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第61話(今宵の一膳)遊食楽酒 樹里(山形市香澄町)―ひとり山形で過ごすいい夜はこの店から始まった

静かな夜に

この日も仕事を終え、歩いて山形国際ホテルにチェックインした。
荷物を部屋の隅にそっと置き、すぐに香澄町へ向かう。

角松敏生の「I'm gonna dance to break out of loneliness feat. 亜季緒」が似合う、 そんな香澄町の夜が確かにあった。

「樹里」の前まで来ると、 いつものカウンターの席に腰を下ろした。
ママが変わらぬ笑顔で迎えてくれる。

「最初の一杯は生ビールを」と頼む。
しばらくして、冷たく冷やした銀色の金属グラスに 淵ぎりぎりまで注がれたビールが出される。
一口飲んだ瞬間、ようやく一呼吸できた。

最初にこの店に来たのは4月の末だったと思う。
香澄町の中華料理店「五十番」の前に行列ができていて、 並ぶ気になれず振り向いた先に「樹里」があった。
その佇まいがどこかアットホームで、 “ここなら大丈夫だ”と感じたのがきっかけだった。

山形に通い始めた頃は、まだこの街の輪郭が掴めず、 夜の歩き方にも慣れていなかった。
駅前から香澄町へ向かう道は、昼の喧騒がすっかり引き、 湿度を含んだ夜風がゆっくり流れていた。

その静けさが、山形の夜を深くしていた。

そして今―― 9月末、山形出張の終わりが近づいている。
この街の夜に少しずつ馴染んできた頃に、 別れの気配が静かに忍び寄ってくる。
樹里の暖簾をくぐるたび、 「もうあと何度来られるだろう」と思うようになった。


1.樹里という店について

樹里は、カウンター中心の小さな店だ。
広くはないが、肩の力がすっと抜けるような空気がある。
ママの気さくさ、常連の距離感、
そして香澄町らしい“夜のやさしさ”が店の隅々に漂っている。

店名の「樹里」は娘さんの名前だと聞いた。
その響きが店の雰囲気と不思議なほどよく合っている。
初めて訪れた夜、 「ここなら大丈夫だ」と思えた安心感は今でも忘れられない。


2.夜の樹里

夜の樹里は、料理の湯気と常連の笑い声が混ざり合う、 香澄町らしい“夜の温度”を持っている。

芋煮

山形の芋煮は店ごとに味が違う。
樹里の芋煮は脂の角がすっかり取れ、 やわらかく静かに染みてくる味だった。
カウンターで煮込みをつつきながら、 常連の会話が耳に入る。
その距離感が心地よかった。

牛ステーキ

鉄板でじゅっと焼かれる音が夜の始まりを告げる。
山形の牛肉らしい甘さが噛むほどに広がる。
「今日はいいの入ってるよ」とママが出してくれた夜があった。
その一言が、なぜか嬉しかった。

いか焼き

香ばしい匂いが店に広がる瞬間、 香澄町の夜が少しだけ賑やかになる。
生姜と醤油のやさしい味付け。
いかは好きな食材のひとつ。
樹里のいか焼きは、どこか懐かしいかほりをまとっていた。

焼きそば

締めにいただく焼きそばは、夜の終わりをそっと告げる存在だった。
香澄町の夜を歩き出す前に、 もう一度、湯気の向こうのママの笑顔を見る。
こんな夜が、山形・香澄町ではいいと思った。


3.お嬢さん(樹里)の営む昼の樹里

6月、ママのお嬢さんが店名の由来だと聞いた。 彼女には2人のお嬢様がいて、いつかこの店を継いでくれれば
―― そんなことを思った。

昼の樹里は、夜とはまったく違う表情を持つのだろう。
差し込む光が店内を明るくし、 娘さんの丁寧な接客が静かな昼の時間をつくる。 仕事の関係でランチタイムに訪れられなかったのが、 今となっては少し残念だ。

煮込み定食

夜の煮込みとはまた違う味わいだと聞く。 ご飯と味噌汁、煮込みの湯気。
昼の樹里は“家の食卓”のような安心感が写真から伝わってきた。

冷やし牛蕎麦

山形らしい“冷やし文化”を感じる一品。
牛肉の旨味と冷たい蕎麦の組み合わせが、 夏の香澄町の昼を思い出させる。
静かで涼しい時間――そんな情景を想像してしまう。

夜にたまたま出逢ったお嬢さんの人柄は、 夜のママとはまた違う温度を持っていた。
親子で店を営む温かさが、 昼の樹里にも静かに満ちているのだろう。


4.紹介いただいた香澄町の店たち

樹里で紹介いただいた店はどれも思い出深い。
香澄町の“夜の地図”が少しずつ広がっていったのは、 樹里のおかげだと感謝している。

エスプリ・ドゥ・カンパーニュ

香澄町のビルの2階にある「エスプリ・ドゥ・カンパーニュ」。
樹里から徒歩3分ほど、 夜の風に押されるように階段を上がると、 22席ほどの落ち着いた空間が広がっている。

カラオケの音が静かに響き、 常連が歌う昭和歌謡の余韻が店の奥に溶けていく。
樹里とはまた違う、 「夜の香澄町のもう一つの顔」を見せてくれる店だった。

たぬき

香澄町で「温かい店」といえば、 誰もが名前を挙げる「おでん たぬき」。 小さな看板を頼りに歩くと、 お母さんが一人で切り盛りするおでん鍋が迎えてくれる。

「実家のような安心感」があり、 初めて訪れた夜でもどこか帰ってきたような気持ちになった。
大根、豆腐、ちくわ――どれも出汁がしっかり染みている。
樹里の煮込みとはまた違う、 香澄町の“静かな温度”を持つ店だった。

樹里に紹介いただき、お世話になった店は他にもいくつもある。 いい山形香澄町の夜を満喫させていただいた、そんな店たちだった。


5.終わりに

樹里は、山形香澄町の夜を好きになった最初の店だった。
出張の疲れをそっとほどいてくれた場所。
香澄町の灯りの色、ママの声、煮込みの湯気。
そのすべてが、山形の記憶の核になっている。

9月末、山形出張の終わりが近づく。
この街の夜に馴染んできた頃に、 別れの気配が静かに胸に落ちてくる。
樹里のカウンターに座るたび、 「また来てね」と言われているような気がした。

そんな余韻を胸に、香澄町の夜を後にした。


参考

香澄町を思い出すために。

樹里Instagram

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