第十九話 ――揺さぶりと取引
音声が止まったあとも、応接室の空気は張り詰めたままだった。
沈黙の中、笠原の喉仏が大きく動き、緊張を無理やり飲み込もうとしていた。
だが、その顔からは、すでに強気な仮面が剥がれ落ちていた。
怜司はゆっくりと口を開いた。
「もし、この音声がNPOに渡ったら――先生、どうなりますかね」
その声音は、脅しではなく、あくまでも静かな問いだった。
しかしその静けさがかえって、笠原の心に冷たい刃となって突き刺さる。
「刑に問われるかは分かりませんけど……被害者は、亡くなってる案件ですからね。騒ぎにはなるんじゃないですかね。少なくとも、法曹界には――いられなくなるかもしれません」
笠原の目が泳いだ。小さく息を吸い、何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。
目の前の男が放つ“静かな怒り”に、ただ呑み込まれていくしかなかった。
「……目的は、金ですか?」
しばらくして、笠原が絞り出すように言った。
その声には、完全に怯えと疑念が混ざっていた。かつての自信家の弁護士の面影は、そこにはなかった。
怜司は首を横に振り、小さく笑った。
「いいえ。先生、目的は“清算”です」
言葉を切り、スマートフォンの画面をゆっくりと消す。
「まず一つ。カレン・エレクショネスさんのご家族に、四十万ペソ。日本円で約千万円を送金してください」
笠原が目を見開いた。
「……そんな大金、どこに……」
「先生、あなたなら分かるでしょう。あの人が、どうして“こんな言葉の通じない国”にまで来て働かなきゃいけなかったか」
怜司の声が、ひときわ鋭くなった。
「多くの外国人と関わりを持ってきたあなたなら、わかるはずです。なぜ、そんな無理をしてまで彼女が生きようとしていたのか。――だから、責任を取ってください」
そして静かに、もう一言を重ねた。
「……送金の期限は一か月でお願いしますよ。何せ、フィリピン人にとって娘は“出稼ぎの大黒柱”ですからね」
笠原は唇を噛んだまま、何も言えなかった。
怜司は一拍おいて、さらに続けた。
「それと、もう一つ」
笠原の視線が怜司を再び捉える。
「……あなたが過去に関わった、ある裁判について教えてください」
笠原の目が僅かに揺れた。言葉を飲み込み、次に出てくるべき言い訳を探している。
「それさえしてくれれば、この件を第三者に漏らすことはありません。もちろん、NPOにも、弁護士会にも、フィリピン大使館にも」
その“静かな圧”に、笠原の肩がついに落ちた。
その瞬間、部屋の中で誰にも見えないカレンの霊が、怜司の背後で微かに息を吐いた気がした。
応接室に沈黙が戻った。
壁時計の針がわずかに音を立てて進む中、笠原は背もたれに体を預け、天井を見上げたまましばらく動かなかった。
やがて、息を長く吐き出すようにして、ぼそっと独り言のようにつぶやいた。
「……ここまで準備されて、外堀を埋められてしまったらね」
それは敗北の自覚と諦念が入り混じった声だった。
威厳も、自負も、今の彼には残っていない。ただ、追い詰められた者の哀れな独白だけが、部屋の空気に重く残った。
数秒の沈黙ののち、笠原は視線を怜司に戻し、眉を寄せたまま低く尋ねた。
「で……もう一つの聞きたい事とは、何だ?」
その声音には、わずかに諦めと警戒が混在していた。
怜司は静かに頷き、間を取ってから口を開いた。
「……大泉まどかさんと、赤松達彦氏との民事裁判についてお聞きしたい。かつて南洛大学に通っていたオカルトサークルのメンバー同士の損害賠償請求の一件です」
その瞬間、笠原の目の奥が鋭く細まり、顔から表情が消えた。
頬の筋肉がわずかにひきつり、呼吸が浅くなる。
「あの裁判の話には……関わりたくないな」
言葉を絞り出すように呟くと、彼は顔をわずかに背け、唇を噛みしめた。目は机の木目をじっと見つめている。
その動きがすべてを物語っていた。無関係な者の反応ではない。
――やはり、“何かある”。
怜司の中で、確信が強まった。
その空気を敏感に察したのか、笠原はふいに怜司に視線を戻し、探るような口調で言った。
「……そもそも、カレンさんの件もそうなんですが、なぜ南洛大学関連の民事裁判にも首を突っ込んでるんですか?」
その声には、さっきまでの諦めとは違う、底知れぬ警戒がにじんでいた。
目の奥が研ぎ澄まされ、まるで獲物の動向を読む狩人のように怜司を観察していた。
「……君、一体どこまで知ってる?」
問いの裏には、「話してはいけない何かに触れてしまったのでは」という不安が滲んでいた。
怜司は肩をすくめ、少し芝居がかった笑みを浮かべながら、あえて軽く答えた。
「いや、“黒岩”のことを調べてましてね」
その名を口にした途端、笠原の表情が凍りついた。
顔色がわずかに青ざめ、唇の端が震えた。
「……なんだって?」
声がかすれた。怜司は一言も返さない。ただじっと、笠原の目を見据えていた。
沈黙。
やがて笠原は、視線をそらし、深く、重く息を吐いた。
そして目を閉じたまま、低く呟くように言った。
「……悪いことは言わない。関わらない方がいいよ」
その言葉には、真剣な“恐れ”があった。
単なる助言でも、脅しでもない。あれほどまでに人を追い詰めてきた男が、心から出た警告として発したもの。
怜司の胸の奥に、じわじわと冷たい波紋が広がっていく。
――黒岩。
その名がただの通過点ではなく、カレンの死、まどかの裁判、そして南洛大学の闇のすべてと、深く繋がっている。
怜司は、確信した。
この男はまだ何かを隠している。そして、それを口にするには、さらなる“代償”が必要なのだと。
笠原はしばらくのあいだ沈黙していた。
背もたれに深く体を預け、片手でこめかみを押さえるようにして目を閉じていた。
まるで、記憶の奥底から、封じ込めた何かを引っ張り出そうとしているかのようだった。
やがて、ふっと浅い息を吐くと、静かに立ち上がった。
怜司は無言でその動きを目で追った。
「……少しだけ、お待ちください」
笠原はそう言い残すと、ドアの外へと出ていった。
数分もしないうちに戻ってきた彼の後ろには、先ほど受付にいた庶務の女性が続いていた。
笠原はその女性を室内へ招き入れると、耳元で小さく何かを囁いた。
彼女は真剣な表情で何度か頷き、怜司には聞こえない小声で「分かりました」とだけ言うと、再び静かに部屋を出て行った。
笠原は扉が完全に閉まるのを待ってから、自席に戻り、やや緊張を含んだ声で言った。
「……記録には残っていないこともある。うる覚えの部分もあるが、君がどこまで迫っているのか試す意味でも、話せることは話そう」
彼の目に宿ったものは、覚悟と諦念がないまぜになった色だった。
そして怜司は、ようやく本題の核心が近づいてきたことを感じ取った。
応接室に、再び小さくノックの音が響いた。
「失礼します」
先ほどの庶務の女性が、今度は紺色のバインダーに挟まれた数十枚の書類を抱えて現れた。手渡されたファイルを受け取った笠原は、無言でそれを開き、数ページをめくる。
古びた印字と、朱書きの記録。
年月の経過が滲んだ紙面に、彼の指がそっと触れ、静かに止まった。
何かを思い出すようにまぶたを伏せ、数秒の沈黙。
そして、怜司を見ずに語り始めた。
「……あの件はね。弁護した大泉まどかにとって、実に可哀そうな案件だったよ。だから、俺は引き受けた」
声は穏やかだったが、どこか自己弁護の色も混じっていた。
「君が思っているほど、俺も悪い人間じゃない。信じろとは言わないがね」
怜司は黙ってその言葉を受け止めた。
笠原は指先でページをなぞりながら、続けた。
「知ってるかもしれないが……あのサークルの活動は、常軌を逸していてね。ホラーだの心霊スポットだの、外から見ればただの遊びに見えたかもしれないが、実際は違った」
そこには嫌悪すら滲む語気があった。
「……あのオカルトサークルは、黒岩を頂点にした、ある種の支配構造ができていた。代表の黒岩、そして訴えられた赤松……あの連中にとって、あのサークルは“性のはけ口”のようなものだった」
怜司はわずかに表情を引き締めた。
「そして、その赤松と……付き合ってしまったのが、大泉まどかだった」
笠原はページから目を離し、初めて怜司の目をまっすぐに見据えた。
「まどかは、最初こそ普通の恋人関係だと思っていたようだ。でも、赤松は……DV、モラハラ、束縛。徐々に彼女を壊していった」
怜司の喉がかすかに鳴った。
「……子供まで、身ごもったんだよ。赤松の子を」
淡々と語る笠原の声音に、わずかな震えが混じる。
「だが、それを知っても赤松の暴力は止まらなかった。むしろ、ますます過剰になっていった。ある日、彼女は階段から突き飛ばされ……そのまま、流産した」
沈黙。
怜司は、ただ息を飲んだまま動けなかった。
「そして、別れを決意した直後だった。
……黒岩、赤松、そしてサークルの取り巻きたちに――まどかは、レイプされた」
語尾は絞り出すようだった。
その重すぎる言葉は、応接室の空気を沈ませ、ただの紙資料には収まりきらない、深い痛みを伴っていた。
怜司の胸に、怒りとも悲しみともつかない、強くて冷たい何かが、音もなく根を下ろした。
笠原は静かにバインダーを閉じた。
そして、指先で机の端を軽く叩くと、目を伏せながら呟いた。
「……奴らのしたこと。特に赤松の鬼畜の所業を見れば、まどかのためにもとことん損害賠償金をとってやろうと、本気で思っていたよ」
その声音には怒りの余韻が微かに残っていた。
「法的に見ても、証言も状況証拠も揃っていた。取れる案件だった。……勝てると、思っていた」
怜司は静かに相槌を打つ。
「……実際に裁判は勝った。勝ちはした。だが――得られた賠償金は、スズメの涙だった」
笠原は顔を上げ、怜司をまっすぐに見据えた。
その視線には、怒りとやり場のない悔しさが滲んでいた。
「何故だと思う?」
怜司が眉を寄せたまま黙っていると、笠原は自嘲気味に肩をすくめた。
「……黒岩。いや、正確には“黒岩太郎”――あいつの父親だ」
その名に、怜司の胸の奥が再び冷たくざわめく。
「圧力を司法に加えたんだ。『なにとぞ穏便に』って言ったかどうかは知らんが、現場にはそうとしか取れない空気があった」
笠原はゆっくりと立ち上がり、応接室の窓際に歩み寄った。
カーテンの隙間から外を見つめながら、低い声で続ける。
「黒岩太郎ってのはな、当時――法務副大臣だったんだ」
「法務副大臣……」怜司が反芻するように呟いた。
「表向きは温厚で理知的な人物として知られていたが、実際は総理に近い男とも言われていた。与党の司法族議員の筆頭で、検察・裁判所・法務省――全部に顔が利く」
笠原は振り返り、苦笑のような表情を浮かべた。
「法曹界にとって、黒岩太郎に逆らうというのは死を意味する。そういう世界なんだ。狭くて閉じた、どうしようもなく小さな世界だよ」
「……京都地裁の裁判官なんて、あの男からすればたわいもない存在。俺もだ。彼の前では皆、沈黙するしかなかった」
怜司は言葉を失っていた。
司法という制度の内側に、ここまで強大な“圧力”が存在していたという現実。
笠原は再びソファに腰を下ろし、静かに目を閉じた。
「その後、まどかから少し聞いたんだ」
「……“サークルの幹部に逆らって、消された人間もいる”。そう言っていたよ」
怜司の背筋が、思わず強張る。
「それ以上は……『もう、いいです』って彼女は言った」
笠原の声が、初めて弱さを含んだ。
「そして……彼女は、精神を病んだと聞いている。今はどこにいるのかも分からない」
そして最後に、笠原はぼそりと付け加えた。
「……ちなみに息子の黒岩進一郎は、今あの太郎の第一秘書をやってる。議員としての後継者とも噂されてるよ。近いうちに選挙に出るらしい。着々と跡継ぎの道を歩んでいる、ってわけだ」
その言葉は、重く、どこまでもやるせなかった。
誰も守れなかった過去。
裁けなかった罪。
この応接室の空気は、もうとっくに法という言葉だけでは処理できない闇に染まっていた。
