ランボーは山からやってくる ──「異物」を排除する社会が壊れるとき
全国的にクマの出没が増えている。「危険だ」「駆除しろ」「山へ帰れ」
そんな声が毎日のように聞こえる。
でも私はこう思う。
クマ問題は動物問題ではなく、社会問題だ。
そしてふと気づく。
あの映画『ランボー』の世界と私たちはどこか似てきている。
✅ 田舎町が恐れたのは「クマ」ではなく「異物」
『ランボー』では、小さな田舎町に現れた帰還兵ジョン・ランボーを保安官ティーズルが排除しようとする。
彼は犯罪者でも、危険人物でもない。
ただ、町にとって「異物だった」。
格好が目立つ
どこから来たか分からない
理解ができない存在
だから、追い払う。
田舎町の住民にとってランボーはクマのように見えた。
単に 「人間ではないもの」として扱われてしまったのだ。
✅ ランボーとクマが重なる理由
クマが人里にやってくる背景には、
過疎化
山林管理の後退
経済縮小
労働力不足
といった 社会の変化の結果がある。
それは
ベトナム戦争から戻ったランボーたちが
社会保障からも取り残され
“帰る場所を失った構造” と同じだ。
社会の都合で外側に追いやられ、
困って戻ってきたら恐れられる。
そんな存在を
クマと呼ぶのか
ランボーと呼ぶのかだけの違いだ。
✅恐怖は「排除の正義」を生み出す
ティーズル保安官に悪意はなかった。
ただ町を守りたいだけだった。
人々の安心を維持したかった。
だから彼はこう考える。
「外から来たものは危険だ」
「町が乱される前に排除しなければ」
これは現代社会にも当てはまる。
観光客 → 厄介者
移民 → 治安悪化の原因
ストリートにいる若者 → 社会の邪魔者
クマ → 即駆除対象
恐怖を燃料にした正義は、
いつも外側を切り捨てる。
そしてその正義は
社会を強くするどころか
むしろ壊していく。
✅ 排除社会の行き着く先
クマを排除しても
根本原因は何ひとつ解決しない。
山は管理されず
若者は町を離れ
コミュニティは痩せ細り
境界はさらに崩れていく
そしてまたクマが来る。
それを排除する。
さらに閉じる。
排外スパイラルが始まってしまう。
ランボーの物語のように
暴力だけが積み重なり
何も前に進まない。
✅ 私たちは「ティーズル」になっていないか
クマが出るたびに叫ぶ。
「危険だ、排除しろ」
それは本当に
社会を守っているのだろうか?
ランボーに向けられた銃口は
果たして誰を守っていたのか?
異物を排除する社会とは、
余裕を失った社会だ。
余裕をなくした社会は
弱いものから順に切り捨てていく。
それは他人事ではない。
✅ 結論:クマは敵ではない。鏡である。
クマ出没の増加は警告だ。
私たちは
誰を排除し、誰を守ろうとしているのか?
恐怖を理由に
外側を切り捨てる社会を
続けるのか?
それとも
境界を描き直し、
共存の未来を模索する社会になるのか?
ランボーは山に帰らない。
その社会に帰る場所がない限り。
クマも同じだ。
◆最後に
クマを見て
ただ「危険だ」と思うのは簡単だ。
だがその背後にある
私たちの不安・疲弊・排外性を
クマは静かに照らしている。
本当に変わらなければならないのは
クマではなく、
この社会なのかもしれない。
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