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日光道中・奥州道中 その20「道標よ あなたの二丁は いずこから(千住宿~草加宿)」

 日光街道沿いの「八彦尊道 是より二丁」道標から、住宅街の路地をしばし進み、「二丁(約218メートル)」の2倍、400メートルくらい歩いたところで、ようやく、それらしきお寺が見えてきました。

 明王院(萬徳山梅林寺明王院)です。

 お寺の由緒によると、治承二年(西暦1178年頃)に、源氏一族の源義広(源頼朝・源義経、木曽義仲の叔父にあたる人物)によりつくられたそうです。

 源義広は、常陸国の信太(しだ)郡を拠点として、霞ケ浦の南西側、今の茨城県の稲敷市から土浦市の付近を勢力範囲とした武家で、本拠地の地名から「信太義広」や「志田義広」とも呼ばれていました。

 源義広は、源氏の一族とはいえ源頼朝とは疎遠で、「源頼朝の旗挙げ」には参陣せず、その後、頼朝との対立が深まり、下野国の野木宮(今の栃木県の南端に近い「野木神社」付近、日光街道の野木宿)の合戦で、頼朝側についた小山氏(日光街道の小山で多分出てきます)や下河辺氏(日光街道の古河あたりで多分出てきます)の軍と戦い敗北。
 その後、源義広は常陸の領地を失い、木曽義仲(義広と同じく、頼朝と対立していた)の勢力下に入り、木曽義仲と行動を共にした後に敗死しますが、源義広の生き残った末裔が梅田氏を名乗り、明王寺を受け継いだといわれています。 

 

本堂(不動堂)
現在の本堂は昭和48年に再建された。
江戸時代の本堂も朱塗りで「赤不動」と呼ばれたそうです。


明王院境内の案内板
明王院の由来や、お寺に伝わる仏像や文化財などについてまとめられています。

 明王院の由来。
 空海(弘法大師)がひらいた真言宗のうち、豊山派(戦国時代の動乱を経て、奈良県の長谷寺を総本山とした一派。豊山とは、その長谷寺のこと。)に属し、感得不動明王(空海が自らつくった仏像と伝わる)を本尊とするお寺です。


 さらに境内を歩いて、このお寺に寄り道するきっかけとなった道標に記された「八彦尊」を祀るお堂を見つけました。

 「八彦尊」は、子供の咳止めに御利益があるという話があるようです。
 道標に記されていた「子育」の文字は、その御利益に由来するのかな?

八彦尊の祠の由緒を記す石造物
「行方家」が奉納したことなど記されているようです。

 結局のところ、街道から矢彦尊までの距離が二丁(約218メートル)と記された道標の意味は最後まで判明しませんでした。

 検索すると、例の道標、元々は荒川の土手の近くにあり(荒川放水路の開削後、つまり昭和期に設置されたもの?)、そこから現在地に移されたと説明するサイトが複数あります。
 ただし、いずれも、道標が元々あった場所の特定や、道標が移設された理由や経緯についての言及はなく、道標が移されたという話については、今の所、これだ!と納得できる根拠のある話は見つけられず、保留にします。

(街道本によっては、道標ではなく、道標の横の地蔵が荒川土手から移されたと記している本もあり、さらに分からなくなってきています・・・)

 地図を見ると、明王院から荒川土手までの最短経路は二丁(約218メートル)ほどの距離で、距離的には矛盾はなさそうですが、自分の中では、この道標は、結局、よく分からないままでした。

 とりあえず、この道標に気づかずに街道を進んでいたら立ち寄らなかったお寺に立ち寄り、源氏の一族同士の戦いに敗れてこの地に名を残した武家の話(源義広は、源為義の三男で、源義朝と源義賢の弟という、系図では重要な位置を占める人物ですが、これまで読んできた歴史の本や小説では見た覚えがなく、今回初めてその存在を知りました)や、弘法大師に由来すると伝わる仏像を本尊とするお寺の話を知ることができたので、寄り道も良きとしておきましょう。 

 さて、寄り道から街道に戻ったら、たぬき酒場で一息つきましょう。