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若者の金融資産格差が予告する、この国の静かな階級社会化

複利という格差増幅装置

日経新聞の朝刊を開いていて、あるグラフの前で視線が止まった。「若者の金融資産、格差係数が拡大 20代のNISA利用なお4人に1人」という見出しである。

総務省の全国家計構造調査を分析したもので、30歳未満が保有する有価証券の平均額は、2014年の16万円から2024年には79万円へと、およそ5倍に跳ね上がっていた。これだけを見れば、若者の間で「貯蓄から投資へ」という意識が着実に浸透している好ましい傾向のようにも受け取れる。

しかし、記事が本当に伝えていたのはその裏側の数字だった。格差の大きさを測るジニ係数(1に近いほど不平等)を見ると、金融資産残高の全世代平均が0.678であるのに対し、18〜24歳は0.718と、世代別で最も高くなっていたのである。所得のジニ係数は全世代で0.286にとどまるのに、資産の格差は若年層の時点で極端に開いている。

これを単なる「投資をする若者と、しない若者の差」として片付けることはできない。直感的に寒気を覚えたのは、投資が持つ「時間」という属性だ。

運用とは、時間を最大の武器にして複利を味方につける営みである。20代前半という人生の極めて早い段階で生じた「月数万円を投資に回せるか否か」の差は、30年後、40年後には数千万円という、個人の努力では埋めようのないストックの格差へと化ける。日本人が長年親しんできた「みんな等しく銀行預金」という平穏な土台が崩れ去り、数十年後には覆い隠しようのない階級社会が現出するのではないか。そんな予感が頭を離れなくなった。

「努力不足」にすり替えられる構造

最初、僕はこの問題を「余力の格差」だと捉えていた。20代の4人に1人がNISA口座を持つ一方で、残りの4分の3は日々の暮らしで手一杯で投資どころではない。実際、初任給が25万円以上の企業の割合は、大企業で30.0%に達するのに対し、中小企業では17.0%にとどまるというデータも出ている。

だが、この数字の背景を掘り下げていくうちに、問題は単なる「個人の給与差」にとどまらないことに気づかされた。

若年層の投資余力を決定づけているのは、本人の労働所得だけではない。「親世代の資産力」という見えない下駄の存在だ。家賃補助を親から受けられる者や、学費をすべて親に賄ってもらって無借金で社会に出る者がいる一方で、毎月数万円の奨学金返済を抱え、日々の生活費だけで手一杯の若者もいる。

前者は給与から毎月3万円、5万円を平然とインデックスファンドに拠出できる。後者は、どれほど節約しても投資口座を開くことすらままならない。つまり、親世代のストック格差が、若年層の「時間」という最も強力なレバレッジを通じて、不可逆な資産格差へと再生産されている。

ここで最も恐ろしいのは、社会に浸透する「能力主義(メリトクラシー)」の視線だ。

NISAという制度自体は、誰にでも平等に開かれている。それゆえに、資産を形成できなかった層に対して、「平等な機会があったのに、勉強しなかった」「無駄遣いをやめなかった本人の自己責任だ」という冷酷な評価が下されやすくなる。

実家が太く、中学受験を経て有名大学を卒業し、大企業や専門職に就いた層には、悪意などない。彼ら自身も幼少期から机に向かい、相応の努力を重ねてその座を勝ち取ってきた自負がある。だからこそ、「なぜ投資をしないのか」「月1万円でもインデックスに回せばいいのに」と、澄んだ善意の顔をして正論を口にする。

この「悪意のない無理解」ほど残酷なものはない。投資の原資を捻出するための生活の余白そのものを剥ぎ取られている人々の現実が、彼らの視界には構造的に映らない。同じ日本という国に生きながら、住む場所も、通ってきた教育ルートも、日常の行動半径も交じり合わないまま大人になり、政策や経営の意思決定層に収まっていく。欧米が何世代にもわたって苦しんできた「階層の断絶」が、この国でも静かに完成しつつある。

対話が消えた社会に訪れる風景

もしこのまま、複利によって増幅されたストック格差が固定化すれば、社会はどうなるのか。

真っ先に壊れるのは、異なる階層間をつなぐ「言葉」だ。かつての日本社会には、公立校の教室や地域の行事、企業の終身雇用といった枠組みの中に、異なる境遇の人間が袖を振り合い、同じ釜の飯を食うような緩衝地帯が存在していた。お互いの生活実態を肌感覚で知っていたからこそ、痛みを分かち合う「中流意識」が保たれていた。

しかし現在、都市部を中心にその社会的ミキサーは機能不全に陥っている。休日の過ごし方、接する情報源、子どもの教育環境に至るまで、生活のレイヤーが完全に分離した。互いの境遇に対する想像力が失われた社会では、対話は成り立たない。あるのは、持てる層からの「怠惰への蔑視」と、持たざる層からの「特権への怨嗟」という感情の応酬だけだ。

そうなれば、治安のあり方も変わる。治安は「誰もが等しく享受できる公的な空気」ではなく、「お金を払って買うサービス」へと変質する。高セキュリティのタワーマンションや監視カメラに囲まれた居住区に資産層が身を寄せ、防犯コストを払えない地域が荒廃していく。将来への希望を完全に断たれ、失うものがなくなった人々による犯罪が日常化すれば、社会全体の信頼コストは跳ね上がる。

同じ国に暮らし、同じ言語を使いながら、お互いを「別の世界の異物」あるいは「自らの快適な生活を脅かす潜在的リスク」として見なし合う。そんな社会を、僕たちは本当に望んでいたのだろうか。

「金融教育」という名の思考停止

では、何ができるのか。

世間ではよく「学校で金融教育を必修化すべきだ」「リテラシーを高めて投資の裾野を広げよう」といった議論がなされる。だが、ここまで考えてきて痛感するのは、そうした処方箋の無力さだ。

軍資金が手元にない人に向かって、いくら資産運用の技術や複利の素晴らしさを説いたところで、何の意味もない。それは、飢えている人に効率的なスプーンの使い方を教えるようなものだ。問題は知識の欠如ではなく、「初期余力(原資)の欠落」にある。

本当に必要なのは、机上のリテラシー教育ではなく、構造的に若者の手元に「余白」を作り出す制度的な介入だ。

1つは、給付型奨学金の抜本的拡充や、過去の奨学金債務の公的免除だろう。社会に出た瞬間に数百万円の借金を背負わされ、マイナスからのスタートを強いられる構造を放置したまま、投資を促すこと自体が破綻している。

もう1つは、若年層の居住費に対する直接的な公的支援や、労働市場における同一労働同一賃金の厳格な運用、下請け取引の適正化による中小企業の賃上げ原資の確保だ。月2万〜3万円でも可処分所得が浮かなければ、複利のゲームに参加することすら叶わない。

さらに踏み込むなら、イギリスが過去に試みたチャイルド・トラスト・ファンドのように、生まれたすべての子どもに対して国が一定の初期投資原資を非課税口座に付与し、成人するまで引き出せない形で運用するような、「生まれによる初期資本格差を相殺する装置」すら検討に値する。

限られた資源をどこへ配分するのか

しかし、こうした若者支援の議論を進めようとすると、必ず「その財源はどこにあるのか」という壁に突き当たる。

ここで僕は、一度極端な考えに傾きかけた。「若者にお金を使うのは将来への投資だが、高齢者にこれ以上お金を使い続けるのは浪費ではないか」と。年金は過去に保険料を納めてきた対価としての保険であるにしても、際限なく膨らむ高齢者医療費などは、もっと大胆に削れるのではないかと考えたのだ。

だが、その論理にも危うい穴がある。

社会保障は、経済成長のための投資信託ではなく、誰しもが老いて病むという不可避なリスクを社会全体で分散するための「相互扶助の保険」である。もし「生産性がないから」と高齢者医療を乱暴に切り捨てれば、その負担は直接、現役世代の家族に親の介護や医療費として跳ね返ってくる。介護離職で若手・中堅のキャリアが断たれれば、社会全体の生産性はむしろ大きく損なわれる。

問題の本質は、「若者か、老人か」という単純な世代間対立で片付けることではない。「有限な医療資源を、どう賢く使うか」という制度運用の規律にある。

日本の公的医療保険は、世界に冠たるフリーアクセスを誇る一方で、回復の見込みがない終末期における過剰な延命治療や、市販薬で代替可能な軽症への保険適用など、惰性で公金を注ぎ込んでいる領域が少なくない。「命は地球より重い」という美名のもとに、費用対効果の検証から目を背けてきた結果、現役世代の保険料負担が限界に達し、若者の投資余力を奪っている。

北欧のように、回復不能な終末期には過度な点滴や胃ろうを行わず、痛みを緩和して自然に看取るという文化的・法的な合意を日本でも形成できないものか。公的保険で支えるべき「標準治療」と、個人の強い希望による「自費延命」の境界線を冷徹に引くべきではないか。

どうしても機械に繋がれてでも一日長く生きたいと望むなら、それは個人の自由であり、自費で賄うのが筋だ。公金を使う以上、そこには明確な上限とルールが必要になる。それは冷酷な命の選別ではなく、次の世代へ社会インフラを引き継ぐための最低限の統治責任のはずだ。

歩きながら考えること

朝刊の小さなグラフから始まった思考は、若者の資産格差から教育の断絶、社会の分断、そして医療インフラの引き際にまで広がってしまった。

若者の金融資産のジニ係数が0.7を超えたという事実は、遠い未来の不吉な予兆などではない。僕たちが何十年もかけて築き上げてきた「中流社会」が、足元から音を立てて崩れ始めている現実そのものだ。

複利の増幅力と、生まれの格差が結びついたとき、個人の自由な選択という看板の陰で、社会はかつてないほど冷酷な階級社会へと変貌していく。その流れを食い止めるための時間は、それほど多く残されていない。

だが、高齢者への支出を単に切り捨てるような短兵急な解決策では、社会の連帯そのものを壊してしまう。では、誰が痛みを引き受け、どこに境界線を引くのか。その合意形成を、対話が失われつつあるこの国でどうやって成し遂げるのか。

日経新聞を畳み、冷めかけたコーヒーを飲み干しても、すっきりとした答えは出ない。ただ1つ確かなのは、「努力すれば報われる」「投資は自己責任だ」という耳ざわりの良い言葉で思考を止めてしまうことこそが、最も危険な怠慢だということだ。この見えない亀裂の深さを、僕たちはもっと直視しなければならない。


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