「働いている人の話」
先週と今週、2年生の必修科目授業で、「働いている人の話」として 計4回(同一時間帯のクラスは合同授業)、1回につき2名ずついろいろな課の職員が学生にお話する機会があって――。
残念ながら先週はいずれも聞きに行けなかったのだけれども、今日は行けた。
2限目と3限目、それぞれ2名ずつ4名分のお話を聞けたというわけ。
自分がどのようにして今の職に就いたか。
前職がある人はその前職の話も含めて経歴を話し、仕事内容の紹介や
今との対比もまじえたり、現在の業務内容やそのやりがい・苦労している点、気を付けている点などなど――そして最後に学生へのアドバイス。
ふだんの仕事ではなかなかことばにはあらわれない、伺えないような思いに
触れることができたりして、自分にとってもいい機会だった。
四者四様――それぞれの経歴をもって「今・ここ」にいて、一緒に働いている。
顔と顔を合わせている時間は、24時間を分母にしたら半分にも満たないけれども、活動時間(起きている時間)で見たら、一日の大半を一緒に過ごしている人たち。
それでも、その人のすべてを知っているわけではなくて、そのひとの生活の一部を共有しているのに過ぎないんだけれども。
でも、話が聞けて良かったなあ。キリスト教的に言うと、”養われた”感じ?
先週の方々のを聞けなかったのは、ほんとに残念だったのだけど、きっと同じように「学生のために」語ってくれたのだろう。
学生のために、学生の成長を願う心。
自分のひとことが学生の人生を左右するかもしれない責任感。
ここでよかったと思って卒業してほしいという願い。
見た目に明らかな業務ばかりではないけれども「学生のために」を思って働くこと、どんな道のりをたどってここに来たにせよ、そんな気持ちをもって働いていること……。
「学生のために」。
そんなの職員としてはあたりまえと言えば、あたりまえ。
って、そうかな?
ほんとに、そうかな?
あたりまえだからこそ、あらためて学生に向けてのことばとして聞けたことが、うれしかったんだろうな。
あたりまえのこと、あたりまえに言えること、伝えられる人たちがいること。
いろんな学生がいるから、いろんな人がいることが大事。
でも、そのためには思いがひとつであることが大事。
だれかはダメでも、別のだれかがその学生の助けになればそれでいい。
学生たちに響いたことば、エピソードはそれぞれ違うだろうし、ずっと覚えていられることばかりでもないだろう。
けれども、小さな種みたいにどこかに残っていて、いつかどこかでそれがひょっこり思い出されて芽が出て、「社会へ出ていく」扉を開くエネルギーに、あるいは開いた扉から出ていくときの後押しになるのかも。
……などと、希望的観測を抱いてみたりもする。
やっぱり学生には期待をしてしまう。
期待は裏切られ、希望は失望を生むものというひともいるが、未来を作り上げていくチャンスが、彼女たちにはまだまだたくさんあるのだから。
(いや、わたしにはもはやないという意味ではないけど)
いずれにしても――思いひとつに、いや、ひとつの信念というべきか、
働くみんなの思いがそういうふうにとりまとめられたら強いよね。
自分の「つとめ」も忘れちゃいけないと、心の背筋を伸ばす時間になった。
ありがとうございました!
かなり自己完結だけど、それでいいのだ。
また明日、明日からがんばろう。(最近のお気に入り)
とある朝に、ちょっとした引っかかりがあって、その日は一日を通じてなんだか冴えなかった。
邪気のない報告のなかに、ごくごくちいさな引っかかりがあって、思いのほかそのことに傷ついてしまった。
たぶん、すごくくだらない、取るに足らないちいさなことだとわかっているのに、なんだかすごく寂しさを覚えて傷ついてしまったのだった。
自分の今あるポジションには、いつも心が振り回されている。
この頃のほうが、まだもう少し現場に近かったかなあ。
今もまた現場に近くなっているといえば近いのだけれど、いくらか敗戦処理的な役割になっている……いや、そうまで言わなくてもいいんだけど、なんとなく喜びや達成感よりも、疲れが先に立つような話ばかりが………………。
おっとっと、いけない。
これはまたネガティブループ、負のスパイラルにはまっていってしまう。
いけない、いけない。
ともあれ、この11年前の頃がなつかしい、と静かに、静かに読み返す。
