王子に見初められ王妃になった私、聖女に煽られても前世の記憶でざまぁ返しする玉の輿逆転劇!
あらすじ
派遣社員として理不尽に耐える日々を送っていた森下彩香は、会社の不正を告発しようとしたことで上司に屋上から突き落とされる。しかし次に目を覚ますと、異世界の侯爵令嬢イレーネとして転生していた。やがて王子に見初められ王妃となるが、彼女は何度も「ギロチンで処刑される夢」を見るようになる。未来を変えるため民を救い続けたイレーネ。しかし聖女セラフィーナの陰謀により、ついに断罪の日が訪れる――。だが前世の記憶と積み重ねた信頼が、絶望の処刑台で大逆転を呼び起こす! 理不尽に負け続けた女の、痛快ざまぁ逆転劇!
本文
あの夜の光景はいまも鮮明に胸に焼き付いている。
煌びやかなシャンデリアが天井から光を降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床がその輝きを反射していた。
侯爵家の娘として初めて舞踏会に招かれた私は、豪奢なドレスを身にまといながらも、どうしようもなく場違いな異物のように感じていた。
人々の笑い声。
絹擦れの音。
甘い香水の匂い。
そのすべてが渦巻く中、私は隅に身を寄せ、ひたすら目立たぬように息を潜めていた。
「見た? あれが田舎侯爵家の娘よ」
「まぁ……王族に近づこうなんて、無理に決まってるわ」
背後で囁かれる声が胸を突き刺し、指先が冷たく震えた。
グラスを握る手にはじっとりと汗が滲み、逃げ出したい衝動を必死に押し殺す。
恥ずかしさと孤独で胸がいっぱいになり、うつむいたその時だった。
広間にざわめきが走り、音楽さえ一瞬途切れた。
視線が一斉に扉の方へと向かう。
王子が姿を現したのだ。
真紅のマントを纏い、凛とした立ち姿で現れたその姿は、ただそこにいるだけで空気を支配していた。
令嬢たちの吐息がもれる中、その瞳がまっすぐに私を射抜いた。
「君が……イレーネ=フォン=カリスタだね?」
耳を疑った。
自分の名が王子の口から呼ばれたことに、心臓が跳ね上がる。
周囲の令嬢たちが目を見開き、嫉妬の炎を宿した視線を突き刺してくる。
だが王子は迷いなく、真っ直ぐに私のもとへ歩み寄った。
「一曲、私と踊ってくれないか」
「わ、私が……?」
掠れた声が震えた。
信じられないという囁きが背後で重なり合う。
けれど王子はただ優しく微笑み、私に手を差し伸べた。
「ああ、君とだ。君でなければ意味がない」
その瞬間、胸の奥に熱が広がり、頬が赤く染まった。
恐る恐る手を伸ばし、王子の掌に触れる。
温かなその感触に全身がふるえ、胸の奥に張り詰めていた緊張がほどけていく。
音楽が再び流れ始め、私たちはゆっくりと舞い出した。
「緊張しているね」
「……は、はい。とても……」
「大丈夫。君は誰よりも美しい。だから胸を張っていればいい」
耳元で囁かれる声に、心臓が強く打ち、視界が揺らぐ。
周囲の視線など、もはや気にならなかった。
煌めく広間の中央で、王子と私だけの世界が広がっていたのだ。
そう。
あの夜こそが、私の運命を変えた瞬間だった。
だが、今は。

◇ ◇ ◇
「王妃をギロチンへ!」
押し寄せる怒声が石畳を震わせ、広場の空気は熱と憎悪で満ちていた。
処刑台の上に立たされ、両手を縛られた私は群衆を見渡す。
王妃、イレーネ=フォン=カリスタ。
かつては祝福と敬愛を受けるために呼ばれていたはずの名が、今では唾と罵声の中に掻き消されていく。
火照った顔。
怒りに血走った瞳。
民は拳を振り上げ、石を握りしめて今にも投げつけそうな勢いだ。
熱狂の渦に呑まれ、恐怖と憎悪が人々の表情を仮面に変えていた。
舞踏会で笑顔を交わしたはずの市民の姿は、そこにはもうなかった。
「贅沢ばかりしていた王妃だ!」
「民の血税を浴びて舞踏会三昧だ!」
「王子をたぶらかした玉の輿女め!」
「ギロチンだ、ギロチンへ!」
次々と浴びせられる声に、胸の奥が冷たくなる。
だが、不思議と心は乱れなかった。
なぜなら、この光景を私はすでに幾度も夢で見ていたからだ。
夢の中で、私は首を刎ねられた。
群衆に罵られ、血にまみれ、何も弁明できぬまま運命に呑まれていった。
けれど、夢は未来の警告にすぎない。
私は警告を無視するほど愚かではない。
あの未来を避けるために、ここまで準備をしてきた。
ギロチンの刃が陽光を受けてぎらりと輝く。
その下で民を煽り立てている女の姿が目に入った。
白い法衣をまとい、金糸で縁取られた聖紋を胸に掲げている。
人々から聖女と讃えられるその女は、祈りの言葉のように響く声で群衆を熱狂させていた。
「王妃を断罪せよ! 神は真実を見ている! この国を救うのは処刑しかない!」
聖女の声は澄んでいて、鋼のように硬かった。
彼女の一言ごとに民衆が熱狂の波を立てる。
その姿を見た瞬間、背筋が冷えた。
あの女。
あの聖女のことを、私は知っている。
かつての――。
群衆は聖女の言葉に酔いしれ、私を悪の象徴と決めつけている。
だが私は知っている。
夢で見た処刑の未来を変えるために、今日ここまで計画してきたことを。
そう簡単に終わるものか。
私はここで終わるつもりはない。
刃が吊るされたギロチンの枠が、ぎしぎしと不吉な音を立てた。
陽光に照らされた鉄の刃は、まるで私の首を待ち構えているかのように鋭く光を返す。
熱気にむせる群衆の叫びは、炎のように広場全体を包み込み、息を吸うだけで喉が焼けそうだった。
「さあ! 王妃を断罪せよ!」
「聖女様のお告げだ!」
「神の声に従え!」
「王妃をギロチンへ!」
民衆の視線は一斉に聖女へと向けられていた。

白衣をまとい、金糸の刺繍が陽光を反射して眩しいほどに輝く。
両手を天に掲げるその姿は、神の代弁者であるかのように幻想的ですらあった。
彼女の声が響くたび、群衆はうっとりとした笑みを浮かべ、熱に浮かされたように私へ罵声を浴びせる。
「イレーネ=フォン=カリスタ! あなたの罪は重い!」
「民を苦しめ、贅沢に溺れた報いを受けよ!」
聖女の指がまっすぐ私を指し示す。
その動作一つで群衆の怒号が爆発した。
石を握りしめる音。
椅子を蹴り倒す音。
息を荒げる声。
すべてが私を突き刺してくる。
全身に冷たい刃を突きつけられたような錯覚に、肺の奥がぎゅっと縮む。
夢で見た通りだ。
この熱狂。
この怒り。
この刃の光。
すべてが同じ。
けれど、私はこの結末を変えるためにここまで来た。
心臓は鼓動を強めているのに、不思議と視界は澄んでいた。
罵声の奥に潜む民の不安、恐怖、そして熱狂の裏にある空虚さが、手に取るように見える。

私の喉から自然に言葉が漏れた。
「……静まれ」
たった一言。
けれど広場の空気がびくりと震えた。
ざわめきが途切れ、誰かが息を呑む音がはっきりと聞こえる。
怒り狂った群衆の波が、わずかに揺らぎ、たじろぐのを私は見逃さなかった。
「なんだ……? 今の声は……」
「王妃が……喋ったのか?」
かすかな動揺が人々の中に広がっていく。
私は縛られた手を強く握りしめ、瞳を正面へと向けた。
胸の奥に熱いものがこみ上げ、声が自ずと強くなる。
「私は罪を犯してはいない。民の声を聞き、国を正すためにここに立っている!」
群衆の一部が息を呑み、聖女の眉がわずかに動いた。
私は知っていた。
ここからが逆転の第一歩だと。
◇ ◇ ◇
群衆のざわめきが静まり、広場に奇妙な沈黙が広がった。
聖女セラフィーナ=ルクレティアの掲げていた両手がわずかに止まり、彼女の視線が私に突き刺さる。
陽光を背にしたその姿はなお神々しく、しかしその瞳の奥には冷ややかな光が宿っていた。
「欺くな! 王妃の言葉に惑わされるな!」
セラフィーナが声を張り上げると、再び群衆が揺れた。
けれど、先ほどまでの熱狂にはわずかな迷いが混じっている。
誰もがその目で真実を確かめようと、息を詰めて私を見ていた。
私は一歩、処刑台の縁に進み出た。
縛られた手首は食い込み、赤く腫れていたが構わなかった。
胸に宿るのは恐怖ではなく、熱い決意だった。
冷たい風が頬を撫で、心臓の鼓動が耳の奥で轟く。
「民よ、聞け!」
声が自然と広場に響き渡った。
「私は確かに王妃となり、贅を尽くすように見えたかもしれぬ。だが、民の嘆きを黙って見ていたわけではない!」
群衆にざわめきが走る。
顔を見合わせる者。
眉をひそめる者。
罵声を上げかけた口が、次の瞬間、閉じられる。
「嘘だ!」
セラフィーナの声が鋭く突き刺さる。
「あなたは舞踏会と宝石に明け暮れていた! 民を見捨てた!」
私は首を振り、真っ直ぐに群衆を見据えた。
「それが真実なら、なぜ私は倹約令を出し、私の宝飾を市へ流したのだ? なぜ収穫の乏しい村へ王家の備蓄を送ったのだ!」
その言葉に広場は静まり返った。
数百の瞳が一斉に私を見つめる。
ざわめきは途絶え、空気が凍り付いたようだった。
「知っている者もいるはずだ。名を告げよ。あの時、飢えをしのぐために麦袋を受け取った者が!」
沈黙の中、最前列の男が恐る恐る手を上げた。
粗末な衣をまとった農夫だ。
「……確かに、王妃からの施しだと聞いた。麦袋を受け取った村は救われた」
群衆から小さなどよめきが上がる。
セラフィーナの目が細まり、僅かに口元が引きつった。
続いて老婆が杖を突きながら前へ進み出た。
「私の孫も飢えで倒れかけていたが、王妃様からの干し肉がなければ死んでいた!」
「干し肉……?」
誰かが呟いた。
記憶をたどるように、多くの視線が老婆に注がれる。
さらに若い母親が赤子を抱きしめ、涙ながらに叫んだ。
「この子が生まれた年、村は凶作でした。王妃様がくださった薬草で、私は出産を乗り越えられたのです!」
赤子の泣き声が広場に響いた。
その音に、人々の胸が一瞬掴まれたように静まり返る。
誰もが心の奥で、王妃の行いが真実かもしれないと感じ始めていた。
「民を救ったのは事実だ!」
「我らの村も、王妃様の命令で助けられた!」
次々と声が上がり始め、群衆はざわめきを超えてうねりへと変わっていった。
怒号は消え、広場に広がるのは真実を求める叫びだった。
セラフィーナの顔色がみるみる青ざめていく。
私は胸を張り、声をさらに強めた。
「私は民と共にある! そして民が真実を知ろうとする限り、偽りは暴かれるのだ!」
広場の空気は確実に変わりつつあった。
焦りの色を隠せないセラフィーナの表情を、群衆の視線が鋭く射抜いていた。
◇ ◇ ◇
群衆のざわめきは大きなうねりとなり、広場全体を飲み込んでいた。
石畳を震わせる怒号と足音。
聖女セラフィーナ=ルクレティアの白衣は陽光を浴びてなお輝いていたが、その神々しさはもはや信じられていなかった。
人々の目には、欺きと虚飾にまみれた衣にしか見えない。
「王妃を信じるな!」
セラフィーナが必死に声を張り上げる。
だがその叫びは掠れていて、かつての威光は微塵もなかった。
「あれは偽りだ! 私は神の声を聞いたのだ!」
しかし群衆は動かない。
ざわめきの中から一人の青年が震える声で告げた。
「……聖女様。私は見ました。神殿の奥で禁じられた肉料理を召し上がっていたのを!」
「な、何を……」
セラフィーナの声が詰まる。
しかし青年は怯まず続けた。
「民には倹約を命じながら、ご自身は酒と肉で宴を開いていた!」
「そんな……」
群衆から驚きの声が漏れる。
眉をひそめ、互いの顔を見合わせる者が増えていく。
別の侍女が前へ出た。
声は震えていたが、瞳は決意に満ちていた。
「私も見ました! 聖女様は神殿の改装に莫大な金を使い、金銀の皿を並べて……民に贅沢を禁じながら、夜ごと酒宴を開いていたのです!」
「嘘よ! それは……嫉妬からの虚言だ!」
セラフィーナは叫ぶ。
しかしその声は群衆の波に飲まれていく。
さらに王城に仕える男が押し出されるように前に出た。
額には冷や汗を浮かべながらも、彼は唇を噛みしめ、はっきりと言った。
「私は見ました。聖女セラフィーナが……現王と、夜に逢瀬を重ねていたのを!」
「なっ……!」
セラフィーナの顔が蒼白になる。
周囲の空気が爆ぜるようなどよめきに変わった。
信じていた聖なる象徴が、俗にまみれた姿へと引きずり下ろされた瞬間だった。
「偽りの聖女だ!」
「神を騙したのか!」
「王妃ではなく、セラフィーナを裁け!」
次々と叫びが上がり、怒号は一斉に方向を変える。
群衆の視線は鋭い刃のようにセラフィーナを突き刺していた。
白衣は陽光に照らされても、もはや神々しくはなかった。
ただの虚飾にすぎない。
私は処刑台の上で群衆を見渡し、胸を張って声を放った。
「民を惑わせ、贅沢と偽りに溺れた者。それこそが断罪に値する!」
「王妃の言葉を聞け!」
「もう騙されはしない!」
「セラフィーナを捕らえよ!」
怒声と足音が広場を埋め尽くす。
群衆が一斉に押し寄せ、セラフィーナは後ずさりを繰り返す。
彼女の頬は紅潮し、目は泳ぎ、唇は震えていた。
かつて神の代弁者として崇められた女は、今や恐怖に怯えるただの人間に過ぎなかった。
「私は……聖女よ! 神に選ばれし者なのよ!」
セラフィーナは必死に叫ぶ。
しかしその声は、群衆の怒りにかき消された。
広場に立ち込める熱気は、完全に彼女を呑み込みつつあった。
逆転は成り、断罪の矛先は王妃ではなく聖女へと移っていた。
◇ ◇ ◇
群衆の熱気は嵐のように広場を揺らしていた。
押し寄せる人々の声は、もはや王妃を断罪するものではない。
標的は完全に聖女セラフィーナ=ルクレティアへと移っていた。
「偽りの聖女を捕らえろ!」
「神を騙す者を許すな!」
「断罪せよ、セラフィーナを!」
民衆の怒号が幾重にも重なり、波のように広場を飲み込んだ。
誰かが石を投げ、それがセラフィーナの足元に転がる。
彼女は顔を引きつらせ、必死に後ずさった。
「やめなさい! 私は聖女なのよ! 神に選ばれし者なのよ!」
必死の叫びは、もはや誰の耳にも届かない。
白衣は汗と埃で汚れ、陽光に照らされても神々しさは失われていた。
群衆の手が伸び、彼女の裾を掴む。
セラフィーナの悲鳴が広場に響いた。
「離して! 私は無実よ!」
「無実だと? 贅沢に溺れ、民を欺いたのを我らは聞いた!」
「倹約を説きながら宴を開いていたのは誰だ!」
「王と密会していたのも、お前だ!」
次々に浴びせられる声は、刃より鋭く彼女を突き刺す。
セラフィーナの顔は蒼白になり、膝が崩れ落ちた。
白衣の裾が石畳に広がり、土埃が舞う。
「イレーネ様を処刑する必要はない!」
「断罪されるべきは聖女だ!」
群衆の声は一つになった。
憎悪と怒りが燃え上がり、セラフィーナは逃げ場を失った。
かつて神の代弁者として崇められたその姿は、今や群衆に裁かれる罪人の姿でしかない。
私は処刑台の上でその光景を見下ろし、胸の奥で深く息をついた。
夢で幾度も見た断罪の未来は、今まさに覆されたのだ。
だが、その代償として新たに断罪されるのは、聖女セラフィーナ。
彼女の悲鳴と群衆の怒声が交錯する中、広場には新たな裁きの幕が下りようとしていた。
◇ ◇ ◇
蛍光灯の白い光が、経理部のフロアを冷たく照らしていた。
コピー機の音。
キーボードを叩く音。
電話の呼び出し音。
その中で、私は一人だけ孤立しているような気がしていた。
派遣社員として働く私は、ただ黙々と処理を重ねていた。
名前は森下彩香。
どこにでもいる、平凡な派遣社員だ。
「またあなた? あら、好きな男性社員の申請なら、すぐ経費を通すのね」
背後から投げかけられる声。
経理部の女上司、村上美和。
表情は穏やかさを装っているが、その言葉の端々に棘と見下しが潜んでいる。
鋭いハイヒールの音と共に現れたその姿に、私は肩をすくめた。
「これは人事部長の経費だから必要なのよ。あなたの判断なんていらないの」
淡々と書類を突き返す仕草。
周囲の同僚は見て見ぬふりをしている。
誰もかばわない。
私はただ「はい」と小さく返すしかなかった。
胸の奥で煮えたぎる悔しさを押し殺しながら、ひたすら仕事を続ける。
どうして、こんな理不尽が罷り通るのだろう。
心の声が、冷たい蛍光灯の下で虚しく響く。
だが私は仕事を放り出すことはできなかった。
契約は短期。
いつ切られるかもわからない。
それでも自分の誠実さだけは曲げたくなかった。
ある日、山積みの経費申請書を処理していると、違和感が胸を刺した。
数字が合わない。
領収書の金額が、報告書より膨れ上がっている。
「……これ、どう見ても水増しされてる」
思わず声が漏れた。
背筋に冷たい汗が流れる。
見なければよかったと一瞬思った。
だが、目を逸らすこともできなかった。
指先が震え、書類を掴む手が汗で湿る。
告発すべきか。
それとも黙って見過ごすべきか。

葛藤が胸を焼いた。
昼休み、勇気を振り絞り、村上美和の机へと歩み寄った。
彼女はコーヒーを片手に涼しい顔で書類に目を通していた。
「あの……村上さん。この経費、金額がどうしても合わないんです。確認させていただけませんか」
私の声は震えていた。
美和は顔を上げ、薄く笑った。
「……へえ。派遣のあなたが、私の処理に口を出すの?」
「いえ、ただ……数字が……」
「数字? そんなの私が正しいに決まってるじゃない。あなたに判断する権限はないの」
笑顔の奥に、氷のような冷たさがあった。
私はそれでも視線を逸らさず、震える声で言った。
「でも……これは、不正です」
その瞬間、美和の瞳が鋭く光った。
周囲にいた社員たちが息を呑み、空気が重くなる。
美和はしばらく私を見据えた後、ふっと口角を上げた。
「……ここじゃ話しづらいわね。屋上に行きましょう」
私の背筋に、嫌な汗が流れ落ちた。
◇ ◇ ◇
屋上の扉を開けた瞬間、むっとする熱気が押し寄せてきた。
真夏の太陽が容赦なくコンクリートを焼き、アスファルトからは揺らめく陽炎が立ち昇っている。
ビルの上は、外の喧噪とは打って変わって風の音しか響かず、不穏な静けさに包まれていた。
「で? あなた、何を見たの?」
村上美和の声は、もうオフィスで見せていた穏やかさを欠いていた。
唇は吊り上がり、目は焦りと怒りに燃えている。
ハイヒールのかかとがコンクリートを叩くたび、心臓が跳ねた。
「領収書が……水増しされていました。これは、横領です」
喉が震えたが、私は確かに言葉を吐き出した。
勇気を振り絞り、声を震わせながらも正面から告げた。
美和の顔が一瞬で歪み、厚化粧の下で頬がひきつった。
「……ふふっ、なるほどね」
不気味な笑いが、風に乗って耳を刺した。
美和はゆっくりと歩み寄り、私の目を射抜くように覗き込む。
「あなた、正義感を気取ってるけど……わかってる? もしこの件が表沙汰になれば、『処理したのは派遣の森下彩香』って話にすり替えるのなんて簡単なのよ」
「な……にを言って……」
「派遣が責任を押しつけられるなんて、よくある話。『村上美和は騙されただけ』って言えば、私は被害者になる。あなたは会社から追い出される。そういう算段よ」
冷たい声が、灼熱の屋上で背筋を凍らせた。
胸の奥がきゅっと締めつけられ、息が詰まる。
けれど、美和の顔はさらに冷酷さを増していく。
「それに……もっといい方法があるわ」
「……え?」
「急に走って、屋上から飛び降りたらどうかしら」
美和は笑っていた。
その笑みは人間のものとは思えないほど、薄く、冷たかった。
「派遣社員の森下彩香が、不正を疑われて自暴自棄になり、自ら命を絶った。そう説明すれば、私には何の火の粉も降りかからない」
「そんな……」
言葉を失う私を、美和の瞳が鋭く射抜いた。
次の瞬間、激情が爆発する。
「余計なことを嗅ぎまわるからよ!」
ヒールがアスファルトを叩き、彼女は一気に間合いを詰めてきた。
肩を両手で突き飛ばされ、背中に衝撃が走る。
足元が浮き、世界がぐらりと傾いた。
「きゃあっ――!」
落下の恐怖が全身を貫いた瞬間、反射的に手を伸ばした。
指先が掴んだのは、美和の足首だった。
「いやっ! 離して! 放しなさい!」
必死の悲鳴。
だが私は放すことができなかった。
二人の体はもつれ合い、虚空へと吸い込まれていく。

◇ ◇ ◇
この世界に来てから、私は時折、奇妙な夢を見ていた。
暗い処刑台。
民衆の罵声。
陽光を受けて光るギロチンの刃。
そしてその下に立たされ、断罪される自分の姿。
目を覚ますたび、冷たい汗で枕を濡らしていた。
「なぜ、こんな夢を……?」
夢の中で私は叫んでいた。

必死に民へ弁明するのに、誰も耳を貸さない。
石を投げられ、憎悪の言葉を浴び、やがて首を刎ねられる。
何度も繰り返されるその悪夢は、まるで未来を告げるかのように生々しかった。
これはただの恐怖ではない。
神が私に見せているのかもしれない。
そう思った瞬間、心の奥で何かが確かに動いた。
かつて現世で報われなかった、私という存在。
派遣社員として無力で、声を押し殺して耐えるしかなかった私。
その悔しさと無念が、異世界に渡った今、夢という形で私に警鐘を鳴らしているのではないかと。
この未来を変えよ。
誰かが囁いている気がした。
神なのか。
それとも前世からの自分の叫びなのか。
だからこそ、私は日々を怠らなかった。
表向きは王妃としての務めを果たしながらも、民の声に耳を澄ませ、備蓄を整え、改革の準備を少しずつ進めた。
夢に見た処刑の場面を思い出すたび、心臓が握り潰されそうになったが、その恐怖こそが私の原動力だった。
「夢は未来を映す鏡――」
そう信じることで、私は折れずにいられた。
たとえ誰にも理解されなくても、私の胸の内にあるこの幻影は、確かに私を守るための神のお告げだったのだ。
◇ ◇ ◇
怒号はうねりとなり、広場を埋め尽くした。
民衆の目が一斉にセラフィーナ=ルクレティアへと向かい、その白衣を掴んで引き裂くように彼女を処刑台から引きずり降ろした。
石畳を擦る音と共に、かつて神々しいと讃えられた衣が汚れ、埃にまみれていく。
「やめなさい! 私は聖女よ! 神に選ばれし者なのよ!」
セラフィーナの声はかすれ、悲鳴に変わっていた。
必死に叫んでも、風に散るように空へ消えていく。
群衆は耳を貸さず、次々と声を張り上げた。
「民を欺いたのはお前だ!」
「贅沢をしたのは聖女だ!」
「断罪されるのはお前だ!」
押し寄せる怒声は刃のように鋭く、彼女の全身を突き刺す。
セラフィーナは涙で化粧を崩しながら、違う、私は、と掠れた声をあげた。

しかし民の手に捕らえられ、処刑台の上へ逆に押し込まれていく。
白衣の裾が石畳に絡みつき、無残に裂ける。
瞳には恐怖が宿り、顔は醜く歪んでいた。
私はその姿を処刑台の上から見下ろし、胸の奥で小さく息を吐いた。
燃えるような群衆の熱気の中、心は静まり返っていた。
因果応報。
処刑の場に立っていたのは、私ではなく、美和だったのね。
肩の重石が崩れ落ちるような感覚。
長く囚われていた幻影が、ようやく解き放たれていく。
震えていた膝が、今はしっかりと石畳を踏みしめているのを感じた。
そのとき、隣に立つ王子が私の手を強く握った。
温かな力が指先から伝わり、心臓が熱く打ち鳴らされる。
王子の瞳は誇り高く、揺るぎない信頼と愛情が込められていた。
「イレーネ……君こそ、この国の真の王妃だ」
低く、しかし確かに広場に響いたその言葉。
群衆は一瞬息を呑み、やがて波のように歓声が押し寄せた。
「真の王妃に万歳!」
「イレーネ様、我らと共に!」
「王妃万歳!」
怒号は歓喜へと変わり、石畳を震わせる声は、もはや私を断罪するものではなかった。
私の目に涙が滲み、王子と視線が交わる。
胸の奥から熱いものが込み上げ、嗚咽を堪えながら、私は小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
処刑台を包んでいた怒号が、次第に歓喜の叫びへと変わっていった。
群衆が一斉に拳を掲げ、声を揃える。
「真の王妃に万歳!」
「イレーネ様こそ我らの希望!」
その響きは広場を震わせ、夕刻の空へと吸い込まれていった。
かつて私を断罪しようとした声が、今は祝福と賛美に変わっている。
その変化を、私は胸の奥でしっかりと噛みしめた。
処刑台の端では、かつて聖女と呼ばれた女が押し込まれていた。
群衆の手に縛られ、抗うこともできずに膝をつく。
その上に吊るされた鉄の刃が、夕陽を受けて赤く染まっている。
次の瞬間、広場に鈍い音が響き渡り、人々の息が一斉に止まった。
風が吹き抜け、赤く染まった花びらが散るように衣が揺れる。
女の声は、もうどこにもなかった。
「やったぞ……!」
「偽りの聖女はもういない!」
「イレーネ様こそ、この国の光だ!」
群衆の叫びは歓喜へと変わり、石畳を震わせた。
誰もが涙を流し、隣人と抱き合い、声を張り上げている。
その光景を目にした瞬間、胸の奥に溜め込んでいた重苦しさが、一気に解き放たれていくのを感じた。
王子が私の隣に立ち、しっかりと私の手を握る。
その手は熱を帯び、震えを抑えきれないほどの感情が伝わってきた。
王子の瞳は誇り高く、そして真っ直ぐに私を見つめていた。
「イレーネ……君こそ、この国の真の王妃だ」
低く、しかし確かな響きで放たれたその言葉に、広場が再び沸き立つ。
万歳という叫びが雷鳴のように轟き、空気を震わせた。
「イレーネ様、万歳!」
「真の王妃に祝福を!」
「我らと共に歩んでください!」
夕陽はゆっくりと傾き、赤く染まった空が黄金色に変わりながら広場を照らしていた。
その光に包まれ、私は王子と並び立ち、群衆を見渡す。

民衆の歓声が胸に突き刺さり、熱い涙が頬を伝った。
もう恐怖も、幻影も、私を縛らない。
ただこの瞬間だけが真実であり、努力と信念で勝ち取った未来がここにあるのだ。
私は涙を拭い、民に向かって深く頷いた。
断罪されるはずだった女は、ここで終わらない。
前世で奪われた声を、この世界で取り戻した。
理不尽に押し潰されるだけだった私が、今度こそ、自分の足で未来を選び取ったのだ。
ギロチンの刃は、私の終わりではなかった。
それは、偽りを断ち切るための刃だった。
そして私は、この国の王妃として、民と共に歩いていく。
誰かに選ばれたからではない。
王子に見初められたからだけでもない。
前世の悔しさも、夢の恐怖も、すべてを抱えて、それでも折れなかった私自身の意志で。
玉の輿と笑いたければ笑えばいい。
田舎侯爵家の娘と蔑みたければ蔑めばいい。
派遣社員だった前世の私を、弱い女だと決めつけたければ決めつければいい。
けれど、私は知っている。
理不尽に耐えた者ほど、いざ立ち上がった時に強い。
声を奪われた者ほど、取り戻した一言に力が宿る。 そして、民の前で私は静かに告げた。
「この国を、偽りではなく真実で治めます」
歓声が再び広場を包んだ。
夕陽の中、王子の手が私の手をさらに強く握る。
私はその温もりを確かめながら、まっすぐ前を見据えた。
断罪の鐘は、もう鳴らない。
ここから鳴り響くのは、新しい時代の始まりを告げる鐘だからだ。

