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日光道中・奥州道中 その26「かごまりの 音色待ちわび 古鳥居(千住宿~草加宿)」

 「国土安穏寺」は、徳川幕府との関係の深い寺院ということもあり、境内には、徳川家の菩提寺であった上野の寛永寺(東叡山)から移された石灯籠があります。

 「徳川の灯籠」などと呼ばれる石灯籠。
 本来は、将軍家の菩提寺・上野「寛永寺」や芝「増上寺」に設置されていたものです。
 江戸時代、将軍の葬儀の際などに、全国の大名から、将軍の菩提寺に石灯籠が寄進されました。

(これらの石灯籠は、寄進した大名が異なっても、同じ規格・形式のものが並んでいるため、幕府による公式・非公式な決まりごとがあった?と想像してしまいます)

 このように、本来は寛永寺や増上寺の石灯籠ですが、明治時代以降、寛永寺や増上寺の敷地が縮小されたこともあり、寛永寺や増上寺に関わりをもった人々や、徳川家にゆかりのある寺社などへ石灯籠が引き渡されることがありました。

奉献 石灯籠 壹基
武州 東叡山(※寛永寺のこと)
有徳院殿(※徳川吉宗のこと) 尊前
寛延四辛未年六月二十日
(※西暦1751年 辛未は干支)
奥州棚倉城主
小笠原内膳源長明
(※「小笠原」の家
「内膳」の官職
「源」つまり源氏一族の
「長明」という名前)
先ほどの灯籠と対になる場所
石灯籠 二基
有徳院殿 尊前
寛延四辛未六月二十日
(ここまでは同じ)
加賀國大聖寺城主
従五位下
松平備後守菅原朝臣利道
(※金沢の前田家の分家「大聖寺藩」
の前田家ですが、当時、公的な場では
幕府から与えられた「松平」を使う。
前田氏は、菅原道真の末裔と
称していたため、「姓」は
「菅原」を名乗っていました。

 このあたりで、境内から出て街道に戻りましょう。

静かな境内から
交通量の多い街道へ
交通安全・飛び出しには
気を付けましょう


街道散歩をしていると
とにかく何でも気になるもの。
覗き込んだり撮影したり
忙しくなりますが、
不審な人としてロックされない
ように注意しましょう(?)
由緒ありそうな建物に興味津々ですが
あまり覗き込んだりすると
不審がられてロックされますよ・・・
実際に、由緒ある長屋門なのです。
ただし、住民の暮らす家屋ですので
踏み込んだりせず眺めましょう。

 街道の少し先の脇道に入ると、鷲神社の大きな鳥居が見えてきました。

笠間市稲田の石材会社により
施工されたもの。
笠間市稲田は、稲田石の産地
として知られる茨城県の町。
稲田石は、花崗岩の一種で
「白御影石」とも呼ばれます。

(参考:稲田石について。
 6000万年前の地下深くのマグマに由来する花崗岩による鳥居です)

 境内へ入ります。


 案内板や、神社の由来のサイトを見ていると、神話に描かれる太古の時代、この地まで海が広がり、海岸線や「浮島」のある情景が思い浮かびます。
 
 近くの地名の「田んぼの中の丘が島のように見える」ことに由来するという説の「島根」にも繋がりそうで納得しました。
 
 そして、鎌倉時代や室町時代には島根村の鎮守の記録が残り、江戸時代には徳川吉宗が鷹狩りの際に立ち寄り、その吉宗に賞賛された寺子屋が設けられていたそうです。


  

大きな石灯籠
総重量35tの石灯籠
アフリカ象(7t)5頭
浅草雷門の提灯(700kg)50張り
ちなみに、信楽駅前にそびえたつ
高さ5mの大きな信楽狸は9tなので
巨大信楽狸4匹分の石灯籠なのです・・
ちなみに、この灯籠も、鳥居と同じく
茨城県の石でつくられています。



享和二年(1802年)の銘が残る鳥居。



境内には冨士塚もあります。
表記は「富士」ではなく「冨士」



富士山から帰還した島根冨士講の
人々を出迎えるときも披露された
という「島根ばやし」の記念碑。

 碑文を詠みつつ、昭和五十年の大祭で復活した「かごまり」とは何ぞや?と検索すると、太神楽(だいかぐら。神社で行われる歌舞音曲に由来し、江戸時代には獅子舞や曲芸、傘回しなどの芸能として各地に広まる)の一つで、籠と鞠を使う演目「籠鞠(花籠鞠)」があり、これのことかな?と予想しました。

 (以下のサイトから「花籠鞠」を見つましたが、この石碑の「かごまり」が、この「花籠鞠」でいいのか違うのかは分かりません。あしからず。)
 
(とりあえずは、この境内に「花籠鞠」の賑わいが鳴り響いていた情景を勝手に想像しつつ)