肩越しに覗くオキーフ―『オキーフの家』(メディアファクトリー)
オキーフの住むアビキュー
『オキーフの家』(マイロン・ウッド写真、クリスティン・テイラー・パッテン文、江國香織訳、株式会社メディアファクトリー、2004)
『オキーフの家』は、写真と言葉を通じてニューメキシコ州アビキューでのオキーフの生活を再現する。写真家のマイロン・ウッドは、2年半にわたってオキーフの住むアビキューの家を訪れ、彼女の生活を撮影する。伝記作家兼画家のクリスティン・テイラー・パッテンは、晩年のオキーフと生活を共にし、オキーフが生活するアビキューの自然を描き出す。読者はウッドの写真とパッテンの文章を通して、オキーフの見た景色を見、感じた空気を感じる。そのことによって、オキーフの絵画がより身近に感じる。
ウッドが書くように、画家の家を知ることが、画家の芸術を知ることにつながる。
この住まいにおける彼女の暮らしぶりは”自然体”を重視したもので、しかも非常に一貫しているため、彼女が作品を通して表現しようとしたことを、おそらく作品以上にくっきりと、純粋なかたちで、住まいそのものが表しています。
写真集のなかで、オキーフの住まいであるアドービ(粘土とわらを混ぜた干しレンガ)および砂漠にそそり立つ絶壁がモノクロで写される。モノクロであるがゆえに、乾き切った地に照りつける日差しの強さが浮きあがる。なだらかに隆起する土壁の柔らかな肌合いが感じられる。照りつける太陽の下で低く這うアドービは、ひっそりとたたずみ、その暗がりの中に人間をかくまう。
オキーフの肖像写真が印象的だ。92歳を超える彼女の、皺の刻まれた針金のような顔はネイティブアメリカンの長老のようで、性差を見分けることができない。
庭を歩く彼女の後姿を写す写真も印象に残る。その写真は、近づきたくても近づけないオキーフを映し出している。読者は彼女の後姿を追いながら、アビキューの家をさまよう。写真家の肩越しにオキーフの生活を覗き、一枚一枚の写真に、たとえそこにオキーフ本人が写っていなくても、画家の存在を感じる。
オキーフが収集した牛の頭蓋骨の写真がある。砂漠に落ちていたのだろう。パッテンは「荒涼とした一隅に、頭蓋骨が落ちている。頭蓋骨は物質を超えた存在であり、それがかつて生きていたことの証跡である。」と書く。
パッテンは、オキーフの来歴を語るだけでなく、オキーフの見た光景を言葉によって描き出す。
今回文章を書くにあたって、私は私なりのやり方で、読者をできる限りオキーフに近づけようと思った。オキーフが暮らし、大切にしていた場所、太陽の輝くその驚くほど美しい場所を彼女と一緒に歩いているつもりで、彼女の目を通して物を見て、感じてもらおうと努めた。
パッテンの言葉によって、私たちはアビキューの砂漠の美しさと過酷さを理解する。オキーフが毎日感じた自然の息吹を想像する。
ニューメキシコの風土は湿り気を帯びた日本の風土とは似ても似つかない。厳しくさす太陽がすべてを照らしつけ、水分を奪い、生あるものを死に至らしめる。しかし、干からびた頭蓋骨に悲壮感はない。むしろ、容赦のない自然の力が何の弁明もなく存在しているあり様に、荘厳な美しさを感じる。
パッテンの言葉からオキーフの生活を想像しているうちに、オキーフの絵の中にある、容易に飲み下せない強さが腑に落ちる。強烈な絵の見え方が変わってくる。それらの絵が単に華やかなだけではないことが見えてくる。
茨木のり子の住む武蔵野
芸術家の住まいは芸術家の何を表しているのだろうか?
オキーフの家の写真を見ているうちに『茨木のり子の家』(小畑雄嗣写真、茨木のり子詩、平凡社、2010)という本を思い出した。

『茨木のり子の家』は詩人亡きあとに編まれた写真集で、詩人の生前の写真、家の写真、家の設計図、詩からなる。東伏見の住宅街に建てられた二階家は、板敷きでこじんまりとして可愛らしい。床は磨かれて黒ずみ、木製の家具も使い古されている。
この写真集は、『オキーフの家』とは違ってカラー写真を利用しており、セピア色を帯びている。茨木のり子の家は、清廉な詩から想像するとおり趣味がよく、無駄がない。全体的に小ぶりで使い古された家具調度や木製の床、ぎっしりと並ぶ本やスクラップブック、書斎に仲良く並べられた夫婦の机は、生活感が染みついている。生活感が漂白されたようなオキーフの土の家とは対照的だ。昭和の日本の貧しさを感じるとともに、生活のなかで詩を書いた詩人と、生活を離れて絵と向かい合う孤独な画家の、生き方の違いを感じる。
