ひとり雑談・創作とノスタルジー
noteの嬉しいところは固定の読者が居るところだ。本当にありがたい。カクヨムだとそうも行かない。これは別に俺にエッセイの才能があって小説の才能がないとかではなくて、他人の『小説』を読むという行為が自己に要求するエネルギーは純粋に凄まじいから当然のことだと思われる。だけど書きたい奴らは大勢居て、この非対称が文学フリマ問題とか言ってTwitterでも度々話題になるわけだが、どうしたらみんなから読まれる小説が書けるのか。っていうのを考えたところでそれはただの承認ゲームっつーかアテンション・エコノミーで勝つ方法でしかなくて、端的に言ってしょうもない。何かをしょうもないと批評することそれ自体もしょうもない。しかしキリがないのでここでは便宜的に『勝ち/負けだとか成功/失敗の問題に拘ることはしょうもない』という立場を取ることにする。綺麗事ではあるが妥当な綺麗事である。
なんだろうな。似顔絵チャンネルのBGMみたいな小説を書きたいと常々思う。意味わかんないだろうけど切実にそう思う。WIIでMII作るときのアレだ。ぱっぱらっぱっぱダ・ダ・ダ♫ってやつ。知ってるでしょ?知らない?マジ?最近Switch2でも聴けるようになったんだぜ。ポコポコ感が増していて非常に良い。聴いてみてほしい。
これを読んでいる人の多くは恐らく僕と同じゼロ年代生まれなのでWIIは小さい頃に触ったことがあるという前提で行くが、この曲が人生における最高の瞬間に結びついている人、案外多いのではないか。僕の場合この曲は{祖母の家、庭のビニールプール、霜のついたガリガリ君はシャリシャリでうまい}といった感じの記憶を想起させてくれる。そんな風に人生の一部として妙に脳裏に焼き付く素敵な物語。なんかそういうのを書かなくちゃいけないって思う。
つまり結局のところ『思い出補正』に勝るものはないので、良い思い出として残るようなプロダクトこそが本物ってことだ。ジブリならトトロ。ノスタルジーこそが文学の本質であるって大きく言い切ってしまっても良いような気がする。物語は常に過去から作られる。その輝きを想起させ、読者の新たな過去の輝きとして保存される物語でなければならない。だけどそれってもはや作者にどうにかできる命題ではなくて、結局のところ書くしか無くて、だから頑張ろうっていう。それだけなのでした。
