鬼のはなし
こんばんは、要小飴と申します。
トップの写真は、突劇金魚さんの朗読barに出演した際の写真です。正確には本番前の練習風景ですが。
突劇金魚さんの朗読barについては以下のURLにて。こちらも、再開が待たれておりますね。
私はこの朗読bar、これまでに三度出演しておりまして、初めの二回は、能の演目である『黒塚』の鬼の話を読みました。
とはいえ、能の台詞そのままを読むわけにもいきませんので、
こちらの本を買って、その上で内容を要約した文章を書き、それを朗読しました。

大学で、文学部哲学芸術コースに在籍した私は、授業でこの能に出会いました。そのときには映像で観るだけだったのですが、大阪に来て能や文楽を生で観ることが出来るようになったので、これまで私も数回この『黒塚』の演目は観に行きました。それくらい私はこの能が好きなのです。
さて、この『黒塚』がどのようなお話かと言いますと、
修行の旅をする山伏の祐慶とそのお供の者が、陸奥の安達原に差し掛かり、ただ一つ見つけた小さな荒屋に一夜の宿を求めた。家主の女はその小屋のみすぼらしさを恥じ、一度はその願いを断るのだが、懇願する祐慶の様子に、しぶしぶ招き入れることにする。中に入った祐慶は身分の低い者が生業とする糸繰りの道具である糸車を珍しがり、使っているところを見たいと言い出す。女はまたその仕事について恥じ入るが、祐慶の願いに応じて、糸繰りを見せながらこの世に生きることの辛さを語って聞かせる。その後、夜が更けて寒くなったため、女は薪を拾いに山へ出掛けていく。出掛ける際に、自分の寝室は決して見ないようにと言い残していくが、祐慶の使用人が言いつけを破り中を見てしまう。女の寝室には天井に届くほどの高さに死体が積み上げられている。安達原に棲む鬼とは彼女のことだったのだ、と逃げ出す祐慶たち。すると、山から薪を背負った鬼が祐慶たちを追ってやってくる。約束を違えたことを非難し、襲いくる鬼だったが、やがて祐慶の念力で抑えられ、あさましい自分の身の上を嘆いてどこかへ消えてしまう。
と、かなり拙く、そして偏ったまとめになっておりますが、このようなお話になっております。
どうですか。
祐慶!てめえ、ひどいじゃねぇか。
と、私は思ってしまうんですね。
あえてひどい言い方をしますが、嫌がる人の親切心につけこんで家に泊まらせてもらった上に、本人が恥ずかしがっていることをきっと純粋なキラキラした目をしながら「見てみたい!」と言ってやらせ、その上、わざわざ夜の山に薪を取りに行ってくれた人との約束を破って部屋の中を見る、なんて。
いや、もし何事もなく過ごしていたら、このあと、もしかしたら祐慶たちは殺されていたのかもしれないですよ。それはね。未来のことはわかりません。
でも、だって、山から追いかけてくる鬼の背には薪の束が確かにあるのですから。少なくとも、薪を拾いに行くと嘘をついて、祐慶たちが寝入ったところを襲う、なんて作戦ではなかったということなんですよ。
私はこの鬼にどうしようもなく惹かれてしまうのです。
糸車を回すとき、女はせっかくこの世に生を受けながら、辛い生活をして自分を苦しめていること、それでもこの世に執心を残す自分を嘆きます。そして、いつまでも若くはいられない運命を嘆きながら、急に光源氏のこと、賀茂の葵祭のことを口走ります。光源氏、賀茂の葵祭とくれば、これは六条御息所のことを思い起こすものです。
六条御息所は光源氏の年上の恋人。やがて光源氏の心が他の女性に移ってしまうと、その嫉妬から、知らず知らずのうちに生き霊となり、相手を取り殺してしまったという女性です。
これは、この女が六条御息所だった、ということではなく、後に落ちぶれてしまったが、元々この女は源氏物語に精通するほど教養のある女性であったということと、この女が自身を六条御息所に重ねているのだということだ、と授業で習ったと記憶しています。
だから、この鬼が六条御息所と同じだとすれば、強い思いがあるがために、知らず知らずのうちに鬼になったのだということだと思うのです。
鬼とは何なのか。鬼、と言いますと、皆さまはどのようなものを思い浮かべるでしょうか。やはり、2月3日の節分で子供たちに豆をぶつけられる、牛の角に虎の毛皮のパンツというのが一般的でしょうか。
でも、例えば『鬼籍に入る』という言葉は人が亡くなることを言います。また、『鬼火』というものもありますが、こちらもまた、霊や怨念が火となってあらわれたものです。鬼という字は霊という意味があるのです。
そう、死んで肉体を離れ心だけになった状態、それが霊というのだとすると、鬼とはまさにただただ人の心そのものだと言えるのではないでしょうか。
強い思いで鬼になる。人は誰でも自分の中に鬼を抱えているのですね。
だから、私はいつも般若の面をつけたシテが背負っている細い薪の束を見るたびに、「あぁ、ごめんね」と少しだけ悲しくなります。
事実として起きたことは、女が宿を貸し、薪を拾いに行った、という、それだけなのです。
同じ心を持った者として、とても切ない。でも、本当にこの夜祐慶たちが無事だったかどうかは誰にもわからない。自分の心が何かをきっかけにして鬼になるかもしれないのと同じように。
人の心を考えるのに、この『黒塚』はとても興味深いと思います。
ちなみに、この安達原の鬼がなぜ鬼になったかというお話が、実は民話などに残っています。それもまた悲劇ですが、興味があれば調べてみてください。
能は謡の言葉が現代の私たちには聴きとりづらいところがあって、とっつきにくいかもしれませんが、なんとなくのあらすじは先に教えてもらえますし、言葉としてだけでなく、音や見え方でも楽しめます。
劇場文化、こういうものもまた再開されて、観に行けたらいいなぁ。
それでは、今日はこのへんで。
要小飴

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小飴