。

祐介が出てきて。

そこからは普通だった。

三人で食べた。

飲んだ。

笑った。

仕事の話。

旅行の話。

最近値上がりしたもの。

何でもない話。

私はなるべく直人を見なかった。

「これ、かなこ作ったんですよ」

祐介が肉じゃがを指した。

「おいしいです」

直人が言う。

「昔から――」

そこまで言って。

止まった。

私も止まった。

祐介は気づかずビールを飲んでいる。

直人が続けた。

「……こういう家庭料理好きなんですよ」

私は。

「ありがとうございます」

と答えた。

しばらくして。

祐介がトイレへ立った。

二人になった。

テレビの音。

冷蔵庫。

時計。

それまで普通だった部屋が。

急に静かになった。

私は空いた皿を重ねた。

直人が小さな声で言った。

「料理、変わってないね」

手が止まった。

「覚えてるの?」

「覚えてるよ」

「六年前だよ」

「三年食べたから」

私は直人を見た。

目が合った。

祐介が戻ってくる音。

私はすぐ皿を持ってキッチンへ行った。

帰り。

祐介はゴミを出すと言って、先に玄関を出た。

私は直人のコートを渡した。

「今日はありがとう」

「こっちこそ」

靴を履く。

ドアの向こうから祐介の声。

「直人さん行きますよー」

直人がドアノブへ手をかけた。

そして。

小さな声で。

「かなこ」

呼ばれた。

身体が止まった。

六年ぶりだった。

夫の前では。

一度も呼ばなかった名前。

「……何?」

直人は少しだけ私を見た。

「いや」

それだけ。

ドアが開く。

「お邪魔しました」

また。

夫の仕事相手の顔へ戻った。

私は玄関に一人残った。

手の中には。

直人が飲んでいたグラス。

まだ。

少し温かかった。

その四日後。

昼休み。

祐介から電話が来た。

『かなこ、家?』

「今休憩中」

『あ、そっか。今日何時に終わる?』

「四時だけど」

『頼みあるんだけど』

祐介が、仕事で使う資料を家に忘れたらしい。

直人へ渡す予定のもの。

自分では取りに戻れない。

『悪いけど、帰りに直人さんへ渡してくれない?』

胸の奥が。

ざわついた。

夫自身が。

私を直人に会わせようとしている。

「……どこで?」

『駅前のカフェ。直人さん五時くらいなら来れるって』

断る理由は。

やっぱりなかった。

「わかった」

電話を切った。

午後四時五十八分。

私は封筒を持って。

カフェのドアを開けた。

直人は。

奥の席にいた。

私を見つける。

小さく手を上げた。

私は向かいへ座った。

「これ」

封筒を置く。

「ありがとう。わざわざごめん」

「祐介に言って」

「旦那さん、忙しそうだね」

「いつもこんな感じ」

用事は終わった。

立てばいい。

私はバッグへ手を伸ばした。

そのとき。

直人の左手が目に入った。

腕時計。

黒い文字盤。

革のベルト。

一瞬。

時間が止まった。

「それ……」

直人が腕を見る。

「ああ」

私は。

その時計を知っていた。

二十五歳の誕生日。

私が直人へ贈った時計だった。

当時の私には。

少し高かった。

何か月か。

少しずつお金を貯めて買った。

「まだ持ってたの?」

「うん」

「使ってるの?」

「たまに」

私は。

椅子から立てなくなった。

直人が。

私を見る。

「コーヒーくらい飲む?」

私は時計を見た。

それから。

直人を見た。

「……一杯だけ」

そう答えた。

「初めまして」と言った男が、昔の名前で私を呼んだ

夫から預かった封筒を渡せば、それで終わるはずだった。

それなのに、元カレの腕には、二十五歳の私が贈った時計が残っていた。

そして私は、自分から椅子へ座り直した。

ここから先は

7,696字

¥ 100

いつも応援ありがとうございます😊