愛は終わったが、今も歯は守られている
誕生日や何かの記念日など、親しい人から何かをもらう機会が1年に何度かある。それが永遠に親しい人、家族、もしくは気にならない関係の人からなら良いのだが、恋人からもらったモノの場合、その人と別れたとき、どうするか迷ったことが、誰でも一度や二度あるのではないだろうか。
ここで捨てられない選択をされるものは、そのもの自体がとても高価か、とても気に入っているもの、もしくは生活必需品だと思う。私はそれが、最近別れた彼氏からもらった「マウスピース」だ。
彼は複業家で、現役の歯科技工士でもあった。
そのマウスピースは、バレンタインのお返しとして彼氏に作ってもらったものだ。そう、お手製だ。ホワイトデーのプレゼントがマウスピースと聞いたら、港区女子はひっくり返るんだろうか。
私は歯ぎしりや食いしばりの癖があり、マウスピースがちょうど欲しいと思っていたのが3月だった。ちょうどいいと思って彼に頼んだ。
今は毎日寝るときに必ずマウスピースをつけるが、別れてから日数が経っていないせいか、それを見ると2秒ほど元カレの気配がよぎる。でも嫌な気持ちは全くしない。実は、顔をもう忘れかけてきている。
というのも、付き合っているときから、彼の顔を思い出せないことが多かった。年のせいではなく、何故か自分でも未だに謎だ。
付き合いだした当初は特にそれがひどくて、デートで待ち合わせたときに「ああそうだ、こんな顔だった」と毎回思っていたくらいだ。初めて会ったときに一目惚れのような状況だったのに、意味が分からない。
ともあれ、マウスピースは捨てられない。プロが私の歯にぴったり作ってくれたものだ。
マウスピースを作る際、「歯型をとるから口の中を見せて」と言われたときは恥ずかしくて嫌だった。過去、口の中を見せた恋人はひとりもいない。が、仕方なく従った。
彼の家のソファに寝そべり、大きい口を開け、口のまわりに白いものをつけながら型を取られた。
「よし、かたまった」といって口の中からそれを取り出し、「はい、うがいしてね」と、まるで歯医者にいるようだった。
そして2週間後に「できたよ」と、マウスピースを渡してくれた。一緒に、私のリアルな歯型も見せてくれた。私が「自分の歯型なんていらない」と言ったら、「じゃあ預かっておくね、また使うかもしれないから」と彼は保管していた。でも、もうその機会が訪れることはない。私の歯型は、もう捨てられただろうか。
もし私が彼に未練があったら、マウスピースを付けることはできなかったと思う。もしくは、毎晩涙ぐみながら装着していた可能性もある。
でも、いま私はマウスピースを見ても、愛しさも切なさ心強さも存在していない。ふたりでマウスピースをつけて同じベッドで寝ていたときは楽しかったなあと、想像以上に早く、穏やかに彼との日々を振り返れる日がきて安心している。
わたしは今日もマウスピースを装着して、深い眠りにつく。
明日は、元カレにもらった、お気に入りの香水をふって出かけよう。まだ9割残っているので当然捨てていない。「この香りが好き」と、高島屋で何種類もの香水のにおいを確かめながら選んだ一本。あの時も楽しかったなぁ。好きな香りは、変わらない。
