日光道中・奥州道中 その30「富士塚に 足跡いくつ 花吹雪(千住宿~草加宿)」
日光街道の瀬崎地区を進み、道の右側(東側)に神社の木々が見えてきました。

休憩を兼ねて立ち寄ります。

さて、この神社の由来は?と見渡すと、「冨士浅間神社」にまつわる案内板を見つけました。

案内板に登場する事柄をたどりましょう。
この神社の記録がある「新編武蔵風土記」は、江戸幕府が作成した武蔵国の地誌で、文化七年(西暦1810年)から、幕府の学問所「昌平坂学問所」に設けられた「地誌調所」により武蔵国の各地で実地や文献の調査が行われ、20年の歳月を経て文政十三年(西暦1830年)に完成して将軍に献上されたものです。
なお、江戸幕府は、奈良時代につくられた各国の地誌書「風土記」にならい、「江戸時代版」の全国の風土記の作成を計画しましたが、新編武蔵風土記に引き続いて、西暦1841年頃の「新編相模風土記」の完成を最後に、その他の国の「風土記」は刊行されずに幕末を迎えました。
(幕末に近づく情勢下、各国に調査員を派遣して風土記を作成する事業は続けられなくなったのでしょうか?)
案内板の続きへ。
「別当の善福寺」は、江戸時代や、それよりも古い時代、神社と寺が厳密に区切られていなかった頃、お寺の僧侶が神社の管理に携わることも多く、そのような「神社を管理するお寺」を「別当寺」と呼んでいました。
「別当」、つまり「別に当たる」という文字で、本来の職務を持つ者が、「別」の職務にも「当たる」といった意味合いのようです。

瀬崎浅間神社から道を隔てた北側にあります。


その隣の「さるさる塔」庚申塔

台座にお猿さんが記されています。
正徳三年八月(西暦1713年)の文字。

こちらは元禄四年(西暦1691年)の文字。
「別当寺」の制度は、明治時代になり、明治政府により神社と寺を分離する命令が出され、それぞれの敷地や管理者も厳密に区別されたことで失われました。
現在は、瀬崎浅間神社と善福寺は、別々に管理され、敷地も別々に区切られています。
さらに案内板の続きへ。
「浅間神社」は、富士山にまつわる神社として各地にありますが、この瀬崎浅間神社も富士山と関わりがあることが記されています。
「本山派修験」は、「山伏」で知られる、山岳での厳しい修行を積む「修験道」の一つで、京都「聖護院」に連なる宗派、「富士行人」はその修行のため富士山に登る修験者です。
なお、「聖護院」の文字を見て「大根」を連想しましたが(私だけ?)、この「聖護院だいこん」は、江戸時代の文政年間(西暦1818年~1830年頃)に、「聖護院」の近くの農家が、尾張国から京都へ届けられた大根を譲り受けて栽培したことに由来し、丸々とした玉のような形で、煮物に適した風味があるそうです。
富士講の開祖として名前が記される「角行東覚」は、富士吉田の浅間神社で名前を見て、強烈な生涯に驚いた記憶がありますので、その案内板を揚げておきます。

長崎から奥州まで修行の旅をし
富士山麓などで厳しい荒行を積む。
その鍛え方の賜物なのか
百六歳で大往生を遂げた人物。
瀬崎浅間神社の案内板に戻ると、本殿には見事な破風や彫刻があるそうですが、建物の保護のためか、本殿は覆いをかけられており、彫刻などを目にすることはできませんでした。
神社の境内へと入り、次の案内板を見つけました。

大正五年(西暦1916年)につくられた「富士塚」と、瀬崎で受け継がれてきた富士山への信仰「冨士行」についての案内板です。
そして、案内板の背後には、迫力のある富士塚が鎮座しています。

この富士塚は、山開き(7月1日)の日でも
一般開放はされていないようで
足跡を残す機会はなさそうです。


石段の石が小さめで、ゆるやかに
曲がりくねりつつ登っていきます。

石段の石が大きめで、直線的に
最短距離のように登っていきます。
https://sengenjinja.com/%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%be%a1%e7%94%b1%e7%b7%92
瀬崎浅間神社のサイトから。
旧入間川(毛長川)と旧荒川(綾瀬川)の自然堤防につくられた村落の地なのですね。
南の毛長川と、東の綾瀬川の合流点に挟まれた地に鎮座する神社と、その神社近くの「自然堤防」を通る街道です。

富士塚の近くにつくられた「浅間庭園」

庭園を眺めて一休みするのも良いものです♪


桜のいろどりも楽みつつの
春の散歩でした。
