違和感のままでは、本人の性質として処理される
ある会議で、一人が言った。「うまく言えないのですが、これは、なんとなく難しい気がします」。
具体的な指摘はない。理由も述べられない。進行役が「どのあたりが気になりますか」と聞くが、本人も答えられない。議論は先へ進み、方針が決まった。
四か月後、その方針は行き詰まった。
振り返りの場で、当時の議事録が確認された。あの発言は、記録に残っていない。具体的な指摘がなかったため、要旨に含める対象にならなかった。
本人も、あのとき何を感じていたのかを、いまも説明できない。
ここには、非対称がある。
言葉になっていない違和感は、検討の対象にならない。記録にも残らない。
しかし本人の中には残る。あのとき言えばよかった、という形で。
そして、次に同じ感覚を持ったとき、その人は言わなくなる。今度こそ、はっきり言えるようになってから言おうと考える。
二つの失敗
言葉になる前の感覚を扱うとき、二つの失敗がある。
一つは、すぐに既存の言葉へ回収することである。「あの人はいつもそうだ」「考えるほどの問題ではない」「単なる気分だ」。そう処理すれば、現在の見方は維持される。
この処理は速く、日常の大半において合理的でもある。すべての引っかかりを検討していたら、仕事は進まない。
だからこそ、新しいものは、たいていここで失われる。
もう一つは、その感覚を無条件に真実だと考えることである。
違和感は、偏見や過去の傷から生じることもある。相手に不安を感じるからといって、相手が危険だとは限らない。その不安は、過去の経験、疲労、あるいは自分の側の事情によって生じている可能性もある。
だから、違和感を直ちに結論へ変えると、「相手は信用できない」「この制度は間違っている」「自分には向いていない」といった固定的な判断になる。
違和感は答えではない。問いが生まれる前の入口である。
身体が先に反応することがある
言葉によって理解する前に、身体が先に動くことがある。
息苦しい。落ち着かない。身体が重い。なぜか、その場所に長くいたくない。相手の説明は整っているのに、何かが引っかかる。
ただし、ここで一つ断っておきたい。
身体の不調のすべてが、問いの入口であるわけではない。痛み、不眠、動悸、強い疲労。これらは、医学的に扱われるべき状態であることがある。「これは自分の受け取り方の問題ではないか」と考えることが、受診を遅らせる理由になってはならない。
身体の反応を意味として読む道がある、ということであって、身体の反応を意味だけで説明できる、ということではない。
どう問いへ変えるか
違和感を問いへ変えるには、次のことを考える。
自分は何に反応しているのか。
予想していたものと、何が違うのか。
言葉と行動の間に、どのようなずれがあるのか。
他の人には、どう見えているのか。
身体から始まった場合も同じである。現実に何が起きているのか。どの過去の経験が呼び起こされているのか。他の人にも同じように見えているのか。
身体を信じ切るのでも、無視するのでもない。身体から始まり、身体だけでは終わらない。
問いになると、何が変わるのか
違和感は、まだ形を持たない問いである。
問いは、その違和感を共同で検討できる形へ変える。
そして、共同で検討できる形になった時点で、違和感は本人の主観から離れる。
ここが重要である。
違和感のままでは、それを持つ人の性質として処理されやすい。心配性である。慎重すぎる。前向きでない。そう言われれば、内容は検討されない。
問いになれば、他の人も検討できる。
「なんとなく難しい気がする」は、その人のものである。「この計画で、うまくいかないとすれば何が原因になりそうか」は、その場にいる全員のものである。
同じ懸念でも、後者であれば、他の人が答えを持っているかもしれない。
時間が要る
もう一つ、条件がある。
違和感を問いへ変えるには、時間がかかる。
会議の中で「どのあたりが気になりますか」と聞かれて、その場で答えられるとは限らない。答えられなければ、感覚は感覚のまま処理される。
したがって、誰かの違和感を扱おうとする側が最初にすべきことは、答えを与えることではない。
それが言葉になるまでの時間を確保することである。
具体的には、その場で問い詰めない。日を置く。書く形で受け取る。他の人にも同じことを尋ねる。
いずれも、話し合いの技法ではなく、時間と形式の設計である。
冒頭の例に戻る
あの会議で、進行役は「どのあたりが気になりますか」と聞いた。この問いは、善意から出ている。
しかし、この問いは、その場での言語化を求めている。答えられなければ、発言は記録される形を持たない。
別の問い方がある。
「うまくいかないとすれば、何が原因になりそうか。思いつくものを、後でいいので書いて送ってください」。
これは、その人だけに向ける必要はない。全員に向ければ、特定の一人が理由を説明する立場に置かれることもない。
そして四か月後、行き詰まったとき、振り返りの材料が残る。
そのとき見えるのは、誰が気づいていたかではない。気づきが、どの段階で形を持たずに消えたかである。
