犬守神社と怪しい男と、狛犬の前に座る犬
僕が、早朝の犬守神社を訪れたのは、特に理由があったわけじゃない。
地方の小さな温泉宿を訪れて、3日めともなれば何もすることがない。だから、近くの神社をお参りすることにしただけのことだった。
仕事を離れて、一週間の休暇をのんびりと過ごすことを決めたものの、こんなにも時間が流れないものだとは思わなかった。
長い石段を一段ずつ上がっていく。踊り場で振り向くと、小さな町の景色が一望できた。
石段を上り切ると、誰もいない神社。早朝の神社には、なんともいえない澄んだ空気が流れている。本殿に手を合わせて、境内のベンチに座っていると、目の前を、赤い首輪をした白い犬がトコトコと通り過ぎていった。
さっき、狛犬の前に座っていた犬だ。まるで狛犬の話でも聞いているかのように、首を傾げていたのが可愛かったな。
あの石段を上ってきたのだろうか?
口には何やら、お供え物の食べ物を咥えている。
そういえば、摂社には奉納用の場所があったな。
神社なのにお供えなんて面白いなと思ったけれど、それを白犬が当然のように持って行くのも、穏やかな地方らしくて面白い。
石段をゆっくりと下りて、宿へと向かう。
塀の上から宿の裏庭をのぞくと、従業員のおじさんが、朝も早いのに物置の道具を広げてフェンスの修理をしていた。
干物と味噌汁と海苔。温泉宿の定番みたいな朝食を味わったら、露天風呂へと向かう。
ゆったりとお湯に浸かって、両腕を石のへりに伸ばして、空を眺める。
これぞ、休暇だ。まるで時間の流れが、ここだけ取り残されてる。
部屋に戻って汗がひいたところで、町へと繰り出した。
…とはいっても、海のそばの小さな町だ。
数少ない観光的な場所はとっくに回っているから、古い建物の風情を探したり、隙間をのぞいてみたりと、のんびり歩くこと自体を楽しんでいた。
小学生ぐらいの子が背伸びして、郵便ポストに手紙を入れている。
肉屋では、買い物籠にコロッケの包みをいれる主婦がいる。
この町に流れる時間が自分の中に染み込んでいた。
歩き回っているうちに、町の地図はもう必要がなくなってしまった程だ。
路地裏を歩けば、あちこちに昭和が隠れている。
そんなとき、目の前に神社でみかけた白い犬がいた。
白犬は、野良猫の親子に食べ物を持ってきたようだった。
なんだか、猫が白犬に頼っているようにも見えた。
次の日の早朝も、犬守神社の石段を上ってみた。
朝の神社で、自己流の体操をしていると、また、あの白犬が狛犬の前に座って首を傾げている。ところが、今日はお供え物を咥えることもなく、そのまま石段を降りていった。
僕は好奇心にかられて、白犬の後をついて行くことにした。
白犬は、目的地が定まっているかのようにトコトコと歩いていく。
そんな白犬の後を、まるで探偵が尾行するかのように、時折、建物の陰に隠れながら追いかける。やがて、白犬は空き地の草むらへと入って行った。
郵便ポストの裏から覗いていると、草むらからツバメを咥えた白犬が出てきた。ツバメは僅かに羽を動かしたけれど、傷ついているのか逃げ出せないように見えた。
さすがにまずいとは思ったけれど、白犬が何をするのか見届けてみたかった。昨日の猫の親子に差し出すつもりなのかな。その時は止めるべきなんだろうな。
白犬は、あいかわらずの速度で歩いている。
そして、ある家の前まで来ると、玄関前にツバメをおいて、大きくワンと鳴いた。やがて、ドアが開くと、さっと走り去った。
玄関脇の看板をみると、そこは町医者だった。
もしかして、白犬は、狛犬の使いのように動いているんじゃないか?と、バカな妄想が浮かんだ。
次の日の早朝、白犬のことが気になっていた僕は、いつもより早く神社に出かけた。
石段を上って、静かな境内のベンチで朝の空気を吸いながら、白犬が現れるのを待っていると、自分でも「いったい何をしてるんだか」という考えがよぎる。
不意に足元が引っ張られた。
視線を落とすと、白犬がズボンの裾を咥えて引っ張っていた。
えっ、なんだ? 先に来ていたのか?
白犬は、勢いをつけてズボンを引っ張っている。
どこかに連れていこうとしているようだ。
わかった、わかったよ。
どこに連れていきたいんだよ。
白犬が引っ張る先には、狛犬があった。
そういえば、白犬はいつも首を傾げて狛犬の前に座っていたな。
僕は白犬と並んで狛犬の前に立った。
白犬はいつものように座って首を傾げ、何かを聞いている風だ。
狛犬の言葉でも聞こえているんだろうか?
まさかね。僕には何も聞こえない。
やがて、白犬がこっちをみて小さく吠えた。
えっ、なに? わかんないって! なんなんだよ。
白犬は首を傾げる動作を繰り返した。
あっ、そうしろってことなのか?
僕は白犬と同じように狛犬の前で首を傾げた。
白犬は満足げな様子だ。
だけど、やっぱり何も聞こえない。
しばらくすると、白犬は僕の前に回り込んで、ワンとひと声吠えた。
まるで「わかったな?」とでも念を押すかのように。
いや、こっちは何もわかんないんだけど。
まったく全然、わからない。
白犬は、まるで話しかけてるかのように、ワウワウと僕に吠える。
「ごめん。何が言いたいのかわかんないんだけど。全然、わからない。わからないんだよ!」と返した。
白犬が目を剥いた。
白犬は、町を見下ろす石段の上へと走ると、振り返って吠えた。
白犬の横へと移動して、一緒に町を眺めてみる。
そうか。この町のどこかに、困っている動物や人がいるってことなんだな?
僕は落ちていた枝を拾うと、ここから見える風景を地面に描いた。
向こうに見える海に続く道と、主な建物を落書きみたいに棒で描いた絵だ。
僕は町の風景を指さして、地面に描いた絵の同じ場所を指した。
「あの海が、ここね。で、あの家がこれ。わかる?」
白犬はワンと答えた。
わかってるのか、わかってないのか、よくわからない。
どうやら何かは伝わってはいるらしいけれど。
「で、どこにいくの?」と僕。
白犬は、地面の絵を飛び越えると後ろ足で砂をかけた。
「あっ、何するんだよ! せっかく描いたのに! お前、やっぱりわかってないな。狛犬にちゃんと聞いたのかよ? もう一度だけ描くからな」
再び、棒で地面に町の絵を描く。
白犬はまた同じように、後ろ足で砂をかけた。
その砂は、地面に描かれた海から町の方へと降り注いだ。
「お前、この絵が気に入らないのかよ! せっかく描いたのに。あぁーあ、砂の海が町を飲み込んじゃったじゃないか。…? えっ? …いや、もしかして津波....なのか? まさかな」
白犬は、こちらをじっと見て何も答えない。
「待て、ちょっと待て! ちゃんと狛犬に聞いてこいよ!」
僕は白犬を背中から抱えると、狛犬の前に連れていって座らせた。
後ろから白犬の頭を両手でぐいっと傾けて、狛犬の方に向ける。
僕も同じように首を傾げて狛犬を見てみる。
でも、やっぱり何も聞こえない。
白犬が首の位置を戻した。
僕はさっきの場所で、あらためて地面に町の絵を描いた。
白犬はまた同じように海から町へと砂をかけた。
本当に津波なのか? いや、犬のすることだぞ。
この絵が気にいらなかっただけじゃないか?
だいたい、いきなり津波って。
本当だとしても、お供え物やツバメを運ぶのとはスケールが違い過ぎるだろ。何をどうすればいいんだよ。
それにさ。もし、そうだとしても、「いつ」くるっていうんだ?
それがわからなきゃ、どうしようもないじゃないか。
「よくわからないし、帰ろうかな。休みもそろそろ終わるし」
そうつぶやいた途端、しゃがんでた僕に、白犬が正面から飛び込んで、頭突きをくらわした。
その勢いにひっくり返って、尻もちをつく。
「痛たた……! わかった、わかったから! 冗談だってば!」
額を押さえながら白犬に言った。
いや、冗談じゃないよ、まったく。
頭突きされた額が痛い。
だいたい、誰かに「津波がくる」と伝えたところで、本気にされるもんか。
「本当なんです! 犬が狛犬に聞いた話をまた聞きしたんです。いつかはわからないけど、そのうち来るんです」って訴えるのか?
不審者として捕まるだろうよ。
僕の宿泊先が、温泉宿から留置場に変わるだけだ。
それに100歩譲って、津波がくるのが本当だとしようか。
でも、問題は「いつ」くるかってことだ。
そんなもの気象庁だって予想できないだろ?
だいたい、津波の時期がわかったところで、2日後にはこの町を離れるんだ。それ以降のことなんてどうしようもないじゃないか。
もちろん、睨みをきかせている白犬に、そんなことは言わないが。
地図みたいにうまくいくかはわからないけど、僕は棒きれで、地面に半円を描いた。その隣にもうひとつ半円を描く。そして、さらにまた隣にも描いて、3つの半円が並んだ。
そして、最初の半円を棒で指しながら、白犬に言った。
「これは太陽の動きを描いた線だ。ほら、あの太陽。それは今、この位置にある。あれが、ここ! 津波がくる時、太陽の位置はどこにあるか教えてくれよ。こっちの半円は明日だ。その隣のこれは明後日。津波がくるのはどこだい? それとも、もっと先なのか?」
白犬は、キョトンとした顔で僕を見てる。
お前、大丈夫か?
もう一度、問いかけても、白犬は首を傾げるだけだ。
「さすがに無理だよなぁ。犬に聞くなんてどうかしてた」
諦めた僕は、棒を思いっきり放り投げた。
白犬が反射的に棒を追いかけて走っていった。
よし、いまのうちに逃げるか!!
立ち上がろうとした時、目の前に、ヒラヒラと一枚の葉っぱが降ってきた。それは、ゆっくりと半円の上に落ちた。
えっ? 上を見上げると、風もないのに杉の木の枝だけが揺れている。
そして、また葉っぱが落ちてきて、同じ場所に重なった。
呆然として、半円の上に重なった杉の葉を見つめた。
その上に、さらにもう一枚の葉っぱが落ちてきて重なった。
三枚の葉っぱが同じ場所に重なった。
そんなことが、偶然に起こるものだろうか。
その葉が落ちた場所は、太陽が明日の早朝を示す位置だった。
ちょっと待ってくれ。
いったい誰が、こんなものを見せてるんだよ。
これじゃ、津波が来ることも、それが明日の朝だということも知ってしまったみたいじゃないか。
もう知らないフリができなくなってる。
まずいぞ。追い込まれてきてる。
そこに棒切れを咥えた白犬が戻ってきた。
白犬は、僕の前に座ると咥えていた棒を置いた。
「ほれ、お前の報酬だ」とでも言わんばかりに。
散歩で目にした穏やかな町の風景が脳裏をよぎった。
僕はいったい何をすればいいんだろう?
どうやら、明日の早朝に津波が来るらしい。
でも、その津波がどこまで来るのかわからない。
町には、海から離れた場所も含めれば100軒は家がある。
少なくとも、この神社まで避難すれば命は助かるはずだ。
でも誰も信じるはずがない話を、どうやって皆に伝えればいいんだ?
どうすればいいかわからないまま、白犬と石段を降りて、町を歩いた。
一軒ずつ家の場所と様子を確認していく。
犬が庭に繋がれている家が何軒もあった。
庭で鶏が遊んでいる家もある。
そうして町を調べる様子は、まるで泥棒の下調べだ。
津波がくる時には、地震が前兆になるという。
そこからあとの避難は、時間との勝負だ。
だから地震がくる前に津波を知らせて、住民が逃げるのに十分な時間を稼がなきゃならない。
でも、もしも津波が来なかったら?
まともに考えれば、その可能性の方が高いんじゃないか?
なにしろ、犬からのまた聞きなんだぞ。
ええい、そのときはその時だ。
津波なんて、来ない方がいいに決まってるじゃないか。
そのときは人生が詰む前に、さっさとこの町から逃げるんだよ。
これからやることは、褒められるようなことじゃないんだから。
神社に戻ると、僕は町を歩きながら考えた計画を白犬に話した。
白犬は興味なさそうに寝そべると欠伸をして、後ろ足で耳をかいた。
お前、絶対にわかってないだろ!
いや、当たり前だ。こいつは犬なんだから。
僕は白犬を抱きかかえると、狛犬の前に運んだ。
そして、狛犬にさっきの計画を聞かせた。
最後に、「頼むよ、狛犬からこいつに伝えてくれないか」と添えて。
この構図は、完全に頭のおかしな人だ。
それぐらいのことは自分でもわかってる。
白犬は、神妙そうに首を傾げて狛犬を見ていた。
僕への態度とはずいぶんと違うじゃないか。
それから僕は宿に戻った。
夕飯を食べて、露天風呂にゆっくりと浸かる。
そして、予定を繰り上げてチェックアウトした。
宿を出て、夜の犬守神社の石段をあがっていった。
くっきりと輝いている星空の下。
最上段の石段に腰かけて、町の灯りが一つずつ消えていく様子を眺めてた。
いつの間にか白犬も横にいた。
さぁ、はじめようか。
温泉宿でもらった手ぬぐいで、ぎゅっと、ほっかむりをした。
防犯カメラには素顔で写りたくない。
石段を降りたら宿の物置に寄って、ボルトカッター、いわゆる金切りバサミを持ち出した。そして拡声器をとって、斜め掛けする。
早くも「窃盗罪」が成立だ。
そして大通りを避けて、白犬と海辺の方へと歩いた。
防波堤に立って黒い海を見る。
本当にこれから津波がくるんだろうか。
来るか来ないかはわからないが、どちらにしてもやることは変わらない。
白犬は、外で犬を飼っている家に入り込む。
そこの犬と何やら話しているようだ。
戻ってきた白犬に案内されて、庭につながれている犬の鎖をボルトカッターで切断した。
これで「住居侵入罪」と「器物破壊罪」が成立した。
夜明け前にほとんどの外飼いの犬たちの鎖を切った。
鶏小屋の鍵も切断した。
もう、あと戻りができない完全な犯罪者になっている。
そして、最後の飼い犬の鎖を切ろうと悪戦苦闘していた時、突然に家の灯りがついて、バットを持った男が飛び出してきた。
「泥棒ーー!!!」と男が叫んだ。
僕は逃げ出しながら大声で叫ぶ。
「津波がくるぞーーー!」
「不審者だーー!!」
「津波だーーーー!」
あちこちの家の灯りが灯っていった。
「泥棒だぞーーーー!」
「津波がくる。神社へ逃げろー!」
いつの間にか白犬の姿が見えなくなってた。
細い路地を全力で逃げ回りながら、僕は叫び続けた。
犬たちが一斉に吠え始めた。
外犬たちは、玄関に体当たりして家の者たちを起こす。
そして敷地を飛び出すと、まだ暗いままの家の玄関前で、灯りがつくまで吠え続けた。
次々と家から人が飛び出してくる。
犬たちの鳴き声が町中に響き渡っていた。
その時、地面が揺れた。
地震だ。もうすぐ津波がやってくる。
ツバメが目の前を通り過ぎて、空中を大きく回っていた。
足に小さな包帯を巻いたツバメ。僕を誘っているのか?
ツバメを追いかけると、いつかの路地裏に野良猫の親子と白犬がいた。
野良猫は、動けないのかよ?
もう迷ってる暇はない。
猫の親子を抱えると、白犬と通りを走った。
騒ぎでパニックになった鶏が、鶏小屋から飛び出して頭の上に乗った。
痛いって!
足の爪が、ぎゅっと食い込んでる。
白犬が吠え、猫が鳴き、鶏が騒ぐ。ブレーメンの音楽隊かよ!
僕は声を限りに叫び続けた。
「津波がくるぞー! みんな神社へ逃げろ。オレは怪しくなーい!」
「鶏ドロボー!!!!」
後ろから声がした。その後ろからさらに声が聞こえた。
「津波は本当だ。みんな逃げろー! 走れー!!」
バットを持って追いかけていた男が、僕を追い越した。
振り返ると、黒い海が盛り上がっているように見えた。
大勢の人がマラソン大会みたいに走っていた。
大きな犬も小さな犬も吼えながら駆けている。
大きな犬は、あちこちの家の玄関に体当たりしては、また次の家へと走る。
そのあとで、人間たちが家の中に声をかけていく。
年寄りをおぶり、子供を抱き、神社へ向かって皆が走っていた。
自分だけが浮いてるような気がした。
神社に辿りついたときは、息も切れてへとへとだった。
片手を石段につきながら、中腹まで上がっていく。
息が苦しくて、もう動けない。
石段は大勢の人で溢れかえっていた。
住人たちは皆、逃げ切れただろうか。
薄暗かった空の色が、夜明けのオレンジへと移り変わるなか、海辺の家を黒い波が飲み込んでいくのが見えた。
やがて太陽が顔を出した。
すると頭の上で鶏がコケコッコーと大きく鳴いた。
そして、白犬が長い長い遠吠えをした。
僕は踊り場の隅に、猫の親子をそっとおろした。
そこで視線を感じて振り向くと、見覚えのある顔があった。
「鶏ドロボー!」と追いかけてきた男だ。
「あの、この鶏。盗んだわけじゃなくて、飛び乗ってきたんです」
男は、差し出した鶏を、無言で受け取った。
白犬が足元を一周して、フワフワの体を擦り付けると、ちょこんと座って僕を見上げた。
「僕は行くよ。あとは別の誰かに頼んでくれよ」
いまのうちだ。とにかく見つからなければいい。
それにしても、さっきの男。胡散臭そうに見てたな。
僕は石段の中腹から脇道へと進んだ。
そして、ほっかむりの手ぬぐいをはずすと、おみくじのように木の枝に結んで斜面を走った。
◆「犬守神社の物語」シリーズ
犬守神社(いぬもりじんじゃ)という不思議なことが起こる場所を舞台にした連作です。笑ったり、しんみりする物語が、ジャンルを超えて紡がれるシリーズ。単体でも完結するけれど、順番に読んでいくと物語のうねりが見えてくるお話です
・犬守神社とみかん飴と、ワワンのワン
・犬守神社と大きな耳の小さな犬と、迷子の少女
・犬守神社と怪しい男と、狛犬の前に座る犬 ←今回
・犬守神社と少年少女と、化石の森(準備中)
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