連載小説『小説を書いてる友達』 第2話(全9回) 【創作大賞2026】
2.奇妙な寄生虫は如何にして宿主に取り憑いたか
翌日の朝、男は僕の家で寝ていた。ガラスが割れるんじゃないかと思えるほどの馬鹿でかい鼾をかきながら、冷たいフローリングの床に横たわっていた。僕はといえば、生まれて初めて飲んだ酒による二日酔いのせいでトイレに篭りっきりになっていた。
前日の記憶は途中からすっぱりと切れてしまっていた。しかし、1軒目で不味い餃子とラーメンを食べつつビールを飲み、その後あれよあれよという間に2軒目、3軒目と梯子して最後に公園へ行ったところまでは覚えていた。どうしてそんなことになったかといえば、やっぱりこいつのせいだ。
校舎を後にした僕たちは、少し歩いた後でおもむろに古くて汚いラーメン屋に入り、油のこびりついた不潔な席についた。そしてこいつは瓶ビールと餃子を注文し、店員の太ったおばさんにグラスを二つ持ってくるよう言った。ほどなくして、黒っぽい茶色の大瓶と小さなグラスがどかっとテーブルに置かれた。こいつは慣れた手つきで片方のグラスに琥珀色の液体を注いですっと僕の方へ差し出し、それからまた自然な動きで自らのグラスにふつふつと泡立つ液体を注ぎこんだ。
生まれて初めて飲むビールは炭酸による多少の爽快感はあったものの、苦すぎて一生好きになれなさそうだなと思った。しかし目の前の馬鹿が至極うまそうに飲んでいたので、負けじと僕はぐっと一気に呷った。そんな僕をじっと眺めながら、こいつは口を開いた。
「おい、お前、誰が好きなんだよ。」
「誰って、何がだよ。好きな人なんかいないよ。」
「あのなぁお前…。んなもん普通ひとつしかねーだろ。作家だよ作家!」
「ああ?ああ、うん、作家ね。うーん、そうやっていきなり言われると難しいな。なんだろ、すっと出てこないというか。」
「なんだよ、そんなもんパッと答えられて当然だろ。」
僕は少しムッとし、こう答えた。
「いちいちうるさいな、色々読むから好きな作家多いんだよ。」
「そんな事言ってっけど、実際なんでも適当に読んでるからどの作家にも思い入れなんかないんだろ?」
こいつはニヤニヤしながら言った。
いちいち癇に触るやつだ。どうしてこう、常にこっちを煽ってくるんだろうか。
「そんなわけないだろ!全部真面目に読んでるに決まってるじゃんか!黙ってろよほんとに!いちいちムカつくんだよお前は!いいよ、すぐ答えてやるよ!ああ、くっそ。うーん...。あ、あれ、あれか、あれだろ?一番よく読んでる作家ってことだろ?それならすぐ言ってやる。川上弘美と村田沙耶香、ほら、これで満足か?」
こいつはその通り満足げな表情を浮かべた。
「ほーぉ、川上弘美ねぇ、いいじゃん、最高じゃん。」
僕は顔がかっと熱くなるのを感じた。酔いが回ってきたのかもしれない。
「でもよ、村田沙耶香は俺ん中じゃナシだな。『殺人出産』は結構よかったけどよ、最近の作品なんてなんの捻りもねぇじゃん。題材もつまんねぇしさ。」
おい、聞き捨てならねぇなこの野郎。
「その考えは間違ってるだろ。村田沙耶香は、ただ無駄を削ぎ落として究極の形に近づいていっただけだ。」
「と、いうと?」
こいつはうすら笑いをやめ、真剣な顔つきになった。
それを見た僕は、胸の奥からぐわっと熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「例えば川上弘美だってそうだったろ?最初は『蛇を踏む』みたいな壮大な幻想世界を描いてたけど、少しずつその方向性を日常にシフトさせていった。そうやって幻想的な設定に頼ってた独自の世界観を削ぎ落としつつ究極まで磨き上げ、僕たちが生きているこの世界にすらあの独自性を持ち込んでみせたんだ。その努力の結晶が『センセイの鞄』だ。村田沙耶香も同じような道を通り、個性を極限まで小さくしつつもそれまでに増して強烈に輝くように磨き上げた。そんな試みが評価されて彼女は『コンビニ人間』で芥川賞を受賞するに至ったんだ。だから捻りがないなんていうのは大間違いで…」
そこまで言って僕は急に我に返った。
こいつはというと、ガチガチになっていた顔の緊張を既に解いていた。
何度も目をぱちくりさせ、口をきゅっと閉じる。それから僕の顔をまじまじと見つめる。額からは、大量の汗が吹き出している。
そのまましばらくの静止、そして不意に、ゆっくりと口を開く。その口は、こんな言葉を紡ぎ出した。
「やっぱ、お前、最高だな…。」
口角を少しだけ上げながら、こいつはふっと笑った。
今までと違い、その表情に人を見下すような態度はまったく見られなかった。
胃の中に滞留して不快感を齎していたものを全て吐き出した僕は、這うようにしてトイレからでた。そして急いでシャワーを浴びて着替え、吐き気と頭痛に耐えながら学校へ行った。講義中は、全科目オリエンテーションのみだったのでほとんど寝ていた。お昼ごはんはこの日も食べられなかった。胃がビクビクと痙攣していて、食べ物のにおいを嗅いだだけでも胃液が戻ってくる始末だったから仕方がなかった。こんな調子でようやく四限の終わりまで凌ぎ切った僕は、最後まで治ることのなかった頭痛に苦しみながらよろよろと家に帰り着いた。こいつはまだ横たわっていた。何か言ってやろうかとも思ったが、もう体力的に限界だった僕は怒鳴りつけることもなくドサッとベッドに倒れ込んでしまい、そのまま泥の沼に落ちていくかのように眠った。
目覚めた時には日も落ちてすっかり夜になっていたが、室内の電気は煌々と灯っていた。僕はカーテンが開いたままになっている窓の外を眺めてから、ベッドの横にあった座椅子を見た。こいつがそこに座って、例の馬鹿でかい単行本を読んでいた。
「おう、起きたか。」
僕の視線に気づいたこいつは、本から顔を上げて言った。
「腹減ったな、そうだろ?」
立て続けにこいつはそう言った。
一度しっかり睡眠をとったからだろうか。確かに昼間とは違いかなり腹が減っていた。
「何食べるの?」
「そうだな、蕎麦でも食い行くか。」
「どっか店知ってんの?」
「ああ、この辺はわかんねぇけどな、少し電車乗ればわかるよ。行こうや。」
僕は目を擦って立ち上がり、服を脱いでバスルームに入った。
そして熱いシャワーを浴びながら、これから食べる蕎麦のことを考えた。
バスルームから出た後は丹念に体を拭き、髪を乾かして下着を着た。
居間に戻ると、こいつはまた例の本を読んでいた。
「ねぇ、それ本当は何読んでんの?」
「ん?ああこれ?」
「そう。デレク・ハートフィールドじゃないんでしょ?」
「そそそ。」
「じゃあ何なの?」
「『重力の虹』だよ。」
「ふーん、わかんないや。読み終わったら見せてよ。」
「おう。まあいつ読み終わるかわかんねぇけどな。」
「とりあえず、早く用意してくれない?」
「ああ?俺はもうこの格好でいくからいいんだよ。」
「あっそう。」
しばらくして家を出た僕はこいつについて行き、神田の蕎麦屋へ閉店ギリギリに入って極上の蕎麦を堪能した。それから散歩もしつつゆっくりと家に帰ってきた。その後は二人して黙って本を読んだ。僕は途中で寝落ちしてしまったが、朝起きた時、こいつはまだ本を読んでいた。ずっと起きていたに違いなかった。
身支度を整えて時間割を確認してから、僕はこいつの方を見た。相変わらず酷い猫背の状態で本を読んでいた。
「あのさ。」
僕は意を決して口を開いた。
「ん?」
「予備の鍵ここに置いとくからね。お前、帰る時ちゃんと鍵閉めて、最後ポストに入れていってよ。」
こいつは僕の顔を見ることもなく、すっと右手を軽く上げて了承の意を示した。
僕はその反応に一抹の不安を抱いたが、なにぶん時間も差し迫っていたので、それ以上何も言うことなくそそくさと家を出てしまった。
三限までの日程を終え、午後一番で帰宅した。こいつはまだいた。
うつ伏せになり、パソコンで何か作業をしているところだった。
次の日の放課後、やはりこいつはいた。
居間の隣にある畳の部屋の本棚から本を数冊引っ張り出して読んでいた。
その翌日も、当然のようにこいつはいた。
パンツ一丁で例の『重力の虹』とかいう本を読んでいた。
ベランダにはTシャツと下着が干してあり、穏やかな風にふわりと揺れていた。
「え?昨日までずっと同じ下着履いてたの?」
僕は露骨に不快感を表しながらそう言った。
「そんなわけないだろ。ノーパソ取り行くついでに着替えてきたわ。ついでに服と下着の替えも持ってきた。」
「でも勝手に洗濯機使ったんだろ?しかも鍵閉めないで出てったのか?」
「あのなぁ、そんな失礼なことするわけねぇだろ?ちゃんとコインランドリー行ってきたわ。鍵もしっかり閉めて持ち出したしよ。」
「あっそ。」
僕は熱いシャワーを浴び、部屋着に着替えた。そして、本棚から引っ張り出されて座椅子の横に積まれていた本を1冊ずつ開き、目を通していった。そうこうしているうちに16時半になった。
「おい、そろそろ飲み行くか。」
「えっ。」
「何がえっ?だよ。早く行くぞ。」
「いや、えっと。」
「ぼさっとしてんじゃねぇよ。ボンクラかお前。この時間逃しちまうとサラリーマンどもが一斉に解放されっから店に入れなくなんだろが。さっさと準備しろや。」
「え、いや、っていうか、何お前、その格好で行くの?」
「俺はすぐ着替え終わんだよ!ほらほら!早くしろって!」
僕とこいつは駅前の古いやきとん屋に入り、瓶ビールを注文して飲んだ。そしてお通しのメンマをつつきつつ、串焼きが運ばれてくるのを待った。やがてカシラとタンが四本ずつ、シロとテッポウが二本ずつ運ばれてきたので、そのタイミングで大瓶をもう一本注文した。赤い星がラベルに印刷された印象的なビール瓶がドカッとテーブルに置かれるのを待って、僕らはやきとんに手をつけ始めた。じゅわっと溢れ出す肉汁と内臓独特の獣臭さが口の中いっぱいに広がる。それをまろやかな舌触りの炭酸で流し込む。以後、それを何度も何度も繰り返す。やがて全ての肉を平らげた僕たちは追加で大瓶を注文した。こいつはその際灰皿を持ってくるよう店員に頼んでいたが、指定の喫煙室に行くよう案内されたため、軽く舌打ちをして席を立った。
ビールが残り半分くらいになったところでやつは戻ってきた。僕はこいつのグラスにビールを、泡が荒く立たないよう丁寧にゆっくり注いでやった。こいつはぐっと一気に飲み干し、古い木目のテーブルにコトリとグラスを置いてから、僕の方も見ずにぼそっとこう言った。
「佐々木。」
「えっ?」
「佐々木、俺の名前だよ。」
あまりに突拍子がなさすぎて、最初何を言ってるのかまったくわからなかった。
「あ、ああ。僕は、その、木下。」
でも、なんだって…。
「なんだって今更そんなこと言うのかって?一度も自己紹介してなかったことにさっき気づいたからだよ。むこうでタバコ吸ってる時にな。」
「ああ、そう、なのか。そういえば、そうだな。」
「まあでもよ、そんなことする必要なんかなかったのかもな、俺たちは。」
「どういうこと?」
「わざわざそんな堅苦しい手順を踏まずとも、仲良くなれるくらいに俺たちはフィーリングが合ってたんじゃねぇかってことよ。」
「ああ、そう。」
「じゃなきゃこんなに長ぇこと一緒にいられんて。朝昼晩ってな。」
「そうだね…。」
だいぶ酔いが回ってきたのだろうか。視界はふらつくし、頭もぼーっとしてうまく働かなかった。それでも僕は勇気を振り絞るために深く息を吸い込み、覚悟を決めて口を開いた。
「で、でさぁ、佐々木。」
「ん?なんだ?」
「あの、いつ帰んの?」
佐々木はまったく酔いを感じさせない軽やかな手つきで自分のグラスにビールを注ぎ、クッと呷った。
「なんだよ、迷惑か?」
「そりゃ、お前迷惑だよ。迷惑に決まってんじゃん。」
「はん、俺がいたらシコれねぇからだろ?どうせ。」
佐々木は僕の方を向いて、例の人を小馬鹿にしたようなニヤケ面でそう言った。
「おまっ、シコるってそんな…。別にそんなわけじゃねぇし!」
「ハッハァ、冗談だよ冗談。そんなマジになんなって。」
相変わらず佐々木はニヤニヤしながら僕の目をじっと見ている。
なんだろう、こいつの細長く切れた目に見つめられると、僕は何も言い返せなくなってしまう。
「まぁシコりたかったら勝手にしろよ。別に気にしねぇから。俺もお前のこと気にせずやるからよ。」
「はぁ!?お前、ひとんちで何するつもりなんだよ!やめろよ!汚いじゃんか!!」
「ほらほら冗談だっての!おめーなんでも間に受けるよな、ほんとおもしれー。」
頭にくる。けどいつも、何か別の感情が喉の奥から込み上げてくる。
「だいいちあれだよ、ずっと居座るつもりならちゃんと金払えよな!家賃だよ家賃!」
「あぁ?んなもんてめぇだって払ってねぇだろ。」
「そ、そりゃ払ってないけど…。」
「はん、まぁ家賃以外のことはてめぇでなんとかすっから気にすんな。それに…。」
「それに、なんだよ。」
「俺はそのうち歴史に名を残すからよ。そしたらおめぇの親に、それまでの家賃を倍にして返してやるから待っとけって。もちろんおめぇにもくれてやる。いくらでもな。」
「はぁ?なんだよそれ。何をやるつもり…。」
「決まってんだろ?」
佐々木はグッとビールを飲み干し、カタンと強めの音を立ててグラスを置いた。
そして僕の方を見た。
その顔には、さっきまでの冗談めいた調子は微塵も感じられなかった。
「小説家だよ。俺は文学の歴史を塗り替えてやるんだ。」
その時のこいつは、それまでの五日間で一度も見ることのなかった、純粋で真っ直ぐな顔つきをしていた。
To be continued...
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